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悲観主義者は成功しない。最後の勝つのはオプティミスト? [my opinion]

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なぜか?日本人はペシミスト(悲観主義者)が多い。ものごとを悪い方にばかり考える。例えば「俺は会社を作り世界と商売をするぞ!」と宣言したとする。まわりは必ずこういうだろう。「甘いなあ~」「身の程知らず」「そんなの無理に決まっている!」多くの人は夢や目標を批判、否定しようとする。

その背景には日本人の考え方があるだろう。「世の中に期待しない」「夢は所詮、夢」と厳しく悲観的にものごとを考えることが大人の発想であり、世間を知っていることだという意識があるからだ。だから夢を語ると、先のような批判をされる。

僕自身も経験がある。高校時代に「映画監督になりたい!」といったら、友達や先生、親、大人からもの厳しく批判、否定された。「世の中、そんな簡単にいかない」「もっと現実を見つめろ」「小学生みたいなことをいうな」「お前、才能あるのか?」ともう総攻撃。その後は夢を語らないようにした。

それがアメリカ留学し、大学の先生やクラスメートに「夢」を訊かれて答えたときは全然、違う反応だった。「映画監督か!グレート。がんばれよ」「グッド!いいね」「絶対になれるよ。応援する」ほとんどが好意的な意見で、背中を押すものばかり。日本は止めようとする人ばかりだったのに、何が違うのか?

僕が留学したのは23歳。日本なら大学卒業、就職の歳。後ろめたいものがあった。大学でそんな話をしたことがある。「僕はもう23歳だから…」というと「何いってんだ。まだ、23歳じゃないか!」「まだまだ、これから、何だってできるさ!」と、これまた何人もから言われた。アメリカは楽天家ばかり? でも、とても励まされた。

確か、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースも60歳を超えてから成功したと聞く。さすが、アメリカン・ドリームの国。大学で出会った人たちも、皆前向きだった。で、気づいたのは日本は何で夢を語ると否定したがるのか? なぜ、夢を否定する? 厳しい現実を受け入れることを大人の考え方だと思い、何かにがんばろうとすると「子供じゃないんだから」などというのか?

日本に帰ってからも、僕は「映画監督になること」を目標にして、アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。相変わらず、友達も、親も、知人も、声を揃えてこういった。「いい加減。現実を見ろ。いい歳なんだから、早く会社に就職しろ!」そして相も変わらず「世の中、甘くない!」と言われた。

身のまわりでも、「ミュージシャンになりたい! 」「俳優になりたい!」「小説家になりたい!」という友人がいたが、1年、2年と経つと、次第に脱落。ふるさとに帰る者。会社に就職する者が出てきて、5年も経つと皆、いなくなった。「やっぱ、食って行けないから」「しょせん夢は夢なんだよな」そんな言葉を残して消えて行く。大人たちは、そんな彼らを見てこう言う。

「世の中、甘くない。諦めが肝心だよ…」

しかし、それは違う。彼らは全力で努力して諦めたのではなく、ほとんどが努力不足。見ていると、少しばかり足掻いてみて駄目だと、落ち込んで悩む。その期間の方が努力する時間より長い。もともと彼らは「日本でもアメリカン・ドリームを実現するぜぇ!」というタイプではない。大人たちと同じように、何かにつけ友人に対しては「世の中、甘くないぞ!」と言っていた。

「俳優になりたい!」といいながらも、現実の厳しさを認めるペシミストだった。だからこそ、2年3年で諦めてしまったのだ。そもそも、数年で俳優や小説家になれる訳がない。でも、彼らは自分の努力が足りないのではなく「世の中が厳しい。だから無理なんだ」という解釈をして行く。

気持ちは分かる。僕も何度か挫折しそうになった。いろんな努力をしても、なかなか映画監督へのチケットは手に入らない。でも、人が机の上で考える方法論なんて、ものすごく限られたもの。本当は別のところに、違った方法論があるものだ。なのに、ペシミストはそうは考えず。「世の中は甘くない。厳しいんだ」と解釈して諦めてしまう。

一方、オプチミィスト(楽天家)は「もう少し、がんばれば、別の出会いがあるかもしれない。別の方法論が見つかるかもしれない」と考えて、諦めない。そう、この「諦めない」ということが大切なのだ。ペシミストは努力しないのに「世の中甘くない」と考えて諦める。だから終わったしまうのだ。

実際、僕は5年目で脚本家になるチャンスを掴み、2年後に監督になる。さらに8年後に映画監督デビューする。それから4本の映画を撮り。最新作は日本全国32カ所の映画館、シネコンで公開される。もし、途中で諦めていたら今の自分はない。

振り返ると、アメリカ時代にもらった言葉に支えられたと思う。「まだ、23歳じゃないか?」「今からだってできる」「映画監督?グレート。がんばれ」「絶対になれるよ。応援する」特別の人ではない、普通のアメリカ人から何度もそう言われた。だが、僕がアメリカには行かず、ずっと日本で生活していたらどうだったか?

