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【夢を追いかけるあなたに伝えたいこと。必ず掴める!】 [my opinion]

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【夢を追いかけるあなたに伝えたいこと。必ず掴める!】2015.12

映画監督になりたい! 高校時代にそう思った。では、どーすれば映画監督になれるのか? その話は以前にも書いたが、日本映画黄金時代は映画会社に試験を受けて入社。10年ほど助監督経験をして、ようやく監督をさせてもらうというシステム。黒澤明監督も、大島渚監督らもそのコース。しかし、映画産業が斜陽になってから、そのシステムは崩壊。映画会社に所属する監督はほとんどおらず、社員監督は取らなくなった。

現代は大学や専門学校に映画コースがあり、多くの若者がそこで学ぶ。が、卒業して映画監督になれるものでもない。学校が就職を世話してくれる訳でもない。そこまでは、高校時代にいろんな本や雑誌で調べて分かった。でも、これでは映画監督になる方法が分からない。そこで、アメリカの映画監督の経歴を調べた。スピルバーグは以前に書いたので省く。

ジョン・ランディス(アニマル・ハウス、ブルースブラザーズ)は撮影所でメールボーイをやっていて、そこからチャンスを掴む。コッポラはUCLAの映画科時代から、プロデュサーであるロジャーコーマンのスタジオで働いていて、B級映画を撮るようになった。ジェームス・キャメロンも同じ。ウイリアム・フリードキンはドキュメンタリー映画の会社で働いていた。アラン・パーカーはもともと広告代理店の社員。

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ま、ハリウッドの事例が日本で応用できるとは思わなかったが、調べた。では、日本ではどうすれば映画監督になれるのか? 親戚に映画関係社もおらず、ツテを頼って元映画プロデュサーだった人も訪ねたが、昔の自慢ばかりされて、何の役にも立たなかった。

おまけに帰り際には「まあ、諦めが肝心だな」とまで言われた。そんなこんなで、とにかく、映画の専門学校に行った。大学の映画科も考えて、夏休みに見学に行ったが、そのキャンパスを歩いている学生たちを見て「ダメだ。こりゃ!」と思えて、一番まともそうな専門学校を選んだ。

その頃から僕は傲慢で、その学校も1学期で愛想が尽きた。「こんなところで学んでも何のプラスにもならない!」と18歳のガキなのに、そう感じて登校拒否。当時、ブームだった自主映画を始めた。教室で年老いた先生たちの映画論を聞くより自分で作る方が意味あると思えたのだ。というのも、8ミリ映画を撮っていた学生たちが、メジャー映画を監督するという事件が数年前にあったからだ。

日活で「高校大パニック」を監督した石井聰互。「オレンジロード急行」の大森一樹。2人とも助監督経験はなく、8ミリ映画を撮っていて、いきなりプロの監督に抜擢された。そこにはハリウッドでスピルバーグやルーカスのように8ミリ学生映画をやっていた若い監督がヒットを飛ばしたという背景があり、日本でも若い人にチャンスを!というものだった。

が、その後も、森田芳光、手塚真、今関あきよしら、8ミリ映画出身の監督が続々とデビューした。その波に乗ろうと多くの大学生たちが学生映画を作った。それまでなかった「映画監督への道」が開けたのだ。にも関わらず興味深いのは、監督になりたくて映画学校に通う若者たちは、そんなムーブメントが起きているのに、8ミリカメラを手に取ろうともせず、毎日、勤勉に学校に通い、授業を受け続けていた。

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卒業したからと、映画会社に就職できる訳もなく。当然、映画監督へのパスポートがもらえる訳でもない。なのに、黙々と授業を受ける。意味が分からなかった。のちにその中で監督デビューした者が1人いるらしいが、あとは皆、夢破れて行った。どう考えても目標に向かっていない道をなぜ歩み続けたのか? 僕には理解できなかったが「夢を追う」といいながら、多くの若い人は夢には繋がらない努力をしていることが多い。

といって、学生映画を作ればプロになれるのか?というと、それももの凄く厳しいものがあった。結果としてプロになれたのは20人くらい。それでも僕が高校生のころは「監督への道」は全くなかったので、スゴイと思うのだが、本当に実力のある連中が、それもチャンスを掴むことができ、出会いがあった人たちだけが「監督」へのパスポートを勝ち取り、デビューした。

僕はそこで落ち零れた。まわりでは少しずつ認められて来ていたが、デビューした人たちは、素人なのに、日本全国の映画学生が名前を知るような存在。僕なんて遠く及ばなかった。そんな選ばれた若者たちも、監督した作品がヒットせず。1本で消えて行く者。2本で終わる者が出て来て、スピルバーグのような大ヒット作を監督する者はおらず。業界的にも「やっぱ、8ミリ撮っているくらいじゃダメだな」ということになり、学生映画ブームも終ってしまう。

僕はそのブームの中でデビューすることはできず。大きなチャンスを失う。「映画監督への道」は閉ざされた。まじめに映画学校を卒業した友人たちもスタッフの仕事に着いた者はいたが、多くは映画以外の仕事に就職。夢破れた者がほとんどだった。また、業界に入れても、昔のように10年助監督をしたら監督になるというシステムもなく。そこから監督になった人は僕のまわりにはいない。

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絶望的な状況。どーするべきか? いろいろ考えて「アメリカに留学しよう!」と決意するのだが、ここからが太田物語・第2部「ロスアンゼルス編」になるので、また別の機会に書きたい。波瀾万丈の物語なのだが、いずれ。ただ、この章まででいえることがある。本当に目指すものがあれば、夢があれば、おとなしく学校で勉強しているだけではダメだということ。チャンスがあれば、それに賭ける。そのチャンスをうしなっても、方法論を変え、アプローチを変えて、時代に合わせたやり方でがんばることが大切だということ。

そして本当に夢を追うのなら、5年や10年で諦めないことだ。「えーーそこまでしなきゃダメ?」と思うのなら、今諦めた方がいい。僕の場合はアメリカに6年。帰国してアルバイトをしながらシナリオを書き5年がかりで、脚本家になり、さらに10年かかって映画監督デビューした。自分でも呆れるほど年月がかかった。ま、僕の場合は要領が悪いとか、頑固で、傲慢だから、いろいろと難しかったとは思う。

ただ、言えるのは考えて考えて、考え抜けば、必ず答えが見つかり、道が見えて来るということ。僕は決して一流大学出身でもなく、8ミリ映画コンテストで入選したこともない。それでもたどり着けたのだから、きっと、あなたも夢を掴むことができるはず。大切なのは「努力」ではない「方法論」だ。その正しい方法論で前に進む。そこで初めて「努力」が必要となり、チャンスや出会があって、ゴールが見えて来る。

もちろん、ゴールは新たなるスタートではあるのだが、まずはそこまで行けるはずだ。大事なのは「方法論」ー考えること。そして時代の風を読むことだ。そう思えている。



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人間関係でトラブル「卑劣な奴。許せない!」でも、もしかしたらその人は? [my opinion]

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人間関係でトラブル「卑劣な奴。許せない!」でも、もしかしたらその人は?

職場で、友達関係で、近所で、ふとしたことでトラブルになり、それが長期化。精神的にも追いつめられ、大変な思いをしている人は少なくないだろう。あの人はなぜ、そんなことを続けるのか? 私がこんな辛い思いをしているのに?何の得があるの? 理由が分からない。そんな経験はないだろうか?

