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知ってもらうことの大変さ? 新商品発売と同じ!企業なら数億円をかける。 [my opinion]

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「知ってもらう」というのは本当に大変なことだ。例えば菓子メーカーが新製品を出すとき、その製品名を消費者に覚えてもらうためには何十億円という宣伝費をかける。テレビでコーシャル。人気タレントを使い、ゴールデンタイムに流す。新聞広告。雑誌広告。ネットで広告。イベントをする。看板を出す。駅のホームにポスターを貼る。そんなことを何カ月も続けて、製品名を覚えてもらう。そこで初めて製品が売れる。ものを売る以前にせねばならないことだ。

タレントも同じ。80年代に少女隊というグループがあったが、売り出し費用が10億円ということで話題になったとのを思い出す。「アイドルを売り出すために、そんなにかかるの?」と思うかもしれない。考えてみよう。

まず、レコーディング。海外で録音。同時にジャケット撮影。これも海外。写真集発売。作詞作曲を依頼。ミュージシャンに演奏してもらう。つまりアルバムを1枚出すだけで、それだけの人件費、交通費、宿泊費がかかる。

その上で、コンサート。テレビ出演の交渉。CMのタイアップ。主演映画。映画にも所属事務所は出資しているはず。コンサートのポスター、パンフレット。宣伝費。テレビスポット。テレビ局まわり、ラジオ局まわり。そんなことを全て合わせると10億円くらいすぐにかかってしまうだろう。アイドルグループを売り出すだけで、それだけのことをせねばならない。それで売れるとは限らない。失敗すれば何億円もの宣伝費はパー。アイドルでも、新製品でも同じ。

これらは町の観光アピールにも言える。個人商店でも、また、自由業の人間にとっても同じだ。知ってもらってこそ、依頼があり、仕事が来る。個人経営のレストランだって、どこにあって、どんな料理を出すか?が伝わらないと客は来てくれない。だが、個人で何億もかけた宣伝なんてできない。せいぜいチラシを撒くくらい。でも、知ってもらわないと客は来ない。

映画監督業も同じ。俳優でも、歌手でも、漫画家でも、無名の人はそういう苦労が絶えない。名前が知られてこそ、いろんなオファーが来る。町の知名度を上げるのも同じだ。東京で物産展をするのか? 町でイベントや祭りをやるのか?いろんな方法があるけれど、そんな機会を通じて、多くの人に町の名前を知ってもらう、名産品を覚えてもらう。そこで初めて、人びとは町に興味を持ち、訪れてくれる。

全ては「知ってもらう」からスタート。それは菓子でも、電化製品でも、タレントでも、映画監督でも、町でも同じなのだ。どうすれば知ってもらえるのか? そこからが全てのビジネスのスタートなのである。


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知名度ってとても大切ってこと。考えてみたい。 [my opinion]

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「知られている」ということ。重要だと考えたことあるだろうか? 例えば旅行で泊まるとき、よく知るビジネスホテルと聞いたこともないチェーンのホテル。どちらを選ぶだろうか? どこかでささっと飯を食おうというとき、個人経営の入ったことのない食堂に入るか? よく使う名の知れたファミレスに入るか? つまり知っているということは安心に繋がる。嫌な思いをしないということだ。

そんな知名度がある店やホテルが信頼を上げて行くと、それはブランドになり、宣伝しなくても客に安心感と信頼を持ってもらえる。これは商品も同じ。電化製品でもSONYだから大丈夫だろう。Panasonicだから安心だ。と買う。これが聞いたことのないメーカーだと「すぐに壊れるかも?』と不安になる。電化製品だけでなく、食料品や車。自転車だって同じ。知られているということは大事なのだ。

それでいうと町も同じ。東京、大阪、名古屋、福岡、札幌というと誰もが知る町。当然、観光客もたくさん来る。横浜、奈良、京都、神戸というと先の都市ほどの規模ではないが観光地として有名なので、多くの人が訪れる。だが、日本には聞いたことのない町がたくさんある。多くの日本人が一生その名前を聞くことのない地名もある。

「生まれはどちらですか?」と言われて「**市です」と答えても、会話が続かない。誰も知らない町だからだ。それはビジネスでも同じ。東京で営業して「どちらの会社ですか?」と聞かれ「***市です」でも、相手は知らない。微妙な間ができてしまう。これが例えば京都なら違う。「ご出身は?」「京都です」「あーいいところですね? 京都のどちらですか?」と話が弾む。

ビジネスでも同じ。会社がどこの町にあるか?分かれば印象が違う。そして覚えてもらえる。「大阪にある***社ね」「名古屋が本店の**建設ね」と。映画のオーディションだって同じ。最後の1人をどうしようか?というとき、同じレベルなら印象が強い人を選ぶことがある。「じゃあ、沖縄出身の彼にしようか?」とか「いかにも関西人の大阪の彼女がいいかも?」ということがある。

いろんな機会において知名度というのは、とても大事なものなのだ。俳優の話を続ければ、確実に知名度がある方が選ばれる。無名俳優と有名俳優。実力が同じなら知名度が高い方を選ぶ。映画館で映画を選ぶとき、聞いたこともないタイトルの映画を見ない。「これ、テレビでやってた奴の映画版!」と、そんな作品でも選ばれる。

テレビ番組でバラエティを見ていても、知らないタレントばかりだとチャンネルを変える。が、よく知るタレントが出てると、何となく見てしまう。だから、局は人気者を出したがる。映画界はまさにそれ。人気者、有名俳優が出ている映画は興味を持たれる。全員が無名だと映画自体がマイナーで、レベルの低いものだと思われがち。こんなふうに知名度というのは、とても重要なことなのだ。