バイトを続けながら、映画監督を目指していたら? ほとんどの大人、そして友人たちがこう言い続けただろう。「世の中、甘くない」「夢は所詮、夢だ」「どーせ、無理だ」「可能性は低い」そんな言葉を何年も何年も聞いていると「そうだよな。やっぱ無理だよな」と思ったはずだ。そして、夢を諦めることこそ、大人だと思い、就職。がんばる若い人を見れば「甘いんだよなー」といいたくなったろう。

こんな言葉を聞いたことがある。「最後に勝つのはオプティミスト」そして「世の中には失敗した人と成功した人がいるのではなく、諦めた人と成功した人がいる」アメリカン・ドリームというのは決してアメリカ固有のものではない。ただ、日本人の多くはペシミストであり、何かがんばる人がいると頼みもしないのに「世の中甘くない」「現実は厳しい」と言いに来る人たちが多い。

それで若者は結局、諦めてしまう。けど、夢でも、目標でも、テーマでも、自分が掲げるもの、目指すものを掴むことはできるんだ。それには努力や洞察力も必要だが、一番大切なのはペシミストにならないこと。オプティミストでいること。そして「諦めない」ことなのだ。何事も諦めてはいけない!

(2015年2月)


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【有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか?】 [my opinion]

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【有名人と交流があると自慢する友人。なぜ、人は有名人が好きなのか?】

学生時代。有名人と交流があることをやたら自慢する奴がいた。「俳優の**さんと知り合いだ」「***監督の家に呼ばれた」「***さんとはもう1年以上の付き合い」でも、ほとんどが嘘。ただ、完璧な嘘ではなく、付き合いはないが会ったことがあるとか、同じ会場にいたとか、1%は事実。そこから妄想(?)が始まり「会ったことがある」=>「友達だ」と思い込んでしまうタイプのようだ。

なぜ、彼はそんなすぐにバレる嘘を付くのか? それは子供が友達の気を引きたくて「うちには外車がある」とか「****のおもちゃがある」と嘘をつくのと似ている。注目を集めたい。尊敬されたい。そんな子供と同じ。もっというと、嘘というのは努力せずに、関心を集めることができる。楽して注目されたい!という思いが根底にあり。友人はまさしく、そんなタイプだった。

ただ、彼はもう学生だったので、「おもちゃがある」とか「家に外車がある」ではなく、「有名人と知り合い」という手を使う。なぜか? 有名人と知り合いであることが自慢になるのか? 僕は10代からそう思っていたが、結構、有効な手であること。のちのち分かって来る。例えば、友人が「有名な映画監督の***さんと交流がある。お世話になっている」と言えば、皆「へーーー」という。つまり、友人は何らかの素質や実力が認められたからこそ、面倒を見てもらっていると解釈するからだ。

しかし、有名タレントの場合はどうだ? 「人気俳優の***と友達だ」といっても、それはたまたま友達!と思うのだが、多くの人は「へーーー」という。それで何のメリットがあるというのだ? 大手企業の社長を知っているというのなら、就職に有利とかあるが、人気俳優が友達で何の得があるの? なのに、多くの人は「あいつは有名人と友達。あいつは凄い奴だ!」という評価になるようだ。

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その解釈はおかしい! 例えるとこういうことだろうか? 友人は有名なデザイナー***さんと友達=>***さんは世界的に有名な人=>その人と付き合えるのは、友人もそれなりの人間だということ=>だから凄い。

そんなふうに多くのは人は「有名人」が友達だと、「その人も同じくらに凄い人だと解釈」するのだろう。ただ、あとになり嘘だと分かり友人は顰蹙を買い、尊敬されるどころか、さらに馬鹿にされるようになるのだが...。

最近、その友人を思い出すことが多い。以前にも書いたが、有名俳優と仕事をしたことで、多くの人が「凄い」と言ってくれる。凄いのは俳優の方であり、僕ではない。僕は単なる監督。でも、多くの人が「あんな有名な俳優が出てくれるんだから、凄い監督だ」といってくれる。ありがたいことだが、本来は「素晴らしい映画を撮った監督」=>だから「凄い!」というのが正解。それより、有名俳優と仕事したから「凄い」になる。

逆に、批判の対象にもなる。「偉そうに有名俳優と仕事をしやがって!」という業界の先輩がいる。「有名俳優と仕事してから、態度がデカくなった!」と批判する一般の人もいる。が、その人たちの背景を考えれば理由が分かる。先の先輩は低予算映画しか監督できず、有名俳優は出演してくれない。嫉妬した。でも、「悔しい」とは言わずに「偉そうに」と表現。「お前ごときが有名俳優と仕事をするな。100年早い。まず、オレが先!」という上から目線の言葉なのだ。


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後者は以前、僕の撮影のお手伝いをしてくれた方。今回は来れなかった。つまり、有名俳優の撮影現場に参加してない。だから、特に連絡もしない。それを「以前は面倒を見てやったのに、今回は何の挨拶もない。有名人と仕事をして調子に乗っているんだ」と解釈した。だが、間違っている。今回、お手伝いしてくれた人は100人を超える。その1人1人にだって連絡はできない。まして参加していない100人を超える人に連絡する余裕はない。

その人は「今回の撮影を手伝いにいけば、有名俳優に会えたのになあ〜」という悔しさがあったのだろう。その気持ちをストレートに表現すると惨めなので「挨拶に来ない」「連絡がない」「以前は面倒みたのに」という理由をつけて「態度がでかくなった。有名人と仕事をして調子に乗っている」と歪んだ解釈をしたのだ。

