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久々に新作ロビーカードを紹介! 鈴木杏さん、板尾創路さん。草刈麻有さん。 [ロビーカード紹介]

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「明日にかける橋」絶賛上映中!この秋もいちばん泣ける映画。
名古屋 伏見ミリオン座 
静岡  ららぽーと磐田 
土浦セントラルシネマ 上映中!
岡山、福岡、京都、群馬は近日上映予定。
http://asunikakeruhashi.com

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俳優業に必要な「感受性」とは何か? 才能ではなく感受性が大事。しかし… [映画業界物語]

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俳優業に必要な「感受性」とは何か? 才能ではなく感受性が大事。しかし…

俳優だけではないが、クリエーター、表現者、アーティストは「才能」ではなく、まず「鋭い感受性」が必要だ。何度も何度も書いたが「才能」なんてものは存在しない。前回も詳しく書いたので次に行く。では、「感受性」とは何か? 美しいものを美しいと感じること。悲しいことを悲しいと感じることだ。

自分の悲しみを悲しいと感じることは簡単だが、他人の悲しみを自分のことのように悲しむ人がいる。話を聞いただけで涙してしまう。或は映画を観て号泣してしまう。世間ではそんな人を「涙もろい」というが、鋭い感受性を持つ人なのだ。そんな人が表現の仕事。アーティストに向いている。

ただ、感受性が鋭いと大変だ。小さなことで悲しんでしまう。多くの人が「へーーそうなの?」で終わることでも、泣いたり、落ち込んだりしてしまう。逆に小さなことでも大喜びしたり..。これも世間では「ひ弱」とか「子供っぽい」とか言われがち。

つまり、子供の頃は純粋で感受性が豊か。子供はすぐに泣いたり笑ったりする。それが成長過程で、特に日本では感情を押さえることが大人なのだという習慣がある。また、教育はあれこれ想像せずに、与えれたことを確実に再現するだけの勉強が多い。文学を読み、作品を堪能するとか、絵画を観て感動する。それを語り合うという教育はほとんどない。そのため感受性が固まって行き、大人になると、多くが無感動、無関心になりがち。感動的な映画を観ても涙が出ず

「女、子供なら泣けるが大人の男性を泣かせるほどの作品ではない....」

そう偉そうに言う人がいるが、大人の男性こそが感受性が固まり、感じる力を失っていることに気付いていない。そう考えると、感受性が鋭いのは、子供、若い人。女性が多いことになる。

つまり、それらの人たちは表現、アーティストという仕事に向いているともいえる。実際、若手俳優で演技派の女優は数多くいるが(僕の映画にも何人も出演してもらっている)大人の俳優、若手の男性で感性豊かな人は多くはない。その背景にも感受性というものがある。

あと、芸能界で有名な人たち。シャイで恥ずかしがり屋の人が多いこと。よく言われる映画やテレビでは堂々としていても、インタビューをされると、言葉が出て来ない。相手の目を見て話せない。それも感受性が強い現れと考える。何百人もの観客のいる舞台で堂々と演じる俳優が、マスコミのインタビューにはうまく答えられなかったりする。

アメリカでもウッディ・アレン、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマンという名優たちはインタビュー嫌いで、気難しいと有名だ。彼らもシャイで恥ずかしがり屋というのは本当の理由だと思える。その証拠に皆、演技派の名優だ。

日本の名優のエピソードをひとつ。現在は「相棒」で大活躍中の水谷豊さんはその昔70年代後半に「カリフォルニアコネクション」という歌が大ヒットした。が、当時の人気番組「ザ・ベストテン」への出演を頑なに拒否した。「撮影中」というのが理由。

それでも局側が粘り一度だけ、ロケ現場から中継で出演したことがある。そのときの水谷さんは(当時は「熱中時代」で大ブレイク。そのときは「刑事篇」だった)番組で演じる陽気な2枚目半キャラとは全く違う、シャイで、恥ずかしがり屋。超ナイーブな青年。司会の久米宏さんの質問にもうまく答えられない。

「えーーーー素顔はこんな人かあ!」

と当時学生だった僕も驚いた。今にして思えば、もの凄い鋭い感受性を持つ人だったということだろう。だからこそ、その後も活躍。現在は「相棒」で10年以上に渡り、主役を演じている。もちろん、芸能人はそんなタイプばかりではないが、やはり名優と呼ばれる人、長く映画界で活躍する人の多くは感受性が鋭い人が多い。音楽界でも同じ。尾崎豊や小室哲哉のエピソードでも、それを感じるものがあるが、長くなるので次に行く。