では、どうすれば知名度を上げることができるのか? 特に町の名前を多くの人に覚えてもらうには何が必要か? よく、「観光客に我が町に来てほしい」という人たちがいるが、その前に考えねばならないのは、自分たちの町の「存在」を「名前」を日本各地の人に知ってもらうこと。

町の生き残りも芸能界と同じ。知名度があると、いろんな展開ができる。ゆるキャラはそんな現れのひとつ。クマモンが人気になれば熊本がアピールされる。そのまんま東は自らが広告塔になり宮崎をアピールした。知名度を上げることの大切さを実感する。




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3年前の今日。書いた記事ー映画は「悲しみ」を「希望」に変える仕事。  [my opinion]


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映画は「悲しみ」を「希望」に変える仕事。 

今回の映画。舞台は1983年。同じ年に、あの尾崎豊がデビューしている。ときどき思い出す彼の歌がある。「17歳の地図」のような大ヒット作ではないが、アルバム「Birth」の中に「エターナル・ハート」というあまり有名ではないが素敵なナンバーがある。僕が大きな問題で行き詰まったとき、悲しみにぶつかったときに、何度も聴いた歌だ。

「人はただ悲しみの意味を探す出すために、生まれてきたというのか?」

という一節がある。歌を聴きながら、いつも、その部分に来ると胸を突き刺される。「悲しみの意味を探す出すため」そう。生きていると、うれしいことより、悲しいことの方が多い。感動することより、傷つくことが多いのではないか?

僕の高校時代は絶望の連続だった。

ただ知識を詰め込むだけの情熱のない教師たち。成績でしか友達を判断しない冷めた生徒たち。管理しやさを追求するだけの校則。のちに尾崎豊が歌詞にしたような世界。「心を捨てろ捨てろ」という場所だった。僕は学校の授業よりも、映画とレコードから多くを学んだ。でも、人生の多くの疑問を解決できぬまま、卒業した。

その後、映画監督を目指して横浜で暮らし始める。

そこで同じ夢を追う仲間たちと出会った。思いを分かり合える存在と出会った。8ミリ映画を撮り、監督デビューを競った。しかし、仲間たちは次々に、現実の壁に阻まれ、傷つき、羽根折れて、消えて行った。小さなトラブルに、些細なすれ違いに、親たちの無理解に、ほんのわずかな偶然に心破れ、落ち込み、去って行った。

どんなに励ましても、どんなに説得しても、

仲間たちは心を閉じたまま。夢を諦め姿を消して行った。大人たちが嘲笑する。「世の中、甘くないからね!」と。でも、そんな大人たちは決して夢見ることもなく、ただ、現実を受け入れているだけ、努力もせず、怠惰に生きるだけの人たち。違うだろ? あなたたち大人に、彼ら彼女らを笑う資格はない! でも、そんな彼らに突きつける言葉を当時の僕は持っていない。強い無力感に苛まれた。

僕は6年の留学生活を経て帰国。

アルバイトをしながら、5年かかってシナリオライターになった。作品のテーマはいつも「子供たちに伝える大切なこと」だ。「どうすれば子供たちは幸せになれるのか?」「どうすれば、夢を実現できるのか? どうすればハッピーになれるのか?」だ。そんな僕の元にいつしか若い俳優たちが集まって来た。あの頃の友人たちを思い出す。同じように、夢を追い、自分の可能性を探していた。そんな彼ら彼女らを応援した。だが、やがて、昔の仲間と同じように、大きなの壁にぶつかり、怠惰な社会に蝕まれ、親たちの理解もなく、夢破れて、現実の海に沈んで行った。そのたびにあの歌を聴いた。

「人はただ、悲しみの意味を探し出すために生れてきたというのか?」

無力感に苛まれた。現実の壁に潰されるのならまだ分かる。大いなる可能性を持ちながら、消えて行った子がいる。詰まらぬことに囚われて、自分で自分の首を締め、夢を壊してしまった22歳の女の子もいる。どんなに応援しても、手を差し伸ばしても、彼女は無言で、声を上げずに深い現実の海に沈んで行った。なのに、このときも、僕は、何もできなかった....。何ヶ月も、心から血が止めどなく流れた.......。

夢を追いかけた多くの仲間たち、

俳優を夢見た若い友人たちも、もういない。僕だけが生き残り、映画監督となり、作品を作り続けている。今回の映画「向日葵の丘ー1983年夏」その頃の友人の思い出を重ねたエピソードがある。現実の中では悲しみでしかない事実も、映画にすることで、物語となり、今、現在、夢観る子供たちの支えになるはずだ。「悲しみ」を「希望」に繋げることができる。それが生き残った僕の使命のはず。そして誰にでも、それぞれに出来ることはある。諦めてはいけない。


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人は本当に好きな仕事をすることで、多くの人をハッピーにできる! [my opinion]

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1960年代の日本映画は世界レベル。なのに今はダメ。その理由を黒澤明監督に聞いた人がいる。答えはこうだった。

「当時は監督が本当に撮りたい映画を会社が撮らせていたからさ! でも、今は押しつけの企画ばかり。だから、いい作品ができないんだよ」

これは分かりやすく、同時に分かり辛い言葉だ。では、現在の映画界を考えよう。自分が本当に好きな映画を撮れる監督は非常に少ない。会社が企画したものを依頼されることがほとんど。それも漫画原作とか、人気俳優が主演、主題歌は有名な***と決まっている。