この2つのタイプに言えるのも「有名人好き」ということ。自分も有名人と関わりたかった。会いたかった。話をしたかった。という強い思いがあることが背景だ。彼らは決して特別な人ではない。悪意もなく、善良の人たち。でも、有名人が絡むと嫉妬し、悔しさを批判に変えて批判する。それほど有名人というのは、魅力的な存在なのだろう。だから、学生時代の友人は有名人と交流があると嘘をついて関心を集めたのだ。

僕はちょっと欠落したところがあり、昔から有名人に特別強い興味がなかった。それゆえ、有名人自慢する友達の気持ちが分からなかったのだが、最近はそれを痛感している。

この業界で仕事をするようになり、有名な俳優、巨匠、アーティストと何度も仕事させてもらった。有名な人たちは確かに凄い。魅力的だし、学ぶことが多い。だからこそ、有名になったのだが、多くは「あの人の実力は凄い」という評価でなく、「あの人は有名」=>だから凄い!になっているような気がする。有名とは何か? なぜ、人は有名人に惹かれるのか? あれこれ考えることが多い。



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【詰まらぬ批判に心を痛める必要はない。声なき声があなたを応援している】 [my opinion]

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Facebookやブログをやっていると、いろんな人からコメントやメッセージが来る。前も書いたが、Facebookの場合。友達が2000人を超えたあたりから、おかしなコメントや意味不明の攻撃が出て来た。これは2000人いれば、何人かのおかしな人がいるということなのだろう。

 記事を読まずに、タイトルだけ見て、反論をしてくる人なんかもいる。以前「原発はすでに収束したというある女性」というタイトルで記事を書くと「男性だって、そう思っている人は大勢います。女性蔑視です!」というコメントが来た。

タイトルをよく読めば分かるが「ある女性」と書いてあるように、ある個人についての記事であり、女性の全体が、或いは多くの女性が「原発はすでに収束している」と思っている記事ではない。さらに記事を読めば、その女性についての詳しい記述もある。それを読まずに、タイトルの意味もしっかりと考えず、早とちり「男性でもそんな人は多い!」と批判してきたのだ。

記事を読んでも内容を把握せず、これまた勘違いして反論して来る人もいる。先日アップした記事「人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞いてみるとよく分かる?!」というタイトルで、映画の感想を聞けば、その人の洞察力や考え方が良く分かるという話を書いた。それによって、その人が問題を起こす人か? ものごとをちゃんと見てる人か?を判断できる。「突っ込みどころかが多い」とか「リアリティがない」というような映画評をする人は問題があるという内容だ。なのに、こんなコメントが来た。

「客が上から物言うは道理。観せてやってる訳ではない限り…興行は辛抱が要る生業…プロでも無い奴は論ずるな!は老婆心ながら尊大な印象」「自分は監督だ。文句をいうなという奢りを感じました。自重された方がいいですよ。それでは人を感動させる映画など作れませんよ!」

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はあ? 何でそうなるの? コメントをくれた人たち。あきらかに勘違いしている。記事で指摘したのは一般の映画に対する批評から、その人の洞察力を探るというものであり。映画を批判はいけないというものではない。まして、「文句をいうな」てな記述はしていないし、思ってもいない。僕が書いたことが全く伝わっていない。つまり、コメントをくれた人は「この監督は自分がプロであるので、一般の人が映画を批評することに否定的。客が上からものを言うのは当然のこと。それを批判するあなたは尊大であり、傲慢ですよ」と僕に注意を促しているのだ。

この記事です=>http://aozoraeiga.blog.so-net.ne.jp/2015-11-18-11
(試しに読んでみてほしい。「プロでない者は論じなる」というのが趣旨ではないこと。すぐに分かる)

んーー全く、書いてもいない、思ってもいないことを「あなたのために、注意しておきます」てなニアンスでコメントしてきた訳だ。そもそも、僕は批評は自由だと思っている。誰が何をいおうと構わない。ただ、その映画の本当に意味やテーマを見抜けず、上っ面だけで判断している人が多い。さらには、深い部分を理解できていないのに、本質を分からないことに気づかず。当て外れな批判をして悦に浸る映画ファンというのも多い。結局、その種の人は洞察力や物事を把握する力が低いのだ。

なので、映画の感想を聞けば、その種の能力が分かるという記事。「批判するな」とか「プロでないものは論じるな」とは書いても、思ってもいない。いってもいないことをコメント主は「尊大だ。傲慢だ」と批判する。つまり、そのコメントをくれた人もまた、見た映画を勘違いな批判する洞察力のない人たちと同じで、文章を正確に把握できず、勘違いな批判コメントをしてきた訳である。

何とも分かりづらく面倒くさい説明をしたが、そんなふうに書いてもいないことを「親切心」を持って注意してくる方もいる。コメントを読むと決して悪意はない。とても真面目に僕のことを心配して「映画監督をやってる人なのに、これではいけない。注意して上げないと!」というニアンスを感じる。以前、その種の人に誤解があることを返信したことがあるのだが、いずれからも返事はなく。或いはさらなる誤解を呼び、より強い勘違いな批判が返って来た。

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それ以降は無視している。Facebookで繰り返し批判コメントしてくるようなら「友達」から削除する。が、この種の人たちは一体、どんな生活をし、どんな思考をしているのか?興味がある。あるとき、調べてみたのだが、決して頭のおかしい人たちではなく、通常の生活をしていた。決まった仕事を持ち、まじめに働いている。性格も温厚。