つまり、鋭い感受性があるから、悲しみも、喜びも、怒りも人一倍強く感じる。だからこそ表現の仕事=演技ができる。他人の悲しみを自分のものとして感じるから、他人が演じられる。つまり、演技ができるのだ。前々回も書いたが、役者がある役を演じる。悲しみに打ちのめされ涙する。でも、観ていても全く悲しみが伝わらないことよくある。その役者は形だけ悲しい振りをしているだけだからだ。

同じような芝居でも、観ているだけで涙を誘う芝居がある。簡単に言えば演技がうまいということだが、本当の理由は、その俳優が本当に悲しんでいるからだ。感受性が強く、台本に書かれている役にしか過ぎないキャラクターの悲しいを自分のこととして悲しむことができる。だから、観客の心に届く。

例えば葬式で、家族を亡くした人が涙しているのを見ると、もらい泣きしてしまう。その人は演技がうまいのではない。本当に悲しいんでいるのだ。だから、まわりの人にも気持ちが伝わり、もらい泣きする。舞台でも、映画でも同じ。それは演技力というより、鋭い感受性が成せる業なのだ。

子供頃は多くが持っている鋭い感受性。大人になるにつれ失われる。だから、ワークショップに来てくれた若い人たち。プロの俳優を目指している人たち。努力している。でも、すでに感受性が固まってしまっていることが多い。それに気付かず、形や技術だけで演技をしようとする。日本の教育で考える力を育てず、与えられたことだけをして、10年前後の期間を過ごして来た結果である。その間に感受性が鈍くなり、固まってしまったのだ。

でも、一般社会を生きて行くにはその方がいい。小さなことで泣いたり、笑ったり、他人の不幸をいちいち悲しんでいたら社会人として生活が成り立たなくなる。上司に叱られたからと1日塞ぎ込む。同僚が左遷されたら涙に暮れる。仕事にならない。逆にいうと、社会生活を送るには他人の悲しみは人ごと。喜びも悲しみも強く感じない。ロボットのようなタイプが日本の社会には適しているのだ。

それでも人は完全にロボットに成りきれない。社会人も悲しみや苦しみを押さえ、隠して仕事する。だからこそ、仕事帰りに酒を飲み感情を発散する。そして映画や舞台を観る。主人公が泣き叫んだり、怒ったり、することに共感し、精神が解放される。だから感動する。カラオケで悲しい歌を歌ったり、喜びの歌を歌うのも同じ作用がある。

ただ、そちら側にいる人が映画や芸能に憧れて、プロを目指しても、すでに固まった感受性では勝負にならない。ただ、ワークショップに来た若い人たちを見ていて思うのは、喜びも悲しみも感じなくなりつつある自分に無意識に危うさを感じ。演技をすることで本当の自分を取り戻そうとしているのではないか?ということだ。

では、逆に感受性の鋭い人の人生はどんなだろう? 日本の教育でも社会生活でも感性が鈍くならない人はどうなのか?当然、社会生活は送りにくい。人一倍傷つく。落ち込む。塞ぎ込む。無神経になった方が今の時代は生きやすい。学校、会社、サークル、近所付き合い。感受性が鋭いと本当に人付き合いが大変。

特に感受性の鈍い人や無神経な人と接するのは、心がギタギタになる。そんな人たちにどう説明しても理解は得られない。やがて、心を閉ざし。引きこもるか? 孤独な生活を送るしかない。感受性の鋭さがそこそこなら、どうにか我慢して、週末にストレスを発散して社会生活を送るが、本当に鋭い人は人生地獄だ...。

ところが、そんな人でも、その「感受性」を生かせる世界がある。それが芸能界であり、映画や音楽の世界だ。その能力がなければ通用しない世界。そういう人たちが成功する世界なのだ。その鋭い感受性があるから素晴らしい演技ができる。感動させる歌が歌える。心に突き刺さる小説が書ける。だって、他人の悲しみを自分のことのように感じる力があるのだから、だから、多くの人が共感する素晴らしい詞が書ける。涙する曲が演奏できるのだ。

まだ、話は続くが、ここで気付いたと思う。俳優や歌手やミュージシャン。小説家という表現者たちは、努力してなるものではない。一般の社会では生き辛い、鋭い感受性を持った人たちが、なるもの。日常をまともに送れない。送り辛い人たちが演劇、音楽、小説、絵画、という武器を手にしたときに生まれるのが表現であり、芸術なのだ。映画「XーMEN」で描かれる超能力者というのは、実はアーティストのことではないか?と思える。ずば抜けた能力があるから生きにくい人たちの物語だ。