そうなると監督は単なる請負業。この役はこの俳優じゃないのになーというキャスティングでも撮影せねばならない。人は納得できないもの、真剣になれないことはお仕事として対応しがち。特に芸術家とも言える監督はその傾向が強い。全力で映画作りをしない。逆に、本当に撮りたい映画を作れれば全力で作るので名作ができるー昔の映画会社はそれを知っていたので、世界レベルの名作がたくさん作られたが、押しつけの企画ばかりの現代はいいものが出来ないと黒澤監督はいうのだ。

これは映画監督だけではない。どんな仕事でも、本当に好きでやっている人はいい仕事をする。逆に「給料がいいから!安定しているか! 他に仕事がなかったから」という理由で仕事をしている人はやる気が見えず、簡単な仕事でも時間をかけてやる。ラーメン屋でも流行っている店の大将はいつも元気だし、自分が作るラーメンをお客が食べてくれることを最高の喜びとしているように見える。そんな店のラーメンは本当においしい。

映画監督も同じ。例えるとラーメン作りが好きな人に、映画会社は「若い人はハンバーガーが好きだから、作れ」ということが多い。おまけに、肉はこのメーカー。パンはこの店。ケチャップは大手食品会社と指定されるので、クリエイティビティがなくなり、やる気をなくすのだ。そう考えると黒澤監督の言葉は映画監督だけでなく、多くの職業にも当てはまる。

巨匠たちを考えよう。黒澤明でも、市川崑でも、大林宣彦でも、彼らは自分の意思を絶対に曲げない。会社やプロデュサーと戦って、自分が信じる道を進む。結果、名作が完成する。映画は映画監督が「本当に作りたい!」作品を思うように撮ることで素晴らしい作品となるのだ。

巨匠たちに学び、無茶だと知りながらも僕は1作目の「ストロベリーフィールズ」から夏撮影予定の「明日にかける橋」まで、全て自身が企画した作品。どれも原作はなく、オリジナル・シナリオを自身で書いている。キャスティングもスポンサーからの押しつけではない。演出、編集、音楽、完成まで、自分の思う通りやらせてもらう。本当に撮りたいから頑張る。だから毎回、評判がいい。「感動した」「泣けた」「俳優が素晴らしい」と言われることが多い。それも本当に撮りたい映画を撮っているからだろう。

ところが、その構図を一部の人は理解できないようだ。日本人的な発想が影響している。「嫌な仕事でも一生懸命やることが大事」という人が多い。それはその通りだ。しかし、その発想が曲がってしまい、こういう人たちがいる。「辛いのが仕事。楽しいのは遊び」「好きなことばかりできるほど世の中甘くない」つまり、仕事は辛いものであり、楽しいのは遊び。好きなことをするのも「遊び」「趣味」「身勝手」という考え方だ。僕も映画を撮った地元でこう言われることがある。

「結局、監督は自分が撮りたい映画を撮っているだけだろう?やりたいことをやるのは遊び。厳しい仕事に取り組んでいないね〜」

その延長でこういう人もいる。

「好きなことやってんだから、ギャラはいらないでしょう?」

何でそうなるの?と思っていたが、先の論理だ「仕事は厳しいもの=耐えてやる人は偉い」「好きなことをやるのは趣味=楽しいだけ。仕事と言えない」その考え方をする人の多くは「好きでもない仕事」をしている人たちだろう。そして「好きな映画を作る」方が依頼された「嫌な映画」を作るより何十倍も大変であるか?を知らない。

そして嫌々仕事すればマズいラーメンしか作れないが、本当にラーメンが好きなら、美味しいラーメンを作れる。映画も同じ。監督が本当に作りたい映画を作ることで、苦労はあっても素晴らしい映画ができる。なのに「あの監督は自分が作りたい映画を作っているだけだ」と批判する。そして「俺たちは利用されているだけだ」とまでいう。スタッフ&キャストが全力で自分たちの町をアピールする映画を作っているのに、そんなことをいう住人が必ずいる。

では、逆に監督が撮りたくないものを撮らせればどうなるか?クオリティの低い映画ができるーその手の批判をする人はそんなことを望んでいるのか? にも関わらず「耐えることが大事。嫌な仕事を我慢してがんばるのが大人!」という考え方をする人がいるのだ。戦後、日本ならその発想も意味があったが、現代ではもう成立しない。

僕にとって大事なことは、観客が喜んでくれる映画を作ること。クオリティの高い作品を作ることだ。作りたい映画だかこそ、ギャラが安くても、7人分の仕事をしても、過労死しそうでも努力する。諦めない。手を抜かない。自分が真剣になれない企画はどんなにギャラが高くても受けない。ま、その結果、いつも赤字が出ると、その穴埋めに監督料脚本料を使うので、映画が完成して残るのは、いつも膨大な借金だけということが多い。

でも、それで素敵な作品ができればいい。監督が真剣にかかるからキャストやスタッフも真剣になる。そして素敵な作品ができる。地元の皆さんは喜んでくれる。各地の人が映画に感動。「この町へ行ってみたい!」と思う。皆がハッピーになる。だから若い人にはこういう。

「本当にしたい仕事をしろ。それは簡単なことじゃない。求人募集がない仕事もある。でも、その仕事をどうすればできるか?真剣に考えて行動すれば、必ず就くことができる。年月がかかっても諦めなければ掴める。好きな仕事をすれば多くの人をハッピーにすることができる。我慢しながら嫌な仕事をして、がんばる人を批判する人生を選んではいけない」