ただ、熱いところがあり、思い込んだらまっしぐら!な性格。言い出したら聞かない。「この監督は分かってない。俺が注意して上げないと!」とコメントをしてきたようだ。つまり、「自分は正しい」と信じ込んでいる。憎めないが厄介。関わると、時間も労力もかなり取られる。

僕が現在、勉強中の「ボーダーライン」とは違うし、病気ではない。そして、近い部分を持った人は多い。Facebook上でも人が書いた文章を読むと「何、偉そうに!」とか「そうとは限らないだろう?』と思う人も多いはずだ。が、その多くはわざわざ批判のコメントを書かない。それを書くという「労力」はいったいどこから来るのか? 正義感とかまじめさ。或いは「俺がいって上げないと!」という義務感や「思いやり」(?)だろう。

そんな人たちから頻繁にコメントやダイレクトメッセージが来るので、ときどきネットはもう止めようか?と思うこともある。当て外れの文句を言われるために記事を書くことに意味があるのか?と思う。が、実は、僕の記事を読み、感動したり、納得してくれたりする人も多いこと。あるとき知った。記事を楽しみにしてくれている人も数多くいるのだ。

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ただ、その人たちは賛同のコメントはくれない。「この意見は凄くよく分かる。賛同したい」「んーなるほどなー気付かなかった!」と思い「次回も楽しみだ!」と完結する。だから、コメントはしない。それに対して先のようなタイプの人は「一言いってやろう」「この人分かってないわ」と時間を費やし、労力をかけてコメントしてくる。

なので、僕の方は批判や中傷コメントばかりが目につく。けど、実はそうではない。サイレント・マジョリティがいて、多くの支持者がいること。以前に気づいたのだが、その話を最後にする。「もう、Facebookは止め!」と思ったとき、一通のコメントをもらった。

「いつも記事を楽しみにしています。監督の文章には気づかなかった指摘や情報があり。毎回、なるほどと思います。でも、今までコメントしたことはありません。が、Facebookをやめるかも?との記事を読み残念です。いろいろご事情もあり、心ない批判も多いことも聞いております。続けてくださいとは言えませんが、またFacebookを再開されること楽しみに、お待ちしています」

もう、何年か前になるが、そんなコメントをもらい、あーそういう人もいるのだと思った。人は見えるものに囚われ、悩んだり、傷ついたり、絶望したりするけど、実は多くの声なき声が応援、支持してくれていて、批判否定してくるのは極々一部の人たちでしかないこと。気づいた。それから「友達」はさらに1000人増えて3000人近くなる。これは僕だけの話ではないだろう。きっとあなたも同じ。多くの人があなたを見つめている。声は出さないがあなたを応援している。だから、詰まらぬ批判や中傷は受け流そう。そんなふうに思えている。


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「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性? [my opinion]

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【「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性?】
 
寄付や投資を募り。その街を全国に発信する地域映画を作った後輩監督がいる。僕も地域密着型の映画を作っているので、何度も相談に乗った。製作費は決して高くないが、街や市の協力を得て素敵な映画が完成。地元の映画館で公開された。その後、彼が訪ねて来て不満を爆発させる。

「ほんと許せないんですよ!」

聞くと映画に参加した一部の地元スタッフ以外は映画館に来ず。連日、観客は一桁。なんと1週間で打ち切りとなったというのだ。地元ではかなり盛り上がっていると聞いていたし、作品もそこそこいいというので、地元では大ヒット間違いなしと思っていたのに、何があったのか?

「客が来なかったのは誰も宣伝をしないからでした。配給会社も付いたんですけど、地元はすでに映画の存在は知っている。関係者も多いし、地元の人が宣伝すれば放っておいてもヒットするよと、言っていたんです。僕もそう思っていたら、地元は地元で、宣伝会社の人がバンバン宣伝してくれるから大丈夫と、皆、撮影が終わると観客になってしまい。宣伝も何もせずに、公開を待っていたんです」

なるほど、僕も経験がある。地元の人たち。撮影中はどんなに応援してくれても、撮影が終わると、不思議なくらいに、観客になってしまうことが多い。自分が参加した、或いは出演もしている映画なのに「公開が楽しみだなー」というばかりで、次のステップに進まない。そう、宣伝という発想がまるでなく。日常に戻って活動をしなくなるのだ。

彼らに問うと「え? 映画はできたんだから、あとは観るだけだろ?」という。大きな間違い。「いつ、どこで、何時から上映するか?」と伝えないと観客は来ないのだ。その告知や宣伝をしないと駄目。なのに、街の人のほとんどがその発想がない。突き詰めて訊くと、

「誰かが宣伝してくれるんじゃない?」

と他人事のようにいう。じゃあ、誰が宣伝してくれるの? 「分かんないけど、映画って公開前にテレビや新聞で宣伝するだろ? テレビや新聞が告知してくれるんじゃない?」ーーーーばかーーーー。あれは制作側が宣伝費を払ってテレビや新聞で広告を出してもらっているんだよーー。と言いたくなる。

そんな信じられないことをいう人が多い。或いは「宣伝会社がやってくれるんじゃないの?」もちろん、宣伝会社は頼んでいる。しかし、市民の寄付で作った映画。十分な製作費はない中、がんばって作った。当然、宣伝費も十分にない。宣伝会社も僅かな費用は東京や大阪で使いたい。すでに知名度があり、映画の存在が知られている地元で、わざわざテレビCMを流し、莫大な費用を使う必要はない。