友人のA君がよく仕事をしていた製作会社。映画やドラマではないが、映像作品を作るところ。そこの社長は温厚で仕事のできる中年男性。気配りもあり、誠実な人。信頼できた。だが、次第に問題が起こるようになる。いつしか理不尽なことを始めた。人を踏みつけるようなことをする。担当者に断りなしにプロジェクトの方向転換をする。A君がやるべき仕事を黙って別のスタッフにやらせる。信頼が揺らぐ。やがて社員全員が社長を嫌っていることが分かる。

社長のことを「悪魔」と呼び。数ヶ月に1度、何人かが辞めて行く。そのたびに新人を入れ、2年も経つと全員が入れ替わった。A君のようなフリーのスタッフも、1本仕事をしたら、2度とそこで仕事をする者はいない。だが、その手の悪徳会社というのは映画界には多い。会社でいえばブラック企業のような感じ。社員をこき使うのに給与はちょっぴりみたいな。実はそんな人かと考えた。

しかし、社長を見ているとそう断定できないところがある。冷酷無比なタイプかと思い気や陽気でおしゃべり好き。冗談をよく言っている。夕飯とか奢ってくれたりする。費用のかかる撮影を自ら提案したりする。もし、ピンハネして儲けようという悪徳会社なら、製作費がかからないことをするはず。かと思うと、スタッフを長時間働かせても、夜食も出さない(業界的には深夜に及べば夜食を出すのがルール)終電を過ぎてからスタッフを解放するような理不尽なことをする(その際はタクシーを出すのが業界の常識)


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若いスタッフは自腹でタクシー使い帰宅することもできず、居酒屋で時間を潰し、初電で帰るようなこともある。皆、怒り心頭だが、仕事を失うのを恐れて社長には何もいえない。スタッフだけではない。社長は映画に様々な面で協力してくれた別の会社や団体に対しても何らお礼も報告もしない。その1社が「どうなってんだ! うちがあれだけ協力したのに挨拶もなしか!」と連絡をしてきた。それを聞いた社員が社長に報告したところこういわれた。

「おかしいなあ。何度もお礼はしているし、何かあるたびに報告をしているんだけどなあ。勘違いじゃないかな?」

その社員が調べたところ。社長を始め誰もその会社にはお礼どころか一切の連絡をしていなことが分かり、あわててお礼状とお詫びの品を送ったこともあった。他にも必要ないことに大金を注ぎ込んだり、みんなで決めたことを守らず、スタンドプレーをしたり、見え見えのウソをつき誤摩化したり。言ってないことを言ったと言い張る。言ってないことを「いや、私はそう言ったはずだ!」と言ってきかない。質問しても全然関係のないことを延々と答える。「社長、質問に答えてください」というと「答えてるだろ!」と怒り出す。社員やスタッフはいつも振り回されていた。

プロジェクトが終わったあとA君は、二度とその会社と仕事をすることはなかった。ギャラも約束の半分しかもらえなかった。それをいうと

「そんな約束はしてない。あの話はその額を目指しましょうという意味です。ギャラは私が決めました。だから、それが全額です」


そう言われた。事前に何度も額を確認。「心配しなくても大丈夫です」と社長は何度も言った。目標額なんてことは一度も話していない。さらにいえば、なぜ、社長が額を決めるのか? ギャラは双方の同意で決めるもの。「もう、生涯。この男に会うことはないだろう」思った、仕事中の生活は全てサラ金でやりくり。もらったギャラでは返済できない。それから10年近くが過ぎたが、A君は今もその借金返済を続けている。

話を戻す。だが、A君は考えた。何かおかしい。単に金儲けしか頭にないブラック社長なら、無意味なことに大金を注ぎ込んだりしない。もしかしたらワンマンで閃きで動く出来る社長なのか? しかし、彼がやること成すこと失敗ばかり。必要のないことに金を注ぎ込み無駄にして、必要なことをケチり多くの関係者に迷惑をかける。御曹司なのか?それにしては基本的な部分は真面目で、会議の時間に遅れたりせず、プロジェクトはしっかり進めている。営業はうまいようで、いろんな仕事を取って来て会社はそこそも利益を上げているのだ。

まともな大学も出ている。会社を作り5年ほど運営して来たのは社長自身。暴力も振るわない。セクハラもしない。アル中でもない。ただ、以前からずっと不眠症で悩んでいるというくらい。そんな社長だが、彼の行為に社員は振り回され、次第に愛想が尽き、最後は全員が辞めてしまう。全ての原因は社長なのだが、ブラックという訳でなく、無能というのも違い、御坊ちゃまでもない。ただ、ただ、人の気持ちを逆撫でするようなことが頻発。皆、最後には離れて行く。


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いろいろ考えていて、精神病か精神障害を考えた。以前にA君が勉強した統合失調症か?と思え、症状を調べてみた。一致するものも多いが、明らかに違うものもある。統合失調症によくある妄想が彼にはない。患者が持つある種のエネルギーもない。考え方も飛躍がなく、理屈が通るものが多い。そこで社長の行動言動を思い出す限り書き出し、精神科の先生に意見を聞いた。

「この人は統合失調症ではなく、双極性障害です。似た症状があるので医師でも判断を間違うことがあります」

双極性障害? 何? と思い勉強を始めた。別名は「躁鬱病」である。陽気になったり落ち込んだりするあれ?と思ったが、それでは理解できない。症状を上げてみよう。

●自尊心の肥大: 自分は何でもできるなどと気が大きくなる。

●睡眠欲求の減少: 眠らなくてもいつも元気なまま過ごせる。

●多弁: 一日中しゃべりまくったり、手当たり次第に色々な人に電話をかけまくる

●観念奔逸: 次から次へ、アイデア(思考)が浮かんでくる。具体的には、文章の途中で、次々と話が飛ぶことなども含まれる

●注意散漫: 気が散って一つのことに集中できず、落ち着きがなくなる。

●活動の増加: 仕事などの活動が増加し、よく動く。これは破壊的な逸脱行動にも発展しうる。

●快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって旅行や買物をする、逸脱行動に出る

ほとんどが社長に当てはまった。そして答えが出た。社長は金儲けのために卑劣なことをするのではない。人を踏みつけるのも、スタンドプレーを取るのも、言ったことを言わない。言わないことを言ったと主張するのも、全て病気のせいなのである。そんな人が社長というトップを勤めることで、多くの社員が振り回され、傷つき、去って行ったということなのだ。

守銭奴ではない。だから、飯を奢ることも多い。なのにギャラを勝手に半額にする。無意味なことに金を注ぎ込むのは症状にある。不眠症も当てはまる。つまり、双極性障害を患っているのだ。そのことを友人に相談した。

「そんな病気本当にあるのか? あの社長は単なる嫌な野郎だよ」

「俺も社長とは仕事したし、嫌な奴だけど精神病じゃないな。まともだったよ。急に叫び出したり、神の使いだなんていわないしさ」

精神病=気が狂った状態と思う人が多い。これだけ健康ブームでその手の番組があるのに、精神病を解説するものはない。雑誌や新聞でもせいぜい鬱病。だから、一般の人は双極性障害といわれてもピンと来ない。包丁を振り回し暴れるのが精神病と思う人たちがとても多いのだ。別の友人はいう

「嫌な奴だけど、精神病というのは酷いと思うよ。彼にも人権があるし、可哀想だよ」

この手の反応も多い。精神病に触れること自体が差別という考え方。確かに精神病患者を差別することはいけない。が、その考えが過度になり、精神病に触れること自体がいけないことと思ってしまう。結果、その人がなぜ奇行を繰り返すのか? どう対処すべきか?を考えず、臭いものには蓋をしろ的な対応になる。


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例えば、インフルエンザにかかった友人がいる。気付かずに会社に出て来た。それは危険。ウイルスがまき散らされる。彼は自宅で療養すべきなのだ。それを「インフルエンザなんていうのは可哀想だよ」というのと同じ。患者に「会社に来るべきでない」というのも差別ではない。そもそも、彼は会社に来てはいけない。他の社員に移るからだ。自宅で療養。治療を受けることが大事。人権とかいう問題ではない。

あの社長はもともと優秀な人だったのだろう。しかし、病気によってまともな判断ができない。そのために社員に嫌われ、同時に仕事もうまくいかない。本人は気付かない。自分は正しいと思う。病気によって「私は何でもできる!」と思い込み無謀な挑戦をして失敗する。社員の1人はいう。