しかし、鋭い感受性を持っていれば、皆がアーティストになれる訳ではない。また、鋭過ぎる感受性を持っていたからこそ潰れる者も多い。逆に僅かな感受性しかないにも関わらず、成功する者もいる。そんな人たちを襲う社会生活以上のプレッシャーとストレス。あまりにも残酷な現実。その中で生き残るのは、ほんの一握り。

また、その世界では感受性以外の様々なものが必要とされる、感受性の欠片もない人々も君臨。力ある者を踏みつぶしたりしている。では、どのようにして鋭い感受性を持つ人たちが、それぞれの分野で戦い。アーティストとして大成するのだろうか? どんな努力が必要なのだろうか? それはまた別の機会に書きたい。



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「明日にかける橋」静岡公開ー舞台挨拶 鈴木杏X太田隆文監督(動画) [再掲載]



「明日にかける橋」静岡公開ー舞台挨拶 鈴木杏X太田隆文監督

2018年9月1日 ららぽーと磐田 TOHOシネマズ。「明日にかける橋 1989年の想い出」主演の鈴木杏さんと太田隆文監督の舞台挨拶。静岡県が舞台の感動物語。主人公がタイムスリップ。1989年に飛び、交通事故死した弟を助けるストーリー。


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ダウン再開! [9月ー2018]

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 ラスト舞台挨拶ツアーが終わり、帰京。

 直後はテンション高いので元気だが、数日で再び過労モード

 一昨年から7人分働いて、そのまま撮影に突入。

 終わったら編集。年末の完成披露試写会を挟んで

 再び編集。完成後はマスコミ試写会と宣伝

 そのまま東京公開。

 そこから宣伝活動。大阪公開。

 さらにロスアンゼルスの映画祭。静岡3館公開。

 予想以上の展開。7月からスタートするはずだった別の仕事がまるでできない。

 その上、恐怖のメイキング=編集。これで1ヶ月半が奪われた。

 小品を作るのに、もの凄い時間。

 おまけに精神的に大ダメージ。帰国後しばらく寝たきり

 でも、静岡公開ツアーで気力で立ち上がり

 帰京してまたダウン。そして、ラスト舞台挨拶ツアー

 帰京後またダウン。

 何度もダウンしているのではない。入院しているのに病院を抜け出して仕事に行くようなもの。

 過労は本当にやっかい。下手すると過労死に繋がる

 そして何もできない。

 人からすれば、さぼっているだけにしか見えない。

 しかし、Facebookを休止すると、いろんな人が心配する

 だから、何か記事を上げる、以前に書いたものをアップする。

 ここ数日、少し調子がいい。無理せずに療養して

 いよいよ、次のステージだ。また、倒れるまで作業せねばならない。

 

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「明日にかける橋」静岡ー舞台挨拶② キャストX太田隆文監督 [動画]



「明日にかける橋」静岡ー舞台挨拶② キャストX太田隆文監督

2018年9月 映画「明日にかける橋 1989年の想い出」@磐田 舞台挨拶パート2。登壇。長澤凛、岡村洋一、嵯峨崇司、太田隆文監督(「青い青い空」「朝日のあたる家」「向日葵の丘」)






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実践することの大切さ。俳優業も映画監督もー僕の経験から伝える [映画業界物語]

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実践することの大切さ。俳優業も映画監督もー僕の経験から伝える



毎回、偉そうに「映画監督に成る方法」とか「俳優になる方法」なんて書いているが、僕自身も記事の中に出て来る悪い例である「夢追う若者」と大差なかった。高校時代は日本映画大嫌いで「こんな映画何で作るんだ。俺が撮った方がよっぽどマシだよ」と思っていた。インプットばかりで、アウトプットしていない典型的な勘違い。今思うと、シャアに得意の台詞をぶつけられそうな高校生だった(シャアは「ガンダム」のキャラクター。あの有名な台詞です)

それが高校卒業後。横浜で映画学校に通っている18歳のとき。プロの映画撮影現場を見る機会があった。1週間ほど撮影隊に同行できた。このときに思い知る。映画1本作るのがどれだけ大変なことであるか? もちろん、高校時代から映画撮影というのは、ロケ地に行き、カメラを置き、俳優を立たせて、「用意、スタート」で芝居をするのを撮影するということは知っていた。が、それは知識。経験してみると、本当に重労働。好きなだけでは出来ない仕事であることを痛感。それを映画館で1500円(当時の大人料金)で観れるのは安いと思ったくらいだ。