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自分らしさって何だろう? 自分しか作れない映画ってどんなだろう?(後編) [my opinion]

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 自分らしさとは何か?ー考えてみる。僕を含め多くのクリエーター。漫画家も、俳優も、ミュージシャンも、作家も、漫才師だって、自分が好きなクリエーターの真似、模倣からスタートする。島田紳介はB&Bの漫才を録音して書き起こし、そのネタを分析したという。そんなふうに、自分の好きな人を把握。自分との共通点。相違点を探して行き、憧れの人とは違う、自分らしさを探して行くのだ。

 僕の場合。海外で言えば、スピルバーグ、ルーカス、カーペンター、ピーター・ウィアー、論・ハワード、ロバート・ゼメキス等の監督が好きだった。日本なら大林宣彦。それらの先人たちの影響を受けていること実感する。でも、そこからがスタート。単なる模倣でなく、先日たちにはないもの。自分にしかないものを探す。

 デ・パルマやカーペンターはヒッチコックから大いに影響を受けている。が、単なるコピーではなく、彼らなりのオリジナルやテイストが存在する。ルーカスは黒澤明の影響大だが、独自の「スターーウォーズ」観を持つ。それがクリエーターのあり方だと思える。

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 自身を振り返ってみると、元々SF、ファンタジーが好き。だから「インディジョーンズ」や「スターウォーズ」も好きだが、あの手の作品を作りたいとは思わなかった。好きなのはテレビ版の「スタートレック」や「トワイライトゾーン」映画では「スプラッシュ」「コクーン」「ポルターガイスト」。

 まあ、SFものは子供の頃から特撮ものを見ていたせいだろう。円谷の「ウルトラシリーズ」東宝の「ゴジラ」シリーズ。漫画なら永井豪、石森章太郎らもSF設定の作品が多い。

 SFから離れれば「刑事ジョンブック 目撃者」「今を生きる」「素晴らしきかな人生」のような文学調の作品が好き。あと、もちろん、大林宣彦作品「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」「ふたり」「あした」「ねらわれた学園」等は大好き。大林監督もファンタジーが多い。

 黒澤明作品では「生きる」「赤ひげ」「野良犬」「酔いどれ天使」「天国と地獄」等。そう考えて行くと、「スターウォーズ」のようなど真ん中のSFより、SF設定のもの。そして感動ものが好きだと分かって来る。当時、それを分析した訳ではないが、その方向が作品カラーになって行くのが分かる。

 「ストロベリーフィールズ」はファンタジー。これは大林監督の作品に近い。今回の「明日にかける橋」もファンタジー要素がある。でも、その他の作品はその要素ゼロ。「青い青い空」は青春もの。「朝日のあたる家」は原発事故に巻き込まれた家族の物語。「向日葵の丘」は30年の月日を背景にした友情物語。SF好きとは思えない。それはどこから出てきたのか?

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 「朝日」ー実はあの物語の構図は怪獣映画だ。見えない怪獣が出現するというもの。「世界大戦争」の影響も大きい。ただ、「青い青い空」は「スイングガールズ」や「シコ踏んじゃった」等のカルチャー挑戦ムービー。僕の趣味になかったもの。これは自分のどこから出て来たか?よく分からない。「向日葵」もそうだ。それに準じる好きな作品が思いつかない。

 あれこれ考えてみると、SF映画、漫画、文芸作品、大林映画以外で影響を受けている作家を思い出す。テレビドラマの脚本家・山田太一と倉本聰だ。80年代彼らの作品は一世風靡。映画を超える感動作を連打している。山田太一は「男たちの旅路」「ふぞろいの林檎たち」「深夜にようこそ」「岸辺のアルバム」「早春スケッチブック」「時にはいっしょに」等。倉本聰はご存知「北の国から」そして「ライスカレー」「昨日、悲別で」「君は海を見たか」等。

 どれも魂を揺さぶるドラマ。よく、あの時代はそんな作品を作り得たな?と思うほどだ。それらにも僕は多いに影響を受けていると思う。もしかしたらSFファンタジーより、こちらが進むべき分野であり、無意識にそちらに舵を取ったのかもしれない。


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 例えば「青い青い空」の長門裕之さんが演じてくれた和尚は、「男たちの旅路」の鶴田浩二であり「早春スケッチブック」の山崎努のキャラだ。「朝日のあたる家」はまんま「岸辺のアルバム」の最終回だし。(これは意識した。原発事故を物語にする上で、どんな器が必要か考えていてあのドラマだと)「向日葵の丘」は倉本聰の「昨日、悲別で」や「ライスカレー」の感覚を感じる。

 こんなふうに考えると、作品作りとは、自分らしさとはワイン作りと似ている。いろんな材料を樽に入れて、年月をかけて発酵させる。そこで出来たものが作品。あまり意識してはいなかったが、そんなふうにして自分らしい物語を作るようになった。「作品を見たらその人が分かる」と言われるが、まさに自分らしさが出ているということなのだ。

 細かな展開は自身でも分からないが、そんな風にして作品から学んだこと。自分の中で昇華して。そこに
じぶんなりの経験等が投影されて物語を生み出すということなのだろう。振り返ってみると、ある未発表作品「救世主ケイン」というミステリーが自分らしい作品を作り始める原点だと思えるのだが、長くなるのでまた別の機会に書きたい。ともあれ、「自分らしさ」を出す事はむずかしいが、どんな分野でも一番大切なことだと思える。



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「夢はしょせん夢だよ」という人。でも、それは違う! [my opinion]