「とにかく嫌な人で、悪魔と呼ばれるのも当然。でも、社外の人に言っても誰も信じない。まじめないい社長だよ。多少の社内トラブルはどこでもあるよと言われた。A君から病気の話を聞いて納得。けど、精神病だなんていうと差別だと言われ、私たちから言えないわ」

その通りだろう。世間は個人の辛さや悩みを理解しない。人間関係のトラブルと考える。まさか社長が病気とは想像しない。そして、精神病だというと「差別だ!」「酷いことをいうな!」と批判される。或は「社長はよく知っているけど、病気とは思えない」と取り合わない。精神病を知らない者がどうして「病気とは思えない」と言えるのか? でも、多くのがそんな対応しかしない。そんな3重の壁があり、1人の患者がいることで多くが傷つき、トラブルが起こる。ただ、患者に悪意はない。病気なのだ。

精神病は特別な病気ではない。統合失調症の患者は100人に1人いると言われる。なのに国もマスコミも精神病についての理解の輪を広げようとしない。国民も「怖い病気」と思い込み、触れないようにする。だから多くが気付かない。その社長は今も会社を経営している。噂で聞くところだと、社長は相変わらずだという。社員は次々に辞めて、2年で全員が入れ替わるという。誰にも悪意がないのに、悲しい事態は終わらない...。




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明日にかける橋ーFacebook「友達」との対応に困ったことありませんか? [my opinion]

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以前にも書かせてもらったが、このFacebookに連絡を頂いても御返事はできないーというのも、「映画はいつから公開ですか?」「大阪では上映しますか?」という類の質問が多いからだ。それらは繰り返し記事としてアップしていることであり、僕のタイムラインを少し遡れば書かれている。或はまだ決まっていないから告知していないというもの。

それでも以前は御返事していたが、同じ質問が毎日のように、何人からも来るようになった。それに便乗して「最近、見た映画でお勧めはありますか?」「好きな作家は誰ですか?」とかいろんな質問が来るようになる。さらには「野菜をしっかり食べてください」「目薬はやめた方がいいよ」というコメントまで来るようになる。

そして「女優の***さんって本当のところどうなんですか?」「***さんと付き合っているって本当ですか?」という質問まで。そんなことに答えられる訳がない。返事をしないと「裏切られた」「スルーされた」「失礼だ」と言い出す人たちもいた。

「5分あれば返事くらい出来るでしょう?」とコメントする人もいた。が、会ったこともない人に対して、それも自身プライベートや俳優の私生活をなぜ、答えなければならない? 記事に何度も書いてあることを、それを探そうともしない人に時間を取り、返事する必要があるのだろうか? 1人5分でも、10人から質問が来れば50分だ!


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仕事上の返事すらいつも遅れているのに、会ったこともない人に対して、すでに告知したことを再度伝えるために時間を取るのはどうなのか?と考えるようになった。応援してくれていることは分かる。でも、そこまで行くと応援ではなく、邪魔をされているのと同じ。そんなことで内容に問わず、コメントや質問には答えないというスタンスを取ることにした。しかし、なぜ、そんなことになるのか? そんな人たちも決して悪意がある訳ではない。ではなぜ?

最初は好意で応援してくれている。それが何度もコメントのやり取りをしていると、次第に距離感がなくなり、親しくなる。本当の友人になったと思い込む。だからプライベートを尋ねてもいいだろう?と思えてしまう。その段でこちらが返事をしないと「酷い!」「裏切られた!」と相手が感じてしまう。単なるFacebook友達なのに、長年の友達に拒絶されたと思ってしまうのだ。そこにネットの怖さがある。

或いはこうだ。「公開はいつですか?」と5秒くらいでキーを打ち質問して、5分以内に返事が返って来たとき。相手が仕事を中断して5分かけて答えてくれた。ということを意外に想像しない。Googleで検索して答えが出るのと同じように、打ち込めば答えが出て来ると無意識で感じて、さらなる質問をしてしまう。

また、テレビのワイドショーで芸能人が質問されてプライベートを答えているのを見て、芸能人にはその手の質問をしてもいいんだ!と無自覚に感じてしまう。飲み会で「女優の***は**と付き合ってるらしいよ」と噂するのと同じノリで質問して来る。俳優たちは僕の仕事仲間。そんな人たちのプライベートを話せる訳がないことを想像せず、居酒屋で親しく話す友人と同じモードで接してしまう。


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そんな人たちも最初は「この監督はいい映画を作る。応援したい」「がんばってほしい」という熱い思いから始まっており、いろんな面で応援してくれる方々。ただ、質問に何度も答えていると「この監督はいい人だから、何を聞いても大丈夫だ!」ー「親しい友人」と思い込み一線を超えてしまう。ただ、こちらからすれば「会ったことのない人」「Facebook友達」なのだ。そのギャップがトラブルを起こしてしまう。それなら最初から答えないことが大事だと悟った。

一般の方々でも同じようなトラブルを経験した方は多いはず。最初は趣味が一致して楽しく会話してた。次第に親しくなり「会いたい」「電話で話したい」と言われて困ったり。異性から執拗にコメントがあったり。それでも相手の気持ちを考えると無理して返事。それが苦痛になる。友達削除することで、あちこちに批判を書かれても嫌だ。仕方なしに我慢する。その内にFacebookが面倒になり辞めてしまう。僕の友人にもそれが多い。

例えばあたなの「友達」の1人は現実世界で友達が少ない。Facebookであなたと知り合えて嬉しい。あれこれ話したい。でも、あなたはそれほどでもない。仕事が終わり就寝前にパソコンを覗き、「いいね」を押すだけで満足。たまにコメントを書けばいい位に思っている。なのに毎日「いいね」が押され、「コメント」が連日書き込まれる。あれこれ聞いて来る。それが負担になってくる。付き合いで返事をすると、さらに慣れ慣れしくなる。要求が多くなる。質問が次々に来る。次第に対応できなくなる。

僕の場合も監督業ということもあり、それのバージョンアップした状態になってしまった訳だ。いろんな質問や提案。連絡をくれる方が今もときどきいるが、御返事はできないということ。公平に誰にも返事をしないこと。数年前からそうさせてもらっている。ご理解頂けるとありがたい。


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子供たちに伝えたいこと。「考える力」を育てないと生き残れない? [my opinion]

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(2015年3月の記事より)

僕の映画。テーマが「親子に伝えたる大切なこと」

なので、よくお母さん方から質問を受ける。「子供のために何をすればいいんですか?」その答えはとても難しい。昔なら「しっかり勉強して、いい大学に行き、一流企業に就職すること」と誰しも思っていた。

が、今や一流企業でも倒産したり、大量のリストラをする時代。エリートコースを歩んでも、絶望が待っているかもしれない。そして一生懸命勉強することは実は子供たちにとって大きなマイナス面がある。何度も書いたが、日本の教育は優秀なサラリーマンになるための訓練。与えられたことを確実にこなし、上には逆らわず、疑問を持たず、指示されたことを正確に、早くこなす能力を育てるためのものだ。

つまり、想像力。洞察力。共感力。

状況把握能力といった、社会に出たときに大切となる力を育むものではない。分かりやすくいうとサラリーマン・ロボットになるための教育。バブル時代まではそれでよかった。が、言われることしかできない社員ばかりなので、上が時代錯誤になると、企業全体が駄目になり、電気製品も韓国に抜かれ、不況からも脱出できないのだと感じる。


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では、何が必要なのか? 