当時、通っていた映画学校。カリキュラムは日本映画史、外国映画史、シナリオの書き方、のようなもので、映画評論家養成講座か?と思えた。シナリオにしても、すでに高校時代から見よう見真似で「キネマ旬報」等に掲載された脚本を参考に書いていた。また、僕が書いたものを教師たちは頓珍漢な批評しかせず。この人たちどうなの?と生意気なことを考えていた。

もちろん、僕のシナリオなど大したものではないが、それならもっと的確な批評をしてほしかった。プロの脚本家でもある講師が「よく分からない...」というのに呆れた。前回の表現でいうとインプットばかり。学校に来なくても東京にいれば当時は山ほど名画座があり、それらに通う方が勉強になった。そんなことで夏休みが終わると、ほとんど学校には行かなくなった。

そんなときに先のプロの現場を見る機会があった訳だ。これはもの凄い勉強になった。学校にはほとんど行かなくなったが、2年目の19歳のときに助監督を経験する。あるきっかけでチャンスをもらえた。プロの現場だ。1年前は見学だが、このときはスタッフの1員。まるで違う。俳優との接し方。プロのスタッフとの仕事。撮影の進め方。それこそオーディションから編集、MA、完成まで付き合わせてもらった。

先輩から「助監督を続けるなら、俺を訪ねて来い」と言ってもらえた。ありがたかったが、連絡はしなかった。現場を経験したことでプラスもたくさんあったが、問題点もいくつか感じたからだ。ギャラが安いとか、体がキツいとかではない。実際、現場は大変だが、楽しかった。映画作りは退屈な高校や映画学校に行くよりずっとずっと面白い。けれど、このまま映画の世界で助監督として働いて行くことに疑問を感じた。その理由は後ほど。を書くと長くなるので今回は書かないが、先の撮影現場。

2つの現場を経験する間に、自主映画活動をスタートした。当時、大森一樹さんや石井聰互さんが8ミリ映画を撮っていてチャンスを掴み、映画監督デビュー。多くの学生があとに続け!と学生映画をやっていた。僕もそんな1人として19歳のときに初めて長編映画を撮った。が、ここでまた思い知る。僕が監督。映画学校のクラスメート(同じく、登校拒否組!)がスタッフ&役者として参加していた。が、監督というのはこんなに大変だとは思わなかった。想像を絶するプレシャーが襲ったのである。

このときすでにプロの現場を経験していた。どのように撮影を進めるか?見よう見まねでやってたが、本当に大変。高校時代に映画を見て「ダメだよなあ。この監督」とか言っていたのが恥ずかしくなった。どんな詰まらない映画でも、監督業って大変だということを思い知る。

まず、監督はカメラの位置を決める。映画館で映画を見ていたら「もっと、前にカメラ置かないとダメだよ」とか思っていたが、それはすでにカメラが置かれた映像に対して、指摘する簡単な行為であることを痛感した。例えば公園。その敷地内のどこにカメラを置くか? 無数の可能性がある。そして、俳優をどこに立たせて、どこからどこに、どのくらい歩かせるか? 監督が全て決めて俳優とスタッフに伝えなければならないのだ。

さらに、スタッフは皆、映画監督志望の学生。「太田。カメラはそこじゃないだろう? あっちだよ」というと、別の奴が「いや、こっちだよ。その方が全体が撮れる」と言い出す。それらの文句多い、監督志望の「我こそは第二の黒澤だ!」と思っている連中を説得し、カメラ位置を決める。次に俳優の立ち位置。これも「ここからスタート!」というと、スタッフ「違うだろ〜」とか言い出す。おまけに俳優も級友。「どんなふうに歩けばいい? 早足。ゆっくり?顔は? 何を見ればいい」と俳優経験がないので訊いて来る。

当然だ。それを監督はいちいち説明せねばならない。説明すると、スタッフたちが「でも、太田よ〜。それじゃ***だし」とか言い出す。皆、インプットはたくさんしている映画マニア。いろいろうるさい。今度はカメラ。撮影は自分でするが、望遠か?広角か?あおりか?俯瞰か?これも無数の可能性がある。それを決め手、ピントを合わせ、露出を決め、三脚を立てて撮影。もう、ここまででヘトヘトだ。

その理由はこうだ。僕自身も12年間。小学校から高校まで与えられる教育をして来た。日本で「考える」というカリキュラムは僅か。だから、自分で何かを決めるということをあまりしない。決められたことを確実にこなす練習。だから、批判はできるが、自分で何も決めない。そんな環境で12年も生きて来て、全てを細かく決めるという監督業。19歳のガキー僕ですーにとってもの凄く大変な作業だったのだ。