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こんなコメントを頂いた。「日本の業界の多くは大手が幅を効かせ、中小を抑圧して、自分たちだけが暴利をむさぼる構図があるけど、映画の世界も同じなんですね」「世の中、こうしたもの。しょせん強いものが勝つようにできているんだ」

人は汚い裏側を知ると失望し、絶望し、諦めたり、努力をむなしく思ったりしがち。でも、そんなふうに考える背景は何か?と考えてみると、何度も書いてきたけど、やはり日本の教育にあるんじゃないだろうか? 暗記中心。考える訓練があまりなく。与えられたことを確実にこなすことを目的とした教育。

要は優秀なサラリーマン育成が目的。上から言われたことを迅速に確実にこなす能力が高い人材を選びだすため。だから、多くの日本人は上から与えてもらわないと指示や命令をもらわないと、動き出せない。その環境が理不尽なものや厳しいもであるとき、自分で分析して、自ら目的を作り、突き進むというのに慣れていない。

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つまり、勉強や仕事ができる環境があった上で、与えられたことを確実にこなすという訓練しか受けていないので、魑魅魍魎の世界や断崖絶壁を垣間見ると、すぐ絶望して諦めてしまう。でも、もともと現実なんて厳しいものであり、大自然だって公平ではなく、弱肉強食の世界。その中でどうやって生き抜いて行くか?が生物の戦いのはず。

そして、どんな厳しい状況でも、不可能に思われる事態でも、考えて、考えて、考えれば必ず方法は見つかる。お手軽にはできないし、年月もかかるけど、必ず変えることはできる。その方法論を間違わなければできる。でも、学校ではそんな方法論を考える勉強はせず、「これは***方程式で解きなさい」とか「この作家は***を訴えています」と教える。それに従って問題や設問を解くだけの教育。

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だから、方法論を考えだすことができず。教えてもらわなかった事態に遭遇すると投出し、諦め、絶望するのだと思える。そして「世の中、甘くない」「夢はしょせん夢にしか過ぎない」「現実をシビアに受け入れるのが大人の考え方」と自分を戒めて納得。夢を封印し、理不尽を受け入れ、耐えて生活するのが人生だと考える。

でも、それは方法論を見つけることができないだけだ。僕自身の経験だが、学生時代に「映画監督になる!」といって、どれだけ多くの大人たちに反対され、批判されたことか。「世の中甘くない」「夢みたいなことをいうな」「諦めが肝心」「お前、才能あるのか?」散々、否定され続けた。調べても映画会社は社員の受け入れはしていない。業界に知り合いはなし。八方塞がり。でも、足掻き続けて、何年も転がり続けて、今、監督業をやっている。

監督になってから「自分で製作費を集めて、本当に作りたい映画を作る!」といったときも業界の友人、先輩から大反対された。「絶対に無理」「前例がない」「お前に金集められる訳がない」といわれた。けど、必死に方法論を考え、走り回って、多くの人の応援もあり、今回で4本目の映画を作っている。全作とも、僕が本当に作りたい作品であり、自分が望まないものを雇われて作ったことはない。

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僕は学生時代。まじめな優等生ではなかった。高校時代は「落ち零れ」と言われた。与えられたことを確実するだけの授業にうんざりしていた。けど、その頃から「どうすれば監督になれるか?」「どうすれば映画を作れるのか?」「どうすれば自分が作りたい映画が作れるのか?」考え続けた。考えれば答えが見えてくる。実践する。ダメなら別の方法でチャレンジ。諦めなければゴールまで行けることを実感した。僕でもできるんだから、誰だってできると思える。

お店でも、レストランでも、弁当屋でも、カフェでも、大資本のチェーンが君臨しているが、個人でもできる方法はあるはず。金や宣伝だけで成功するものではない。或は、俳優になりたい。歌手になりたい。小説家になりたい。漫画家になりたい。デザイナーになりたい。いろんな夢がある。それも命がけでかかれば実現できるはずだ。

でも、そのためには専門学校に行ってもダメ。マニュアル本を読んでもダメ。方法論を必死で考えて、実践すること。10年かけてもやる覚悟が必要だ。ただ、これまで受けてきた日本の教育に縛られて、その方法論を考えることができない人が多い。与えてもらわないと何も始まらないと思っているけど。実はチャンスも方法論もたくさんあって、それに気づかないだけ。やればできる。僕はそう考えている。




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1時間働けば時給がもらえるのが当然!ーと考える若者たち?! [my opinion]

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【1時間働けば時給がもらえるのが当然!ーと考える若者たち?!】

 友人が大学生の頃。こんなことを言っていた。「普通の会社に就職するのは嫌だ。映画の仕事がしたい。月20万もらえるなら脚本家の仕事をしてもいいんだけどなあ」?????当時、僕はすでに映画界で働いていたので、もの凄い違和感があった。が、脚本家の求人なんてある訳がなく。彼は普通の会社に就職した。

 友人だけではない。ときどき専門学校に呼ばれ特別講義をする。そこでこんな質問を受けた。「映画監督業は食えますか?」「月いくらの収入がありますか?」そんな質問が出ること自体に腹が立ち正直に答えた。「監督業はブラック企業を超える。アルバイトをすれば時給900円とかもらえるが、監督業は時給50円。いや、日給50円。月収50円ということもある。それが監督業だよ」

 そういうと生徒たちは「映画監督なんてなるものんじゃないなあ」という顔をする。だが、それが現実。年収ゼロ円という監督もいる。奥さんに食わせてもらっていたり。アルバイトで生活している先輩もいる。監督業は厳しいという話ではない。そもそも、大学生の友人や専門学校の生徒の発想が間違っていると言う話をしたい。