その前に聞いてほしい話がある。テレビで「****が人気!」といえば、それを鵜呑みにする人が多い。自分では確かめていないのに「テレビが言ってるから!」と信じてしまう。ニュースキャスターが「*****」といえば、それを自分の意見のように人にしゃべってしまう。「東京の偉い先生が***と言っているんだから、間違いない!」という人も多いだろう。これらこそが日本の教育の成果(?)なのだ。

上から与えられたことは素直に受け入れ、疑わない。つまり、テレビや権威のある大学の先生が言うことを絶対的に信じる。「考える」という教育を受けて来なかったことでの弊害だと考える。日本の教育は与えられたことさえすればOK、言われないことまですると注意される。なので、上からの指示、情報は疑わずに受け入れる。

でも、これからの時代で大事なのは、

情報を得たとき、そのまま受け入れるのではなく、その裏や意味を想像する力。風を読み、時代の流れを感じて、「今は何が必要か?」を自分で考える人だ。そんな力を持つことで、混沌とした時代を生抜いて行けるはず。でも、すでに社会人の大人はもう遅いかもしれない。せめて子供たちの「考える力」を育てたい。

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どうすれば「考える力」は育つのか? 

「考えろ!」といって考えられるものではない。そもそも考えるとはどういうことなのか? 例えば、目の前に白い色があっても、白と認識するのは実はむずかしい。そこに黒があることで、違いが分かる。あきらかに白とは違う色ということで認識。つまり、比較することで、物事を認識できる。

具体的にいうと僕が子供の頃、銀行は3時で閉まるのは当たり前だった。不便だし、働いていると預金を降ろしに行くこともできない。その後、自動支払機が出来てからも、しばらくは午後6時で終わり。その後も、100円の手数料が取られた。何で自分の金引き出すのに手数料が? と苛ついたが、それが当たり前だと思っていた。

ところがアメリカに留学すると、

銀行はどこでも午後5時までやっているし、自動支払機は365日、24時間。手数料なしで引き出せる。そうだよな! それが顧客サービスだし、何で自分の金出すのに手数料取るの?と思えた日本の銀行がいかに努力をしていないか?が分かる。その後、日本も改善され、3時以降も営業するところ、手数料なしで引き出せる機械もできたが、日本人は不便を不便と思わず、それが当たり前と思っていたのだ。

同じように日本では当たり前ということが、実は世界の非常識だったりする。そんな経験をすると、物事は一面だけではないこと。当たり前だと思っていたことが実は違うこと。別の側面があり、違った論理があると分かってくる。いろんなことを疑い、本質を見つめようとする。問題が見えてくれば、どうすれば解決できるか?試行錯誤する。それが「考える」ということ。その力が今の日本人は決定的に欠けている。

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サラリーマン育生教育を受けて来た僕の世代。

50歳を超えた友人たち(関西人だけど)に日本社会の問題点をどう思うか訊く。「オレらにどうにかできる問題とちゃうし。考えてもしゃーない!」とよく言われる。そう「考えてもしゃーない!」考えることを放棄している。同時に考える力もないのだ。

決して友人は馬鹿ではない。それなりの有名大学を出て、それなりの企業で今も働いている。が、あれこれ、社会問題について質問を続けると、怒り出す。日頃から「考える」ということをしていないので、答えられなくなり取り乱してしまうのだ。10代から「与えられたこと」を教えられた通りにこなすことしかしていないので、状況を見て自分で判断。意見を持つことができない。

彼が悪い訳ではない。

そんな教育を受けて育ったのだ。教えられてないことを要求してもできない。多くの日本人が自分の意見を持たず、ニューキャスターの発言を鵜呑みにして、それが自分の意見になる背景もここにある。では、どうすれば子供たちは自分で考えるという習慣がつくのか? いろいろあると思うが、そんな質問を受けたとき、僕は留学を進める。

情報化社会といいながら、

まだまだ日本人が知らないことは山ほどある。情報番組やネットで情報を得て、海外のことが分かったつもりになっているが、実際に行くと大きな違いを痛感する。海外旅行では駄目。やはり、その国に住み、暮し、地元の人と接してみないと分からない。そこで初めて日本との違いを実感する。そこから「考える」という行為をするようなるのだ。

僕自身。アメリカ映画とアメリカの音楽で育ち。ドラマもアメリカ。アメリカ人よりアメリカ文化には詳しいくらいだが、やはり住んでみると、数々の驚きがあった。その意味で、若い人には留学を勧める。アメリカでなくてもいい、ヨーロッパでも、アジアでも。日本以外の国に行けばいろんなことが見えてくる。日本の駄目な点だけでなく、日本の素晴らしさも分かる。海外で生活したことがないのに「日本はいい国だ!」という人がいるが、本当の良さは分かっていないだろう。

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少し前まだは円高で、

東京の大学に進学するより海外の方が安くついたのだが、現在は円安。子供を留学させることは難しい家庭も多いだろう。ただ、留学のみが「考える力」を育てる方法ではない。いろんな方法がある。それはまたの機会に紹介する。いずれにしても大事なことは、子供たちを昔通りに日本の教育を受けさせて、一流大学、一流企業を目指すだけでは、考える力は育たず、いずれ、大人になってから大変な思いをするのは間違いない。

だから、子供たちと、その親たちに、今、何をするべきか? あれこれ考えて、映画を作る。そうやって、幸せになるヒントを届けられれば嬉しい。


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夢は掴める。「世の中甘くない」は言い訳。努力の仕方が大切? [my opinion]

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「将来は映画監督になりたい!」「私は女優になりたい」「俺は作家になるぞ」いろんな夢を追う人たちがいる。が、僕らの世代は高校生になると、もう夢を語らなかった。「夢を追うなんて子供。現実は厳しい...」と考え始めるのだ。それどころか夢を語る友人がいれば、寄ってたかって「やめろ!」「どうせ無理だ」「世の中甘くない」「絶対に無理だ」と批判や説得を始める。

不思議な現象。もし、彼らが夢に向かって努力して破れたのなら「僕の経験だけど、夢を掴むのは難しいよ〜」というのは分かる。が、何もしたことのない、まだまだ、これから!という10代の高校生が「世の中甘くない」「どうせ無理だ」というのだ。

背景を説明すると長くなるので簡単にいうと、彼らは20歳前にして世の中に失望し、無力感を痛感していた。だから、まじめに勉強していい大学に行き、いい会社に入る。それが現実的であり、大人の生き方なのだと思い込んでいたのだ。こうして多くの若者が夢を諦め、おとなしく管理社会に取り込まれて行ったのである。

それでも夢が諦められずに、それぞれの道を目指す人たちもいた。ここからが本論だ。ただ、それでも夢を掴めずに潰れて行く人たちが多い。それを見た僕の同世代はいう。「言わんこっちゃない。世の中甘くないといっただろう?」しかし、本当に世の中が厳しいからダメだったのか? 世の中が厳しいのは当たり前だ。では、その中で成功している人たちがいるのはなぜか? ミリオンセラーを出す歌手になったり、大人気の俳優もいる。映画監督や小説家になる人たちもいる。「世の中、甘くない」では説明できない。

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「才能があったからだよ」という人がいる。では、才能って何? 努力しなくても名曲を思いつくの? 練習しなくてもギターが弾けるの? 経験がなくても感動映画が撮れるの? 何度も書いたが、才能というのは夢を掴めなかった人が「言い訳」として使う言葉であることが多い。「俺は努力したけど、才能がないからダメだった」「彼が成功したのは才能があったからだ」そう思いたくて「才能」という言葉を利用していることが多い。このことは以前に書いたので今回は次に行く。

では、夢を掴んだ人と、掴めなかった人の違いは何か? 僕は高校時代に映画監督を目指すと決めた。その後、同じく映画監督志望の後輩。そして小説家志望、歌手、俳優、漫画家、コピーライター、ギタリスト、脚本家と、いろんな夢を追い掛ける友人と出会う。だが、その多くは99%は夢破れ、去って行った。

その後、僕は業界で仕事をすることになり、さらにいろんな人たちと出会う。大物映画監督、ベストセラー作家、有名俳優、ベテラン俳優、歌手、ミュージシャン、伝説のバンドのマネージャー、お笑いタレント、と様々な世界で大成功した人たちと仕事したり、お会いする機会があった。そんな人たちと接して、話を聞いて、また消えて行った夢追う友人たちと比較して、いろんなことを感じた。