でも、地元の人はそうは考えない。宣伝費が十分にないことを知りながら、「誰かがやってくれるんじゃない?」と安易に考え、それを突き詰めて考える人はほとんどいない。その結果、映画館で公開されても、ほとんどの人が知らない。僅かな関係者のみが劇場に来る。客の少なさに驚く! 「何で?!」と不思議がるが客が来ないのは当然。

こうして、市民が総力を上げて製作した映画は一部の人しか観ることなく、上映を終えたのだという。ここに日本人の習性が見える。「誰かがやってくれるだろう」「会社がやってくれるはずだ」「市がやるだろう」みんな、そうやって他力本願になり、「誰が宣伝するんだろう?」「予算はあるのかな?」「本当に宣伝しているのかな?」「このままじゃヤバいな」とは、ほとんどの人が考えない。

これは地域映画だけではない。

「国がやってくるだろう」「自治体がやるべきだ」「誰かがやってほしい」全て他力本願。そうやって、「私たちがやらねばならない」とは考えず、大きなチャンスを失い。何もできず、苦しい状態を持続するばかり。そんな習性が日本人にはあるように思える。

そんなときに「多額の交付金を出しますよ! いかがですか?」と甘い誘惑を受ければ、諸手を上げて賛成。原発を押し付けられたりしてきたのだ。街の存亡。過疎化。いろんな問題がある。でも、そうなった理由のひとつは「誰かが何かしてくれるはず」「国に何とかしてもらおう」と他力本願でいたからではないか?

地方映画製作ひとつ観ても同じ。自分たちの街の映画なのだから、自分たちで宣伝し、全国の人に観てもらおう!とは考えず。お客になり、上映を待つだけ。映画を活用して、街のアピールに使おうとしない。全て他力本願。それが日本人のある側面をよく現していると思える。



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時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [my opinion]

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【時代は変わり、環境が変化する中。
 ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、
 どこへ行くべきなのか?】


最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。

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ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?

或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。

家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。

これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。

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確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。

その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。

自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。

Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。

そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。

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先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。

そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。

何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。

Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。

そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。


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映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる [my opinion]

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【映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる】

映画撮影では地元の方にとてもお世話になる。僕の場合は地元支援で映画製作を何本もしている。だから余計に応援を頂く。同じように、地元の支援で映画を作った後輩がいる。ある街で映画を作ろうとしたとき。Bさんという人が応援してくれた。

「この街も不況で大変だ。映画で街をPRして観光客に来てもらう! そのためには映画はとても有効なPRになる。応援するよ!」

地元の人を何人も紹介してくれたり、飯を食わせてくれた。こうもいってくれる。

「オレが経営するレストランがあるんけど、撮影で使うなら、タダでいいよ!」

ありがたい存在だったが、後輩監督が街の事情を知るに連れ、Bさんの事情も分かって来た。彼は地元でレストランを経営していた。不況で客が来ない。近所には全国チーェーンの大手ファミレスがある。多くの客を奪われている。だから、映画撮影をすることで宣伝。店をアピールしたい!という思惑があったのだ。確かに映画でロケ地になれば注目されるし、映画ファンはロケ地巡りと称して店に来てくれるだろう。雑誌や新聞等で紹介されることもある。

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ただ、後輩は映画にとても厳しい。プロデュサーが女優のAさんを使えといっても、レコード会社が売り出し中の歌手C子の曲を使えば、協賛金を出すと提案してもOKしない。その作品のプラスになるのなら受けるが、そうでなければ、どんなに高額の支援をしてくれても断る奴だ。

それが映画を駄目にする一番よくあるパターンだからだ。低予算の映画でも、映画というと、いろんなメリットが生まれるので、あちこちから、その手のアプローチが来る。が、そのことで映画の中身が歪られたり、クオリティが落ちるのであれば絶対に受けてはならない。

なのにプロデュサーに嫌われたくなくて、物語に相応しくない俳優をキャスティングしたり、映画のイメージに合わない主題歌を流したりする監督もいる。いろんな圧力がかかり、仕方なしに受け入れる監督も多い。

「なんで、あんな歌が最後に流れんの? 感動が台無し!」「あの女優は違うだろ? 何で出したの?」
と思う映画は、そんな事情が背景にあることが多い。ロケ地も同じだ。自治体から「**公園を売り出し中なので撮ってほしい」とか、地元の団体から「商店街でロケしてほしい」とか、リクエストが来る。

が、それで映画がよくなるならいいが、物語に合わない場所を無理に受け入れても、その店や公園も映えない。映画も駄目になる。だから、断るのだが、そのことで、その人たちとの関係が崩れたり、トラブルになることもある。後輩はまさに、そんな立場に陥ったのである。

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Bさんも次第に主張が変わって来た。最初は「うちの店で撮影してもいいぞ」だったのが「うちの店で撮影するだろ?」になり、他では「うちの店で撮影することになったんだ!」というようになる。どうも既成事実を作り、撮影しない訳にはいかないように仕向けているようだ。

友人を紹介したり、飯を食わせたりしたのも恩を売って断れないようにしていたことも分かって来た。しかし、彼のレストランはあまりにも平凡で、その映画には合わない。さらにBさんの友人から「あのレストランで撮った方がいいよ」「彼とは揉めない方がいいよ。あとあと大変だから」と言われる。

後輩は悩んだ。製作が正式に決まり、いろいろと考えて断った。理由はやはり映画に合わないから。そう伝えると、Bさんは態度を180度変えた。あちこちでこう言い触れ回った。