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 彼らの発想はバイトが基本になっている。1時間働けば900円。たいていのバイトはそんな感じ。1日10時間労働で9000円。1ヶ月に20日間働けば18万。「それならどーにか生活できるかなあ?」という考え方だ。しかし、それはバイトや会社員の世界での価値観。映画の仕事は監督でも、脚本家でも、カメラマンでも、技術がいる。質問をした生徒たちは、まだ何も技術を持っていない。にも関わらず1時間働けばいくら? 1日働けば***円という計算ばかりしている。

 何の技術もない彼らが撮影現場に来ても、何の役にも経たない訳で、1時間いくらどころか、1円たりとも払われることはない。いや、現場に呼ばれることすらない。そのことに気付かず。「監督をやれば、いくら? 脚本家なら**万円?」と時給計算をしている学生たちは、基本的におかしい。

 バイトというのは、ちょっと教えてもらえれば出来る仕事。特別な技術は必要ない。だから、1時間900円とかいう賃金をもらえる。だが、映画の仕事は誰にもでできるものではない。技術があった上にセンスも必要。それを持った人にギャラを払って働いてもらう。その違いを学生たちは理解せず。1時間働けば***円とバイトの感覚で考えるので、ズレてしまうのだ。

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 ベテランのスクリプターさん。彼女は若い頃からスクリプターの仕事をしたかったという。が、経験がない。そこで友人に頼み込み、ノーギャラで、それも見習いで撮影に参加した。1年仕事をしたがノーギャラ。何の技術も経験もない人に賃金は払われない。逆に本来なら彼女は現場でいろいろと学ぶのだから、授業料を払わなければならない。ノーギャラでもメリットは大きい。

 頼み込んで低予算テレビ番組の撮影に参加してもらい、1年間勉強しながら現場をこなした。が、彼女の本当の目的は映画のスクリプターだった。テレビと映画のシステムは違う。そこでまた1年間、見習いで映画撮影に参加。仕事を学んだ。今は一人前のスクリプターとして、それなりのギャラをもらっているが、映画の世界では、技術も経験もない者には1円たりともギャラは払われない。

 そもそも経験のない人は撮影の邪魔になったり。足を引っ張ったりすることが多いので、撮影には参加させてもらえないことが多い。1年間も現場で働いたということは、彼女がかなり優秀で頑張り屋だったということ。今の映画界に新人を育てようという思いはないし、低予算化の波で、役に立たない者はすぐに解雇というのが現状である。

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 さて、思い返してほしい。そんな世界で「月20万円もらえるなら脚本家になってもいい」という大学生。何の技術もない生徒が「監督業は月いくらもらえますか?」と質問。学生にありがちなバイト感覚でしかないことが分かる。だが、これは映画の世界ばかりではない。一般の会社も昔のように、新入社員は業績を上げなくても、数年は月給もらって勉強というところは少なくなっている。何らかの技術やスペシャリティのない者は採用しない会社が多い。

 「月給は30万はもらわないとね!」とかバイト感覚で言っていると、社会からはじき出されてしまうだろう。時間の切り売りをして、賃金をもらえるのは、アルバイトだけなのだ。その発想で「仕事」を考えてはダメ。「仕事」を得るためには、それなりの「技術」や「経験」が不可欠。映画界だけでなく、一般の社会もそうなって来た。

 大学の4年間。或は専門学校の2年間。バイトして、コンパして、旅行して、さあ、就職だ!といううときに、技術も経験もないと大変なことになるだろう。

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 最後に少し前に専門学校に行ったとき、出た質問を紹介する。

 「太田監督の撮影現場はボランティアでお手伝いしている人がいると聞きましたが、僕らも参加できますか? それから1日いくらもらえますか?」

 僕は答えた。

 「通常は撮影現場に一般の人は入れない。技術も経験もない人が参加すると、トラブルを起こしたり、隠れて俳優の写真を撮ったり、大変なことになることが多い。だから、よほど信頼できる人で、映画愛のある人。この映画を応援したい!という人だけを厳選。撮影の過程を経験、一緒にがんばることを楽しんでくれる人たちのみ。お願いする。その意味で君はダメ。ボランティア・スタッフでいくらもらえる?なんて質問する段階でアウトだ」

 その生徒はあとで「よく分かりました。ノーギャラでもいいので、手伝わせてください」といってくるかと思ったが「何だ、タダかよ!」という顔で帰って行った。バイトというシステムが若者たちに勘違いさせ、時代を逆行していることを改めて感じた。学校教育で与えられたことだけをやっていたら、社会に出て大変な事になる時代。なのに気付かぬ若い人が多い。悲しい話である...。




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「夢見る力」シリーズ=成功する人。できない人。その違いはどこに? [my opinion]

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 十代からいろんな人を見て来た。いろんな夢を語る人を見て来た。だが、その多くは夢破れた。100人いて、夢を掴むのは1人くらい。残り99人の夢破れた人の共通点を思い出す。

皆、憧れがあった。「松田優作のようになりたい!」「黒澤明監督のようになりたい」「ビートルズのようになりたい」最初は憧れからスタートするのは普通なのだが、それら友人たちはこういう。「松田優作のようにテレビや映画で活躍したい」「黒澤のような尊敬される監督になりたい」「ビートルズのように人気者になり金持ちになりたい」