まず、高校時代に「世の中は甘くない」と言っていた同級生たち。彼らは努力することを諦めた人たちだったということ。その理由を「世の中は厳しい」ということにして、自分が望む夢を追うことを諦めただけだということ。では、彼らの選んだ道ー堅実に勉強して、一流大学に入り、一流企業に就職することが簡単か?というと、そうではない。

夢を追うのと同じで、努力が必要。かなり厳しい現実が待ち受けている。にも関わらず、夢は追わないが、一流大学には入りたいと努力して勉強していた友人たちが「世の中甘くない」といっていたのは何だったのか?と思える。つまり、努力せずに世の中のせいにして、夢を追う努力をすることを拒否していたということ。

では、その後も夢を追い続けた友人たちはどうか? 今思うに、成功し、夢を掴んだ人たちと比較すると、夢破れた友人たちというのは「努力が足りなかった」ということだ。成功者たちの言葉を聞くと、尋常でない努力をしている。俳優でも、ミュージシャンでも、それぞれが努力している。が、僕のまわりにいた人々はまず大学に行き、専門学校に行き、バイトをして、合コンして、或は宴会して、大騒ぎして青春を謳歌して、その上で夢を掴みたいということが多かった。

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土日は休みたい。バイトで忙しいからシナリオが書けない。事務所に入れないから俳優になれない。とか、様々な理由をつけて夢を掴む努力をせずに済ませることが多かった。これは先の人たち。「現実は甘くない」という口実で夢を諦めた高校時代の友人たちと同じ。自分では努力せずに、世の中のせいにして夢を掴む努力をしない。

「バイトしないと生活ができない!」といいながら、それなりの部屋に住んでいる。車を持っている。「事務所に入らないと芸能活動ができない」といいつつ、売り込みもしない。脚本家になりたいといいながら、シナリオを書かない。訊くと「バイトが忙しい」と答える。その手の人たちは数年間。都会で生活するが、やがてこう言った。「世の中甘くない」「現実は厳しい」そうして夢を諦めて就職。或は故郷に戻って行った。

こうして思い返すと、夢を掴めなかったのは「努力」をしたけど、現実が厳しくてダメだったのではなく、努力をしなかったから現実を切り開くことが出来なかった人たちであることが分かる。高校時代の同級生も、その後出会った友人たちも同じなのだ。では、どういう人たちがその世界に入り込み、仕事を得て、活躍しているのか? 

今、一緒に仕事をしている仲間たち。お会いしたことのある著名人や巨匠たちと話すと、その辺が分かって来る。「努力」ということ。具体的にはどういうことなのか? それがキーだった。例えば「映画監督になりたい!」と思う。思いつくのは専門学校に行く。大学の映画科で学ぶということ。ただ、その手の学校を卒業する生徒は毎年、何千人といる。その全員が監督になれるはずがない。


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その中の1人か2人。学校で学んでも大きな意味はないということ。僕も映画学校に行ったことがあるが、本当に無意味。評論家養成講座のようなもので、あんな勉強をして監督になれる訳がない。実際、今、監督業をしていて映画学校で学び役立ったものはひとつもない。卒業しても仕事を世話してくれる訳でもない。監督承認証がもらえる訳でもない。だが、多くの若者が学校に行き、無意味な勉強を続けている。

つまり、間違った努力をしていて夢は掴めないということ。そもそも、芸術は学校で学べない。では、何が大切か? 成功した人たちを見ていて感じたのは、皆、実践しているということ。歌手の矢沢永吉は横浜で仲間を集めてバンドをしていた。俳優の上川隆也は大学の劇団にいた。大森一樹は8ミリ映画を撮っていた。いわゆる自主映画。漫画家や小説家は何本もの作品を書き、懸賞に応募。編集部に持ち込んだりする。皆、その中で努力を続けた。

ここで振り返ろう。なぜ、高校卒業後に夢追った仲間たちは挫折したのか? もちろん、先に書いたように努力をしなかったからだ。では、なぜ、努力しなかったのか? ここに答えがある。シナリオを1度も書いたことがないのに脚本家になると言っていた友人。専門学校に通いバイトするだけの俳優志望の友人。多くに共通すること。「表現」をしていないーシナリオを書く。小説を書く。演技をする。作曲する。歌う。演奏する。8ミリ映画を撮る。それらを人に見せることなく終わっている。

なぜ、彼らはしなかったか? こう言っていた。「依頼が来ればいつでもシナリオを書く」「ドラマに出ればいい演技を見せてやる」「映画撮らせてくれたら大ヒット作を撮ってやる」皆、チャンスがあれば、頼まれればやる!という者が多かった。つまり、彼らは「俺はそれなりの実力がある。チャンスがないだけだ」と内心思っている。「やればできる」と思い込んでいた。が、誰がど素人の彼らに仕事を依頼するというのか?

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これも以前書いたが、彼らの多くは「監督と呼ばれたい」「作家になり自慢したい」「歌手になりキャーキャー言われたい」「人と違った芸能活動がしたい」というのが本当のところだったのだ。まさに夢を語っていただけ。だから、努力しない。努力せずに、皆に褒められたい。そのための肩書きがほしいというのが本音だった。だから、8ミリ映画も撮らない。バンドもやらない。舞台にも立たない。

一番の間違いは何も努力をせずに「映画を撮れればヒット作になる」「ドラマに出れば名演技ができる」「小説を書けばベストセラーになる」という根拠のない自信が彼らを支えていた。誰でも思うことだが、「飛行機に乗り事故に遭っても自分だけ助かる」と感じたことはないだろうか? 根拠のない自信。若い頃は多くがそう感じている。

自分はきっと特別だ。何かできるはず。いつか、それが開花するはず。とシンデレラのようなに待っている若い人が今も多くいる。しかし、彼らは特別ではない。極普通の庶民。ただ「特別だ」と思いたいだけ。なのに努力をしない。世の中が厳しいのではなく、何もしないのだから夢は叶わないのだ。

そう考えると「世の中が厳しい」から夢が叶わない。「才能」がないから夢を掴めないではなく、何もしないから夢を実現できないということが分かる。では、どんな努力をすればいいのか? その答えのひとつが先の成功した有名人たち。皆、行動している。バンド、自主映画、劇団、執筆。表現をしている。夢破れた友人たちと対象的。

友人たちは何もしていないのに、経験がないのに「小説が書ける」「歌が歌える」「演技ができる」「映画が撮れる」と思い込んでいた(その背景に才能があればできるはず…という間違った考え方もある)。


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が、成功した人たちは、表現を続けることで、実力を磨き、客や読者、観客を感動させて、やがて認められたのだ。業界は何もしない人たちに近づいて来て「君。才能あるから小説を書いてみないか?」なんて絶対に言わない。それを期待している人たちは消えて行った。

また、この業界で仕事をしていて感じること。人の能力を見極める力がある人が本当に少ないこと。ほとんどいない。そんな連中がまだ何もしていない俳優の卵や作家の卵たちに、「君、才能があるよ」なんて言えるはずがない。

素晴らしい小説を目の前にしても、その面白さが分からない編集が多くいる。ブレイク間違いなしの女優がオーディションに来ても、気付かないプロデュサーばかり。彼らが選ぶのはすでに実績のあるベストセラー作家や人気絶頂の俳優ばかり。すでに認められた人のみ。そんな鈍い人たちが何もしないで夢追う人々の隠された力を知り、手を差し伸べることなんてありえない。

だから、世に出た人たちは実力を磨き、実績を作り、その力を見せつけて、その世界に斬り込んだのである。自分たちの力を過信せず、さまざまな経験をすることで、さらに巧みな表現力を磨く。その過程で多くが認め、支持してくれる。もちろん、そのための方法論はある。それを間違えば、認められるものも認められない。が、それはまた次の話だ。