「あの監督は薄情だ。いろいろ応援してやったのに、映画製作が決まっても挨拶なしだよ。何だったんだよなあ〜。オレの友人もいろいろと応援したのによーほんとバカ見たぜ」

Bさんはロケ地として選ばれなかったことは言わず、そう言って回った。だが、彼がしたのは地元の人を数人紹介したこと。誰も映画製作に寄与していない。あとは一度、ランチをごちそうしたことのみ。多くの人が彼以上にいろんな形で映画を応援してくれている。見返りを求めず、様々な形で支援してくれた。そんな中で、あることないことBさんはいい触れ回った...。

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映画は無事に完成。地元では大ヒットとなり、多くの人が喜んでくれた。ただ、事情を知らない地元応援団がBさんの店にポスターを貼ってほしいと頼んでも、彼は頑に拒否。「あの監督だけは許せない、恩知らず!」と言い続けている。後輩はいう。

「Bさんも悪い人ではない。レストランをアピールしたいのも分かる。店の前まで行けば、通りを歩く人は皆、近所の大手チェーンのファミレスに入っていく。何とかしたい!という気持ちは理解する。でも、今回の映画はレストランが重要な舞台。Bさんの店では成り立たない。なぜ、個人ではなく街のための映画だと分かってくれないのだろう…」

僕も同じタイプの人たちと何度も会った。さして応援してない人ほど、あとになって「オレが面倒見てやったんだ」といい、あれこれ見返りを求めてくる。「応援してやったんだから、今度はオレのいうことを聞け」とか言ってくる。

が、それもおかしい。映画を作ったのは街のためであり、僕自身は毎回、借金が残るだけ。なのに個人に見返りを求めてくる。でも、そんな要求をされる。後輩にもBさんだけでなく似たようなこと言う人。批判する人がいるという。だから、こう話した。

「映画を作るには、多くの人の応援が必要。でも、メリットのなかった人は批判しがち。そして応援してくれても、あとになって批判する人もいる。けど、憎んではいけない。映画の世界は分かりづらく、誤解もされやすい。説明してもわかってもらえない部分もある。その町のためにがんばっても、理解されないことが多い。

でも、いつか分かってくれると信じて、その街で映画が撮れたことを感謝すること。僕らの仕事で全ての人に喜んでもらことはできない。できるのは、いい映画を作り、応援してくれた人たちに感動してもらうこと。町の魅力を再発見してもらうこと...映画屋にできるのは、そんなことぐらいなんだ...」



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これからの時代を生きるために必要なことって何だろう? [my opinion]

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自分の人生のことってなかなか分からない。

客観的に見つめることはむずかしい。先日、ある業界の先輩と話したとき。面白いことを言われた。

「最近の太田を見ていて思うんだけど....お前は学生時代、教育に疑問を感じて勉強しなくなった。日本で大学に行くのも拒否して、映画監督を目指した。でも、それは当時として単なる落ち零れ。映画界を目指したのは敗者復活戦のようなものだ。ま、だいたい、勉強できない奴が小説家や漫画家。ミュージシャンを目指すものなんだけどね。

でも、多くの場合。夢破れて就職したり、家業を継いだりする。なのにお前は本当に映画監督になった。どーにか、その世界で生きている。サクセスストーリーと羨む奴もいるかもしれないが、不安定な世界だ。来年はどうなるか?分からない。けど、興味深い部分がある。

一昔前は映画や音楽の仕事は浮き沈みがあって不安定。

だから、皆、固い会社に就職して安定を計った。なのに今は会社員でも来年どうなるか?分からない。倒産したり、窓際に飛ばされたり、リストラされたり。昔のように、おとなしくしていたら路頭に迷うことになる。

つまり、今の時代。映画やるのも会社員やるのも大差ない。ただ、違うのは映画や音楽をやってる奴らは考える。道なき道を探して、そこまで来ている。与えられたことをやるだけでなく、どうすれば道が開けるか? 前へ進むか?を思案して、ここまで来ている。でも、会社員やってる奴らは太田がよく言うように、与えられることをやるだけの暗記中心の教育で育ってきた。だから、自分で考えることが苦手。

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その意味で、当時は落ち零れと言われたお前らの方が、

これからの時代を生きて行く力があるだろう。学生時代にまじめに勉強し、いい成績を取ろうと努力して来た連中は、その力がない。与えられた道を走るしかできない。ま、自分に考える力がないことに気づいていない奴も多いんだけどね。成績優秀=頭がいい、と思いがちだけど、それは違って成績優秀=与えられたことを確実にできる、にしか過ぎない。与えられないことはできないだよ。

何だか皮肉だよな。本来は親や先生、その背後にある教育システムや政府が設定した、優秀なサラリーマン育成システムの乗ることで、安定した生活が送れるはずだったのに、時代が変わり、それは崩壊、与えられたことをしているだけでは生きのびることはできない。不安定な時代を生き抜く知恵があるのは、その教育システムから落ちこぼれた連中。拒否した奴らという現実。ドラマティックだよな?」

なるほど、そういう面はあるだろう。

カタギの友人たちを見ていると本当に苦闘している。が、映画の世界で生きて行くことも簡単ではない。映画や音楽で身を立てようとして消えて行った友人も多いので、その世界を目指すことがベターな生き方とも思わない。