要約すると、「有名になりたい」「人気者になりたい」

「金持ちになりたい」「チヤホヤされたい」という思いが強い。そして第三者の視線を気にしている。「尊敬されたい」「好かれたい」「多くの人の注目を集めたい」でも、この辺は人の本能ともいうべきところで、自己確認である。家族に愛されていない。友達が少ない。バカにされている。或いは自己愛が強い。そんなタイプは欲求が強い。でも、多かれ少なかれ、皆そんな欲求を持っている。

つまり、俳優になりたい、ミュージシャンになりたい、という人たちの多くは、演技をしたい、演奏をしたい、というより、人気者になりたい、注目を集めたいというタイプが多い。もうひとつ。それらの人が勘違いしがちなのは、彼等彼女らはドラマを見るのは好き、音楽を聴くのは好き、なのである。なので、それを提供する側に立ち、多くの人にチヤホヤされるといいな.....という経緯で「俳優になりたい」「ミュージシャンになりたい」と思うようになる。

ここで以前書いた「夢を語るのに何もしない人たち」の話になる。

もともと、彼等は演技をしたり、演奏することを望んではいない。松田優作や松田聖子に、木村拓哉や布袋寅泰に憧れ、あんなふうになりたいだけ。その夢を語ると魔法の言葉。「あいつは夢があるんだ。俳優になりたいのか、スゴイな」とまわりが認知する。もともと、多くの人にチヤホヤされたい性格。いい気分。

でも、もともと、演技するとか、演奏するとかがしたい訳ではないので、何もしないで、専門学校に通い、バイトを続ける。その先は以前書いた通り。夢破れて「現実は甘くない... 」と嘆くのである。もう、お分かりだろう。彼等はもともと、俳優になって演技をしたい。ミュージシャンになって演奏したい、小説家になって小説を書きたいのではなく。自分がファンであるアーティストたちのようになって、チヤホヤされたい。人気者になりたいというだけだったのだ。

それでプロになれるはずがない。

が、そのことを本人は気づかず。本当に芝居がしたい訳ではなく、演奏したい訳でもないから、その努力もせず。あるいはちょっぴりやってみる程度。で、夢破れて「現実は厳しい」と嘆き。自身の問題に気づかぬまま、その後の人生を送るのだ。

長くなったので急ぐが、成功した人たちを見てみよう。共通するのは「人目は気にしない」「金持ちになろうとは思ってない」「自分の好きなことを仕事にしたい。食えなくてもいい」そんなタイプが多い。人気者になりたいとか、チヤホヤされたいとか思っていない。むしろ、そんなことが嫌い。芝居をするのが何よりも好き。演奏するのが楽しい。小説を書くと何日でも外へ出ない。言い換えれば変人ともいうべき人たちが多い。

結論としていえること。

俳優になりたい人は「芝居がしたいのか?」「人気者になりたいのか?」ハッキリさせること。「金持ちになりたいのか?」「貧しくても好きな仕事をしたいのか?」そうやって、ひとつひとつ潰して行くと、本当の自分の思いが見えて来る。「有名になる」「金持ちになる」という欲求は多くの人が持つ本能的なもの。悪いことではない。ただ。それが目的なら表現者にはなれない。

この話はまだまだ奥があるのだけど、今回の結論はこれ。「貧しくても、好きなことをしたい。有名にならなくてもいい」という人が結果、成功して、有名になり、金持ちになったりするのである。「有名」と「金」を追うと結局、そこにはたどり着けない。


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「役立ちたい!」と思いながら人を傷付ける人達? [my opinion]

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夢を追い掛ける。例えば芸能人になるとか、

ミュージシャンになるとか、俳優になる。小説家になる。というと「カッコいい!」と思いがちだが、なかなか大変なものだ。

 まず、多くの人が寄ってたかって「現実を見ろ」「世の中甘くないぞ」と頼みもしないのに批判、説得にやって来る。親も、友人も、教師も、親戚も、ご近所さんもまず応援してくれない。「辞めろ」「無理だ」「夢はしょせん夢なんだ」「そんなことで食って行けるのか?」とコールを始める。

 僕もそんなことを言われ続けた1人。高校時代に「映画監督になる!」と決めてから、まわりからバッシングの嵐。皆は「お前のために言っている!」というが、邪魔されているとしか思えなかった。そして振り返ると、忠告(?)のつもりで「やめた方がいい。世の中厳しいんだ!」といった大人たちの誰1人、映画の仕事をしたことがなかったこと思い出す。

 それでいて「映画の世界は厳しい!」と言う

「映画監督になんて簡単になれないぞ!」と説教するのだ。不思議なのは大学受験で「早稲田を目指します」「慶応大学を受験します」というと、「おー凄いなあ。がんばれ」という人が多い。もちろん、その生徒の成績を知る担任や親なら「無理じゃないの〜」というが、ほとんどの大人は誉め称え、応援する。「世の中甘くない」「現実を見ろ」なんて言わない。

 もちろん、誉め称える大人たちが早稲田や慶応を卒業している訳ではない。とすると、おかしいのは自分たちが知らない芸能人になることは反対するのに、自分が卒業した訳ではない一流大学を受験するのは応援する。何が違うのか? たぶん、「早稲田や慶応なら努力すれば合格するだろう」という思いがあるのだろう。それに対して「芸能界は努力だけではいかない、運もあるし...」とか想像する。でも、それはヘンだ....。


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 芸能人が近所にいないということもあるだろうが、早稲田、慶応の生徒だって近所にゴロゴロいない。その意味では同じなのに、なぜ、芸能とか芸術というと反対するのか? 要は自分の想像し辛い世界に対する拒否感、不安感がそうさせるのだろう。

 見ていて不安なことを「やめろ」と言っているのである。そう考えて行くと、人の心理が見えて来る。「あなたのため」「現実を教えてやらなければ」といいながら、自分の知らないことを批判したり、忠告したりする。「正義を得たり!」というようにあれこれ言う。



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そして、それが応援とか親切だと思っている。同じ構図。そこから分かること。人は「親切」のつもりで、自分の知らないことを、あれこれ言いたくなる。そして「私は役にたった。彼のために意味ある行動をした」と感じたいのではないか? 