毎回、映画を撮るときに多くの新人がオーディションに来てくれる。また、いろんな芸術分野でがんばる人たちが僕のブログを読んでくれている。だから、一度、総括として「夢を追う」ということを書いてみたかった。才能なんてない。何もしなければ夢は叶わない。表現を続けること。作品を作ること。待っていてはいけない。努力の方法を間違わなければ、必ず夢は掴める。でも、そこからが本当のスタート。それはまた別の機会に書かせてもらう。


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悲観主義者は成功しない。最後の勝つのはオプティミスト? [my opinion]

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なぜか?日本人はペシミスト(悲観主義者)が多い。ものごとを悪い方にばかり考える。例えば「俺は会社を作り世界と商売をするぞ!」と宣言したとする。まわりは必ずこういうだろう。「甘いなあ~」「身の程知らず」「そんなの無理に決まっている!」多くの人は夢や目標を批判、否定しようとする。

その背景には日本人の考え方があるだろう。「世の中に期待しない」「夢は所詮、夢」と厳しく悲観的にものごとを考えることが大人の発想であり、世間を知っていることだという意識があるからだ。だから夢を語ると、先のような批判をされる。

僕自身も経験がある。高校時代に「映画監督になりたい!」といったら、友達や先生、親、大人からもの厳しく批判、否定された。「世の中、そんな簡単にいかない」「もっと現実を見つめろ」「小学生みたいなことをいうな」「お前、才能あるのか?」ともう総攻撃。その後は夢を語らないようにした。

それがアメリカ留学し、大学の先生やクラスメートに「夢」を訊かれて答えたときは全然、違う反応だった。「映画監督か!グレート。がんばれよ」「グッド!いいね」「絶対になれるよ。応援する」ほとんどが好意的な意見で、背中を押すものばかり。日本は止めようとする人ばかりだったのに、何が違うのか?

僕が留学したのは23歳。日本なら大学卒業、就職の歳。後ろめたいものがあった。大学でそんな話をしたことがある。「僕はもう23歳だから…」というと「何いってんだ。まだ、23歳じゃないか!」「まだまだ、これから、何だってできるさ!」と、これまた何人もから言われた。アメリカは楽天家ばかり? でも、とても励まされた。

確か、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースも60歳を超えてから成功したと聞く。さすが、アメリカン・ドリームの国。大学で出会った人たちも、皆前向きだった。で、気づいたのは日本は何で夢を語ると否定したがるのか? なぜ、夢を否定する? 厳しい現実を受け入れることを大人の考え方だと思い、何かにがんばろうとすると「子供じゃないんだから」などというのか?

日本に帰ってからも、僕は「映画監督になること」を目標にして、アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。相変わらず、友達も、親も、知人も、声を揃えてこういった。「いい加減。現実を見ろ。いい歳なんだから、早く会社に就職しろ!」そして相も変わらず「世の中、甘くない!」と言われた。

身のまわりでも、「ミュージシャンになりたい! 」「俳優になりたい!」「小説家になりたい!」という友人がいたが、1年、2年と経つと、次第に脱落。ふるさとに帰る者。会社に就職する者が出てきて、5年も経つと皆、いなくなった。「やっぱ、食って行けないから」「しょせん夢は夢なんだよな」そんな言葉を残して消えて行く。大人たちは、そんな彼らを見てこう言う。

「世の中、甘くない。諦めが肝心だよ…」

しかし、それは違う。彼らは全力で努力して諦めたのではなく、ほとんどが努力不足。見ていると、少しばかり足掻いてみて駄目だと、落ち込んで悩む。その期間の方が努力する時間より長い。もともと彼らは「日本でもアメリカン・ドリームを実現するぜぇ!」というタイプではない。大人たちと同じように、何かにつけ友人に対しては「世の中、甘くないぞ!」と言っていた。

「俳優になりたい!」といいながらも、現実の厳しさを認めるペシミストだった。だからこそ、2年3年で諦めてしまったのだ。そもそも、数年で俳優や小説家になれる訳がない。でも、彼らは自分の努力が足りないのではなく「世の中が厳しい。だから無理なんだ」という解釈をして行く。

気持ちは分かる。僕も何度か挫折しそうになった。いろんな努力をしても、なかなか映画監督へのチケットは手に入らない。でも、人が机の上で考える方法論なんて、ものすごく限られたもの。本当は別のところに、違った方法論があるものだ。なのに、ペシミストはそうは考えず。「世の中は甘くない。厳しいんだ」と解釈して諦めてしまう。

一方、オプチミィスト(楽天家)は「もう少し、がんばれば、別の出会いがあるかもしれない。別の方法論が見つかるかもしれない」と考えて、諦めない。そう、この「諦めない」ということが大切なのだ。ペシミストは努力しないのに「世の中甘くない」と考えて諦める。だから終わったしまうのだ。

実際、僕は5年目で脚本家になるチャンスを掴み、2年後に監督になる。さらに8年後に映画監督デビューする。それから4本の映画を撮り。最新作は日本全国32カ所の映画館、シネコンで公開される。もし、途中で諦めていたら今の自分はない。

振り返ると、アメリカ時代にもらった言葉に支えられたと思う。「まだ、23歳じゃないか?」「今からだってできる」「映画監督?グレート。がんばれ」「絶対になれるよ。応援する」特別の人ではない、普通のアメリカ人から何度もそう言われた。だが、僕がアメリカには行かず、ずっと日本で生活していたらどうだったか?

バイトを続けながら、映画監督を目指していたら? ほとんどの大人、そして友人たちがこう言い続けただろう。「世の中、甘くない」「夢は所詮、夢だ」「どーせ、無理だ」「可能性は低い」そんな言葉を何年も何年も聞いていると「そうだよな。やっぱ無理だよな」と思ったはずだ。そして、夢を諦めることこそ、大人だと思い、就職。がんばる若い人を見れば「甘いんだよなー」といいたくなったろう。

こんな言葉を聞いたことがある。「最後に勝つのはオプティミスト」そして「世の中には失敗した人と成功した人がいるのではなく、諦めた人と成功した人がいる」アメリカン・ドリームというのは決してアメリカ固有のものではない。ただ、日本人の多くはペシミストであり、何かがんばる人がいると頼みもしないのに「世の中甘くない」「現実は厳しい」と言いに来る人たちが多い。

それで若者は結局、諦めてしまう。けど、夢でも、目標でも、テーマでも、自分が掲げるもの、目指すものを掴むことはできるんだ。それには努力や洞察力も必要だが、一番大切なのはペシミストにならないこと。オプティミストでいること。そして「諦めない」ことなのだ。何事も諦めてはいけない!

(2015年2月)


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【有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか?】 [my opinion]

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【有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか?】

学生時代。有名人と交流があることをやたら自慢する奴がいた。「俳優の**さんと知り合いだ」「***監督の家に呼ばれた」「***さんとはもう1年以上の付き合い」でも、ほとんどが嘘。ただ、完璧な嘘ではなく、付き合いはないが会ったことがあるとか、同じ会場にいたとか、1%は事実。そこから妄想(?)が始まり「会ったことがある」=>「友達だ」と思い込んでしまうタイプのようだ。

なぜ、彼はそんなすぐにバレる嘘を付くのか? それは子供が友達の気を引きたくて「うちには外車がある」とか「****のおもちゃがある」と嘘をつくのと似ている。注目を集めたい。尊敬されたい。そんな子供と同じ。もっというと、嘘というのは努力せずに、関心を集めることができる。楽して注目されたい!という思いが根底にあり。友人はまさしく、そんなタイプだった。

ただ、彼はもう学生だったので、「おもちゃがある」とか「家に外車がある」ではなく、「有名人と知り合い」という手を使う。なぜか? 有名人と知り合いであることが自慢になるのか? 僕は10代からそう思っていたが、結構、有効な手であること。のちのち分かって来る。例えば、友人が「有名な映画監督の***さんと交流がある。お世話になっている」と言えば、皆「へーーー」という。つまり、友人は何らかの素質や実力が認められたからこそ、面倒を見てもらっていると解釈するからだ。