しかし、先輩の言う通り、これからの時代は大人たちのいうように真面目に学校で勉強しているだけでは生き延びて行けないことは確かだ。自分で風を感じ、波の大きさを見極める力がないと、混濁の時代を超えて行けないと思える。そんな時代に子供たちに何を伝えればいいのか? 考えている。それが僕の映画のテーマでもあるのだから。


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知ってもらうことの大変さ? 新商品発売と同じ!企業なら数億円をかける。 [my opinion]

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「知ってもらう」というのは本当に大変なことだ。例えば菓子メーカーが新製品を出すとき、その製品名を消費者に覚えてもらうためには何十億円という宣伝費をかける。テレビでコーシャル。人気タレントを使い、ゴールデンタイムに流す。新聞広告。雑誌広告。ネットで広告。イベントをする。看板を出す。駅のホームにポスターを貼る。そんなことを何カ月も続けて、製品名を覚えてもらう。そこで初めて製品が売れる。ものを売る以前にせねばならないことだ。

タレントも同じ。80年代に少女隊というグループがあったが、売り出し費用が10億円ということで話題になったとのを思い出す。「アイドルを売り出すために、そんなにかかるの?」と思うかもしれない。考えてみよう。

まず、レコーディング。海外で録音。同時にジャケット撮影。これも海外。写真集発売。作詞作曲を依頼。ミュージシャンに演奏してもらう。つまりアルバムを1枚出すだけで、それだけの人件費、交通費、宿泊費がかかる。

その上で、コンサート。テレビ出演の交渉。CMのタイアップ。主演映画。映画にも所属事務所は出資しているはず。コンサートのポスター、パンフレット。宣伝費。テレビスポット。テレビ局まわり、ラジオ局まわり。そんなことを全て合わせると10億円くらいすぐにかかってしまうだろう。アイドルグループを売り出すだけで、それだけのことをせねばならない。それで売れるとは限らない。失敗すれば何億円もの宣伝費はパー。アイドルでも、新製品でも同じ。

これらは町の観光アピールにも言える。個人商店でも、また、自由業の人間にとっても同じだ。知ってもらってこそ、依頼があり、仕事が来る。個人経営のレストランだって、どこにあって、どんな料理を出すか?が伝わらないと客は来てくれない。だが、個人で何億もかけた宣伝なんてできない。せいぜいチラシを撒くくらい。でも、知ってもらわないと客は来ない。

映画監督業も同じ。俳優でも、歌手でも、漫画家でも、無名の人はそういう苦労が絶えない。名前が知られてこそ、いろんなオファーが来る。町の知名度を上げるのも同じだ。東京で物産展をするのか? 町でイベントや祭りをやるのか?いろんな方法があるけれど、そんな機会を通じて、多くの人に町の名前を知ってもらう、名産品を覚えてもらう。そこで初めて、人びとは町に興味を持ち、訪れてくれる。

全ては「知ってもらう」からスタート。それは菓子でも、電化製品でも、タレントでも、映画監督でも、町でも同じなのだ。どうすれば知ってもらえるのか? そこからが全てのビジネスのスタートなのである。


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知名度ってとても大切ってこと。考えてみたい。 [my opinion]

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「知られている」ということ。重要だと考えたことあるだろうか? 例えば旅行で泊まるとき、よく知るビジネスホテルと聞いたこともないチェーンのホテル。どちらを選ぶだろうか? どこかでささっと飯を食おうというとき、個人経営の入ったことのない食堂に入るか? よく使う名の知れたファミレスに入るか? つまり知っているということは安心に繋がる。嫌な思いをしないということだ。

そんな知名度がある店やホテルが信頼を上げて行くと、それはブランドになり、宣伝しなくても客に安心感と信頼を持ってもらえる。これは商品も同じ。電化製品でもSONYだから大丈夫だろう。Panasonicだから安心だ。と買う。これが聞いたことのないメーカーだと「すぐに壊れるかも?』と不安になる。電化製品だけでなく、食料品や車。自転車だって同じ。知られているということは大事なのだ。

それでいうと町も同じ。東京、大阪、名古屋、福岡、札幌というと誰もが知る町。当然、観光客もたくさん来る。横浜、奈良、京都、神戸というと先の都市ほどの規模ではないが観光地として有名なので、多くの人が訪れる。だが、日本には聞いたことのない町がたくさんある。多くの日本人が一生その名前を聞くことのない地名もある。

「生まれはどちらですか?」と言われて「**市です」と答えても、会話が続かない。誰も知らない町だからだ。それはビジネスでも同じ。東京で営業して「どちらの会社ですか?」と聞かれ「***市です」でも、相手は知らない。微妙な間ができてしまう。これが例えば京都なら違う。「ご出身は?」「京都です」「あーいいところですね? 京都のどちらですか?」と話が弾む。

ビジネスでも同じ。会社がどこの町にあるか?分かれば印象が違う。そして覚えてもらえる。「大阪にある***社ね」「名古屋が本店の**建設ね」と。映画のオーディションだって同じ。最後の1人をどうしようか?というとき、同じレベルなら印象が強い人を選ぶことがある。「じゃあ、沖縄出身の彼にしようか?」とか「いかにも関西人の大阪の彼女がいいかも?」ということがある。