 しかし、現実は邪魔をしているだけ、無意味な批判をしているだけであり、本人のために何の役にも立たっていない。そんなことを繰り返す事で、本人から嫌われるような状況を作り出している。さらに言えば、嫌われたときに「親切で言っているのに!」とその人に対して憎悪を持ち。敵対心を持ってしまうことが多い。

 悲しいことだ。

この一連に悪意を持つ人はいない。「親切心」や「応援」しかない。それが結果的に絆が切れて互いに憎悪しか残らない。何が問題か? それは自分の知らないことをあれこれ説教したり、アドバイスしたりして、批判、忠告することだ。その裏に「親切心」があるとしても、本来、そこが間違っている。

 医者でもない人間が「調子が悪い」という友人に「それは糖尿病だから酒を控えた方がいい」なんてアドバイスするだろうか? それは親切ではなく、間違った忠告なのだ。それと同じことを、夢追う若者やFacebookの「友達」にしてしまう人がとても多い。

 では、なぜ、彼らは知らないことを忠告したり、説教したりしてしまうのか? その答えはすでに書いた。「人は誰かのために役立ちたい!」という思いがある。「困った人を助けたい」「迷える人を救いたい」「自分ができる何かを人のためにしたい」そんな優しい思いがある。が、その「思い」が強いので、自分が知らないことまで忠告したり、説教することがある。

 悪意はない。あるのは優しさ。

でも、そのために問題が起こる。悲しい話だ。どうすればいいのか?その人たちに「知らないことは言わないようにしましょう」と言っても理解できないだろう。そもそも親切のつもりだ。この状況。似たようなものを思い出す。地方での生活だ。近所の人や親戚のオジさんなんかが会うたびにこう訊く。「成績はどうだ?」「大学はどこを受ける?」「就職はどの会社だ?」「結婚は?」ーなんでそんなこと答えなければならないの?ということをズケズケ聞かれた。

 都会で近所の人がそんなことを若い人にあれこれ聞かない。なぜか? 田舎では昔ながらの近所付き合いあり、互いが顔見知りなのだ。***さんの息子さん。***社長の娘さんと、大人たちは子供のことを生まれたときから知っているのだ。だから、心配。だから、応援したい。だから、あれこれ訊く。もちろん、プライベート詮索したいという好奇心もあるが、基本、親切なのだ。でも、だから、あれこれ訊いて来る。

 Facebookも同じ。基本情報を見ればその人が何者か?分かる。毎日、ラインを見ていれば自然に親近感を持ち、応援して上げよう。教えて上げようという気持ちになる。おまけにコメントが簡単にできてしまうシステム。だから、あれこれ言いたくなる。地方生活とFacebook世界は非常に似ている。


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 そう。この2つは同じ背景だ。

忠告する人。される人は互いによく知る関係。だから、親近感がある。応援したい。傷ついてほしくない。だから、何かいいたくなる。それが役立つこともあるだろう。先のようなケースばかりではない。そんなアドバイスに感謝する人もいるはず。ただ、僕の場合は、学生時代にあれこれ大人から当て外れの忠告をされて、うんざりしていていた...。そんな環境のマイナス面を僕は強く感じてしまうのだろう。

 思うのは、もし夢を追う若い人がいるなら、あれこれ言って来る大人たちの言葉には耳を塞ぐべきだ。そのほとんどは当て外れなもの。僕の経験からはそう思う。もし、あなたが俳優を目指しているとして、大人たちがあれこれいう。その中に芸能界で働いた経験がある人がいるなら、俳優の友人を持つ人がいるなら、耳を傾けた方がいい。でも、それ以外の人たちの言葉を聞く必要はない。「親切心」からの忠告だとしても、それは何の役にも立たない。

 結論として思う事。

人は親切な生き物だ。が、同時に「人の役に立ちたい」という思いがある。それを満足させるために、自身が知らないことで忠告やアドバイスしてしまうところがある。それは相手に嫌な思いをさせるだけなのだが、本人は気付かない。相手を責めても理解されない。ということ。

 でも、自分の選んだ人生。本来、生き方を他人があれこれ言うべきではない。本当に役に立つアドバイスや忠告ならいい。でも、残念ながらそれはほとんどない。多くは知らないことを言っているだけなのだから。それがいかに「親切」からスタートしたことだとしても。当て外れな批判、誹謗中傷されるのであれば、最初から聞かない方がいい。

 そう考えて行くと別の問題に気付く。地方の生活やFacebookだけでなく、コミュニティやグループというのも、同じ側面があるのではないか? 人がいる限り、人は「誰かのために役だちたい」という思いがあり、行動をする。それがまた「知らないことを忠告する」という御節介になってしまう。それから逃れるには「アルプスの少女ハイジ」のオンジのように、山に籠もり。1人で生活するしかないのだろう。

 夢を追う人たちだけでなない。夢を掴んだ人たちも実は同じ大変さが待っている。それはまた別の機会に書くが、人の優しさと大きなお世話ーどう考えて行けばいいのか? 難しい問題。

















 
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