しかし、有名タレントの場合はどうだ? 「人気俳優の***と友達だ」といっても、それはたまたま友達!と思うのだが、多くの人は「へーーー」という。それで何のメリットがあるというのだ? 大手企業の社長を知っているというのなら、就職に有利とかあるが、人気俳優が友達で何の得があるの? なのに、多くの人は「あいつは有名人と友達。あいつは凄い奴だ!」という評価になるようだ。

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その解釈はおかしい! 例えるとこういうことだろうか? 友人は有名なデザイナー***さんと友達=>***さんは世界的に有名な人=>その人と付き合えるのは、友人もそれなりの人間だということ=>だから凄い。

そんなふうに多くのは人は「有名人」が友達だと、「その人も同じくらに凄い人だと解釈」するのだろう。ただ、あとになり嘘だと分かり友人は顰蹙を買い、尊敬されるどころか、さらに馬鹿にされるようになるのだが...。

最近、その友人を思い出すことが多い。以前にも書いたが、有名俳優と仕事をしたことで、多くの人が「凄い」と言ってくれる。凄いのは俳優の方であり、僕ではない。僕は単なる監督。でも、多くの人が「あんな有名な俳優が出てくれるんだから、凄い監督だ」といってくれる。ありがたいことだが、本来は「素晴らしい映画を撮った監督」=>だから「凄い!」というのが正解。それより、有名俳優と仕事したから「凄い」になる。

逆に、批判の対象にもなる。「偉そうに有名俳優と仕事をしやがって!」という業界の先輩がいる。「有名俳優と仕事してから、態度がデカくなった!」と批判する一般の人もいる。が、その人たちの背景を考えれば理由が分かる。先の先輩は低予算映画しか監督できず、有名俳優は出演してくれない。嫉妬した。でも、「悔しい」とは言わずに「偉そうに」と表現。「お前ごときが有名俳優と仕事をするな。100年早い。まず、オレが先!」という上から目線の言葉なのだ。


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後者は以前、僕の撮影のお手伝いをしてくれた方。今回は来れなかった。つまり、有名俳優の撮影現場に参加してない。だから、特に連絡もしない。それを「以前は面倒を見てやったのに、今回は何の挨拶もない。有名人と仕事をして調子に乗っているんだ」と解釈した。だが、間違っている。今回、お手伝いしてくれた人は100人を超える。その1人1人にだって連絡はできない。まして参加していない100人を超える人に連絡する余裕はない。

その人は「今回の撮影を手伝いにいけば、有名俳優に会えたのになあ〜」という悔しさがあったのだろう。その気持ちをストレートに表現すると惨めなので「挨拶に来ない」「連絡がない」「以前は面倒みたのに」という理由をつけて「態度がでかくなった。有名人と仕事をして調子に乗っている」と歪んだ解釈をしたのだ。

この2つのタイプに言えるのも「有名人好き」ということ。自分も有名人と関わりたかった。会いたかった。話をしたかった。という強い思いがあることが背景だ。彼らは決して特別な人ではない。悪意もなく、善良の人たち。でも、有名人が絡むと嫉妬し、悔しさを批判に変えて批判する。それほど有名人というのは、魅力的な存在なのだろう。だから、学生時代の友人は有名人と交流があると嘘をついて関心を集めたのだ。

僕はちょっと欠落したところがあり、昔から有名人に特別強い興味がなかった。それゆえ、有名人自慢する友達の気持ちが分からなかったのだが、最近はそれを痛感している。

この業界で仕事をするようになり、有名な俳優、巨匠、アーティストと何度も仕事させてもらった。有名な人たちは確かに凄い。魅力的だし、学ぶことが多い。だからこそ、有名になったのだが、多くは「あの人の実力は凄い」という評価でなく、「あの人は有名」=>だから凄い!になっているような気がする。有名とは何か? なぜ、人は有名人に惹かれるのか? あれこれ考えることが多い。



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【詰まらぬ批判に心を痛める必要はない。声なき声があなたを応援している】 [my opinion]

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Facebookやブログをやっていると、いろんな人からコメントやメッセージが来る。前も書いたが、Facebookの場合。友達が2000人を超えたあたりから、おかしなコメントや意味不明の攻撃が出て来た。これは2000人いれば、何人かのおかしな人がいるということなのだろう。

 記事を読まずに、タイトルだけ見て、反論をしてくる人なんかもいる。以前「原発はすでに収束したというある女性」というタイトルで記事を書くと「男性だって、そう思っている人は大勢います。女性蔑視です!」というコメントが来た。

タイトルをよく読めば分かるが「ある女性」と書いてあるように、ある個人についての記事であり、女性の全体が、或いは多くの女性が「原発はすでに収束している」と思っている記事ではない。さらに記事を読めば、その女性についての詳しい記述もある。それを読まずに、タイトルの意味もしっかりと考えず、早とちり「男性でもそんな人は多い!」と批判してきたのだ。

記事を読んでも内容を把握せず、これまた勘違いして反論して来る人もいる。先日アップした記事「人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞いてみるとよく分かる?!」というタイトルで、映画の感想を聞けば、その人の洞察力や考え方が良く分かるという話を書いた。それによって、その人が問題を起こす人か? ものごとをちゃんと見てる人か?を判断できる。「突っ込みどころかが多い」とか「リアリティがない」というような映画評をする人は問題があるという内容だ。なのに、こんなコメントが来た。

「客が上から物言うは道理。観せてやってる訳ではない限り…興行は辛抱が要る生業…プロでも無い奴は論ずるな!は老婆心ながら尊大な印象」「自分は監督だ。文句をいうなという奢りを感じました。自重された方がいいですよ。それでは人を感動させる映画など作れませんよ!」

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はあ? 何でそうなるの? コメントをくれた人たち。あきらかに勘違いしている。記事で指摘したのは一般の映画に対する批評から、その人の洞察力を探るというものであり。映画を批判はいけないというものではない。まして、「文句をいうな」てな記述はしていないし、思ってもいない。僕が書いたことが全く伝わっていない。つまり、コメントをくれた人は「この監督は自分がプロであるので、一般の人が映画を批評することに否定的。客が上からものを言うのは当然のこと。それを批判するあなたは尊大であり、傲慢ですよ」と僕に注意を促しているのだ。

この記事です=>http://aozoraeiga.blog.so-net.ne.jp/2015-11-18-11
(試しに読んでみてほしい。「プロでない者は論じなる」というのが趣旨ではないこと。すぐに分かる)

んーー全く、書いてもいない、思ってもいないことを「あなたのために、注意しておきます」てなニアンスでコメントしてきた訳だ。そもそも、僕は批評は自由だと思っている。誰が何をいおうと構わない。ただ、その映画の本当に意味やテーマを見抜けず、上っ面だけで判断している人が多い。さらには、深い部分を理解できていないのに、本質を分からないことに気づかず。当て外れな批判をして悦に浸る映画ファンというのも多い。結局、その種の人は洞察力や物事を把握する力が低いのだ。

なので、映画の感想を聞けば、その種の能力が分かるという記事。「批判するな」とか「プロでないものは論じるな」とは書いても、思ってもいない。いってもいないことをコメント主は「尊大だ。傲慢だ」と批判する。つまり、そのコメントをくれた人もまた、見た映画を勘違いな批判する洞察力のない人たちと同じで、文章を正確に把握できず、勘違いな批判コメントをしてきた訳である。

何とも分かりづらく面倒くさい説明をしたが、そんなふうに書いてもいないことを「親切心」を持って注意してくる方もいる。コメントを読むと決して悪意はない。とても真面目に僕のことを心配して「映画監督をやってる人なのに、これではいけない。注意して上げないと!」というニアンスを感じる。以前、その種の人に誤解があることを返信したことがあるのだが、いずれからも返事はなく。或いはさらなる誤解を呼び、より強い勘違いな批判が返って来た。