いろんな機会において知名度というのは、とても大事なものなのだ。俳優の話を続ければ、確実に知名度がある方が選ばれる。無名俳優と有名俳優。実力が同じなら知名度が高い方を選ぶ。映画館で映画を選ぶとき、聞いたこともないタイトルの映画を見ない。「これ、テレビでやってた奴の映画版!」と、そんな作品でも選ばれる。

テレビ番組でバラエティを見ていても、知らないタレントばかりだとチャンネルを変える。が、よく知るタレントが出てると、何となく見てしまう。だから、局は人気者を出したがる。映画界はまさにそれ。人気者、有名俳優が出ている映画は興味を持たれる。全員が無名だと映画自体がマイナーで、レベルの低いものだと思われがち。こんなふうに知名度というのは、とても重要なことなのだ。

では、どうすれば知名度を上げることができるのか? 特に町の名前を多くの人に覚えてもらうには何が必要か? よく、「観光客に我が町に来てほしい」という人たちがいるが、その前に考えねばならないのは、自分たちの町の「存在」を「名前」を日本各地の人に知ってもらうこと。

町の生き残りも芸能界と同じ。知名度があると、いろんな展開ができる。ゆるキャラはそんな現れのひとつ。クマモンが人気になれば熊本がアピールされる。そのまんま東は自らが広告塔になり宮崎をアピールした。知名度を上げることの大切さを実感する。




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3年前の今日。書いた記事ー映画は「悲しみ」を「希望」に変える仕事。  [my opinion]


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映画は「悲しみ」を「希望」に変える仕事。 

今回の映画。舞台は1983年。同じ年に、あの尾崎豊がデビューしている。ときどき思い出す彼の歌がある。「17歳の地図」のような大ヒット作ではないが、アルバム「Birth」の中に「エターナル・ハート」というあまり有名ではないが素敵なナンバーがある。僕が大きな問題で行き詰まったとき、悲しみにぶつかったときに、何度も聴いた歌だ。

「人はただ悲しみの意味を探す出すために、生まれてきたというのか?」

という一節がある。歌を聴きながら、いつも、その部分に来ると胸を突き刺される。「悲しみの意味を探す出すため」そう。生きていると、うれしいことより、悲しいことの方が多い。感動することより、傷つくことが多いのではないか?

僕の高校時代は絶望の連続だった。

ただ知識を詰め込むだけの情熱のない教師たち。成績でしか友達を判断しない冷めた生徒たち。管理しやさを追求するだけの校則。のちに尾崎豊が歌詞にしたような世界。「心を捨てろ捨てろ」という場所だった。僕は学校の授業よりも、映画とレコードから多くを学んだ。でも、人生の多くの疑問を解決できぬまま、卒業した。

その後、映画監督を目指して横浜で暮らし始める。

そこで同じ夢を追う仲間たちと出会った。思いを分かり合える存在と出会った。8ミリ映画を撮り、監督デビューを競った。しかし、仲間たちは次々に、現実の壁に阻まれ、傷つき、羽根折れて、消えて行った。小さなトラブルに、些細なすれ違いに、親たちの無理解に、ほんのわずかな偶然に心破れ、落ち込み、去って行った。

どんなに励ましても、どんなに説得しても、

仲間たちは心を閉じたまま。夢を諦め姿を消して行った。大人たちが嘲笑する。「世の中、甘くないからね!」と。でも、そんな大人たちは決して夢見ることもなく、ただ、現実を受け入れているだけ、努力もせず、怠惰に生きるだけの人たち。違うだろ? あなたたち大人に、彼ら彼女らを笑う資格はない! でも、そんな彼らに突きつける言葉を当時の僕は持っていない。強い無力感に苛まれた。

僕は6年の留学生活を経て帰国。

アルバイトをしながら、5年かかってシナリオライターになった。作品のテーマはいつも「子供たちに伝える大切なこと」だ。「どうすれば子供たちは幸せになれるのか?」「どうすれば、夢を実現できるのか? どうすればハッピーになれるのか?」だ。そんな僕の元にいつしか若い俳優たちが集まって来た。あの頃の友人たちを思い出す。同じように、夢を追い、自分の可能性を探していた。そんな彼ら彼女らを応援した。だが、やがて、昔の仲間と同じように、大きなの壁にぶつかり、怠惰な社会に蝕まれ、親たちの理解もなく、夢破れて、現実の海に沈んで行った。そのたびにあの歌を聴いた。

「人はただ、悲しみの意味を探し出すために生れてきたというのか?」

無力感に苛まれた。現実の壁に潰されるのならまだ分かる。大いなる可能性を持ちながら、消えて行った子がいる。詰まらぬことに囚われて、自分で自分の首を締め、夢を壊してしまった22歳の女の子もいる。どんなに応援しても、手を差し伸ばしても、彼女は無言で、声を上げずに深い現実の海に沈んで行った。なのに、このときも、僕は、何もできなかった....。何ヶ月も、心から血が止めどなく流れた.......。

夢を追いかけた多くの仲間たち、

俳優を夢見た若い友人たちも、もういない。僕だけが生き残り、映画監督となり、作品を作り続けている。今回の映画「向日葵の丘ー1983年夏」その頃の友人の思い出を重ねたエピソードがある。現実の中では悲しみでしかない事実も、映画にすることで、物語となり、今、現在、夢観る子供たちの支えになるはずだ。「悲しみ」を「希望」に繋げることができる。それが生き残った僕の使命のはず。そして誰にでも、それぞれに出来ることはある。諦めてはいけない。


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