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自分が「できること」を見つけられない日本の教育システム? [my opinion]

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自分が「できること」を見つけられない日本の教育システム?

高校卒業後、社会に出て感じたこと。学校の授業で教わったことは全く役に立たなかった。国語、数学、化学、歴史。役に立ったのは勉強せずに見に行った映画であり、隠れて聞いたレコード、好きで読んだ本。授業中に読んだ映画雑誌、受験勉強をせずに書いたイラスト。

英語はアメリカの大学で学んだ。

それは役に立っている。外国人と会話ができる。ハりウッド映画を字幕なしで観れる。なぜ、そんな英語教育を日本はしないのか? 

同級生は大学に行き、反動で遊んで回っていた。バイトとコンパ。旅行。そして就職。そこから仕事を覚え始める。要は高校時代に「与えられることを確実にできる能力」を鍛えられ、大学受験で測られ、その後4年間の猶予があり、優秀なサラリーマンとなる優秀な者を大手企業や国家公務員1種がまず採用していく。そのための教育制度なのだ。

でも、勉強が好きでもない生徒も、その方針に従い、それなりの高校に行き、それなりの大学に行く。「大学くらい出てないと恥ずかしい」というだけの理由。そして、それなりの会社に入る。
それを本人が望むならいいが、決して「与えられたことを確実にする能力」が優れていない人たち。要は優秀でないサラリーマンなのだ。

上司に叱られ、成績を上げられず、

給料も安く。誰でもできる仕事を延々とやる。終われば居酒屋で羽目を外し上司の悪口。それが日本の日常となったのだろう。しかし、もっと別の可能性があったのではないか? 

役に立たない授業を受けている年月に、別の意味あることを学べば? 技術を習得すれば違う未来が開けたのではないか? 昔ながらの形なら見習いで板前になるとか、技術者の助手をするとか? 大量の本を読む。絵を描く。踊りを習う。スポーツをする。それを極める仕事だって存在する。

なぜ、誰もが「能力を測る」ためだけの勉強をせねばならないのか? まるで野球選手養成教育。野球以外はダメ!というのと同じ。サッカーをすれば、バレーボールなら、マラソンなら、力があるという存在もいるはず。同じように、いろんな選択肢があり、いろんな学科があって、自分に向いたものを探せる教育はできないのか? 中学時代の友人はいう。

「太田は高校時代にやりたいことを見つけた。映画を作りたいと思った。羨ましかった。でも、俺は見つからなかった。何かそんなものが見つかれば大学に行かずに、夢中でやったかもしれない。でも、見つからなかった...」

その友人は京大に合格した。まわりは「凄い」と言ったが、本人はそれほどでもなかったようだ。経済大国になるための国策。全ての国民を決めた尺度で測り、優秀な者を選別。総サラリーマン化を推進。戦争時は「男は皆、兵士になる!」と思い込ませた教育と同じ。国の都合で若者が振り回される。

人の幸せとは何か? 

自分が持つ能力を見つけ出し、それを発揮し、誰かの役に立つことでないか? 自分しか出来ない何かを見つけ、真剣になることではないか? それができる環境が日本には備わっていない。戦前も、戦後も、同じなのだ。


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