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それ以降は無視している。Facebookで繰り返し批判コメントしてくるようなら「友達」から削除する。が、この種の人たちは一体、どんな生活をし、どんな思考をしているのか?興味がある。あるとき、調べてみたのだが、決して頭のおかしい人たちではなく、通常の生活をしていた。決まった仕事を持ち、まじめに働いている。性格も温厚。

ただ、熱いところがあり、思い込んだらまっしぐら!な性格。言い出したら聞かない。「この監督は分かってない。俺が注意して上げないと!」とコメントをしてきたようだ。つまり、「自分は正しい」と信じ込んでいる。憎めないが厄介。関わると、時間も労力もかなり取られる。

僕が現在、勉強中の「ボーダーライン」とは違うし、病気ではない。そして、近い部分を持った人は多い。Facebook上でも人が書いた文章を読むと「何、偉そうに!」とか「そうとは限らないだろう?』と思う人も多いはずだ。が、その多くはわざわざ批判のコメントを書かない。それを書くという「労力」はいったいどこから来るのか? 正義感とかまじめさ。或いは「俺がいって上げないと!」という義務感や「思いやり」(?)だろう。

そんな人たちから頻繁にコメントやダイレクトメッセージが来るので、ときどきネットはもう止めようか?と思うこともある。当て外れの文句を言われるために記事を書くことに意味があるのか?と思う。が、実は、僕の記事を読み、感動したり、納得してくれたりする人も多いこと。あるとき知った。記事を楽しみにしてくれている人も数多くいるのだ。

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ただ、その人たちは賛同のコメントはくれない。「この意見は凄くよく分かる。賛同したい」「んーなるほどなー気付かなかった!」と思い「次回も楽しみだ!」と完結する。だから、コメントはしない。それに対して先のようなタイプの人は「一言いってやろう」「この人分かってないわ」と時間を費やし、労力をかけてコメントしてくる。

なので、僕の方は批判や中傷コメントばかりが目につく。けど、実はそうではない。サイレント・マジョリティがいて、多くの支持者がいること。以前に気づいたのだが、その話を最後にする。「もう、Facebookは止め!」と思ったとき、一通のコメントをもらった。

「いつも記事を楽しみにしています。監督の文章には気づかなかった指摘や情報があり。毎回、なるほどと思います。でも、今までコメントしたことはありません。が、Facebookをやめるかも?との記事を読み残念です。いろいろご事情もあり、心ない批判も多いことも聞いております。続けてくださいとは言えませんが、またFacebookを再開されること楽しみに、お待ちしています」

もう、何年か前になるが、そんなコメントをもらい、あーそういう人もいるのだと思った。人は見えるものに囚われ、悩んだり、傷ついたり、絶望したりするけど、実は多くの声なき声が応援、支持してくれていて、批判否定してくるのは極々一部の人たちでしかないこと。気づいた。それから「友達」はさらに1000人増えて3000人近くなる。これは僕だけの話ではないだろう。きっとあなたも同じ。多くの人があなたを見つめている。声は出さないがあなたを応援している。だから、詰まらぬ批判や中傷は受け流そう。そんなふうに思えている。


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「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性? [my opinion]

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【「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性?】
 
寄付や投資を募り。その街を全国に発信する地域映画を作った後輩監督がいる。僕も地域密着型の映画を作っているので、何度も相談に乗った。製作費は決して高くないが、街や市の協力を得て素敵な映画が完成。地元の映画館で公開された。その後、彼が訪ねて来て不満を爆発させる。

「ほんと許せないんですよ!」

聞くと映画に参加した一部の地元スタッフ以外は映画館に来ず。連日、観客は一桁。なんと1週間で打ち切りとなったというのだ。地元ではかなり盛り上がっていると聞いていたし、作品もそこそこいいというので、地元では大ヒット間違いなしと思っていたのに、何があったのか?

「客が来なかったのは誰も宣伝をしないからでした。配給会社も付いたんですけど、地元はすでに映画の存在は知っている。関係者も多いし、地元の人が宣伝すれば放っておいてもヒットするよと、言っていたんです。僕もそう思っていたら、地元は地元で、宣伝会社の人がバンバン宣伝してくれるから大丈夫と、皆、撮影が終わると観客になってしまい。宣伝も何もせずに、公開を待っていたんです」

なるほど、僕も経験がある。地元の人たち。撮影中はどんなに応援してくれても、撮影が終わると、不思議なくらいに、観客になってしまうことが多い。自分が参加した、或いは出演もしている映画なのに「公開が楽しみだなー」というばかりで、次のステップに進まない。そう、宣伝という発想がまるでなく。日常に戻って活動をしなくなるのだ。

彼らに問うと「え? 映画はできたんだから、あとは観るだけだろ?」という。大きな間違い。「いつ、どこで、何時から上映するか?」と伝えないと観客は来ないのだ。その告知や宣伝をしないと駄目。なのに、街の人のほとんどがその発想がない。突き詰めて訊くと、

「誰かが宣伝してくれるんじゃない?」

と他人事のようにいう。じゃあ、誰が宣伝してくれるの? 「分かんないけど、映画って公開前にテレビや新聞で宣伝するだろ? テレビや新聞が告知してくれるんじゃない?」ーーーーばかーーーー。あれは制作側が宣伝費を払ってテレビや新聞で広告を出してもらっているんだよーー。と言いたくなる。

そんな信じられないことをいう人が多い。或いは「宣伝会社がやってくれるんじゃないの?」もちろん、宣伝会社は頼んでいる。しかし、市民の寄付で作った映画。十分な製作費はない中、がんばって作った。当然、宣伝費も十分にない。宣伝会社も僅かな費用は東京や大阪で使いたい。すでに知名度があり、映画の存在が知られている地元で、わざわざテレビCMを流し、莫大な費用を使う必要はない。

でも、地元の人はそうは考えない。宣伝費が十分にないことを知りながら、「誰かがやってくれるんじゃない?」と安易に考え、それを突き詰めて考える人はほとんどいない。その結果、映画館で公開されても、ほとんどの人が知らない。僅かな関係者のみが劇場に来る。客の少なさに驚く! 「何で?!」と不思議がるが客が来ないのは当然。

こうして、市民が総力を上げて製作した映画は一部の人しか観ることなく、上映を終えたのだという。ここに日本人の習性が見える。「誰かがやってくれるだろう」「会社がやってくれるはずだ」「市がやるだろう」みんな、そうやって他力本願になり、「誰が宣伝するんだろう?」「予算はあるのかな?」「本当に宣伝しているのかな?」「このままじゃヤバいな」とは、ほとんどの人が考えない。

これは地域映画だけではない。

「国がやってくるだろう」「自治体がやるべきだ」「誰かがやってほしい」全て他力本願。そうやって、「私たちがやらねばならない」とは考えず、大きなチャンスを失い。何もできず、苦しい状態を持続するばかり。そんな習性が日本人にはあるように思える。

そんなときに「多額の交付金を出しますよ! いかがですか?」と甘い誘惑を受ければ、諸手を上げて賛成。原発を押し付けられたりしてきたのだ。街の存亡。過疎化。いろんな問題がある。でも、そうなった理由のひとつは「誰かが何かしてくれるはず」「国に何とかしてもらおう」と他力本願でいたからではないか?

地方映画製作ひとつ観ても同じ。自分たちの街の映画なのだから、自分たちで宣伝し、全国の人に観てもらおう!とは考えず。お客になり、上映を待つだけ。映画を活用して、街のアピールに使おうとしない。全て他力本願。それが日本人のある側面をよく現していると思える。



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時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [my opinion]

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【時代は変わり、環境が変化する中。
 ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、
 どこへ行くべきなのか?】


最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。

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ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?

或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。

家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。

これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。

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確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。

その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。

自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。

Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。

そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。

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先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。

そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。

何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。

Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。

そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。


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