今なら、当然の作業だが、あのときは本当に辛かった。例えれば、ボクシングのリングに上がり、相手の選手を1発KOだと思っていたのに、ボコボコに殴られ、こちらは全く手が出ず。何度もダウンして、ゴングに救われたような感じだ。

それがインプットばかりしてきた映画ファンの現実。自分で映画撮影をやったことがない。映画を見て文句を言って来ただけの19歳。その夜は塞ぎ込んで、言葉を発することもできなかった。が、撮影は翌日も続く、スタッフである級友たちが「明日の撮影はどうする?」「小道具は、衣装は?」と訊いて来るが、「もう、俺に聞かないでくれ〜」と叫び出したいほどだった。

完敗と言える。映画撮影がこんな大変とは思わなかった。もう撮影を中止したいほど。で、考えた。長年の夢だった映画監督への道。でも、自分は向いていないのかもしれない。もし、明日撮影して、うまく行かなかったら、その夢は諦めよう。二度と映画は撮らないでおこう。と考えた。ただ、明日は全力で行く。今日の反省を踏まえてやる!そう決意した。

翌日の撮影はうまく行った。昨日のプレッシャーは何だったのか?というくらいだ。ボクサーでいえば、最初はリングに立つだけで精一杯だが、次第に状況が把握できて、相手選手のパンチをかわせるようになるの同じ。やはり、現場に立たないとこれは学べない。映画を100本見るより現場だ。

ただ、ラッシュを見ると酷かった。ザ・素人という映像。もちろん、素人なのだが、高校時代に「俺が映画を撮れば…」とうぬぼれていたのに、完全に素人映画。つまらぬプライドが木っ端みじんに吹き飛んだ。考えた。プロの映像と、僕の撮った8ミリ映画と何が違うのか? 「そりゃプロと素人だからね」と言われそうだが、具体的に何が違うのか? 映画が完成してからも考え続けた。

ひとつはカメラの性能。プロはパナビジョン・カメラだったりする。こちらはフジのシングル8だ。それ以外に何か違わないか?フィルムが8ミリ。プロは35ミリ。それだけか? いろいろ考えて、レンズが違うことに気付いた。プロの絵は望遠を多様している。そして光。明るければいいーと思っていたが、光によって、かなり映像が変わることを知る。映画を作るにはセンスだけでなく、技術が大切なことを実感した。

そう、これがアウトプット。自分が表現したいことを表現するためには、技術が必要なのだ。楽器でも同じ。小説なら文章力。画家でも同じだろう。望遠レンズの効果。広角の効果。移動撮影。フィックス撮影。手持ち撮影。それぞれに別の効果を上げる。さらに光。撮影をしていると、いろんなことに気付く。

撮影後に勉強。次の撮影で生かす。これは俳優も同じだ。泣きのシーンがうまく行かなかった。なぜか? 出演した作品を何度も見る。他の俳優の仕事を見る。違いを考える。表現法を考える。次の芝居で実践する。ダメ。その次の芝居で実践する。評判よかった。こうして、アウトプットの能力を高めて行く。監督業も同じだ。

こうして僕は学生映画時代に4本の長編映画を撮った。が、そこで気付く、アウトプットだけではダメだ。技術だけではダメだ。僕は監督を目指していたのだけど、「自分で監督する作品は全てオリジナル・シナリオでやりたい!」という思いがあった。多くの監督は原作ものをシナリオライターが脚色。できたシナリオをもとに撮影する。

でも、それが嫌だった。嫌というより、自分が考える物語を映像化したかった。だから、シナリオからスタート。もし、監督業だけなら、センスと技術だけでも何とか行けるかもしれない。が、シナリオはそれだけではダメ。経験が大事。学生映画時代に書いたシナリオは高校時代の経験を元にしたもの。たった3年の高校時代。想い出なんてすぐに尽きてしまう。そのあとは学生映画。それをもとに作っても似たような話ばかりしか書けないだろう。でも、友人はいう。

「才能があれば大丈夫だよ。手塚治虫だって、あれだけいろんな物語を書いている訳だし」

そうだろうか? 当時から「才能」というものに懐疑的だった。そんなものが本当にあるのか? しかし、同じく映画監督を目指す友人たちはいう

「俺は俺に才能があると信じるよ。だから、このままAD業を続けていつか映画を撮る!」

彼らは信じる道を進めばいい。でも、このまま、僕がラッキーに監督に成れたとする。実際、学生映画をやっていて20代で監督デビューした奴が何人もいる。でも、この先、80歳まで生きるとして、60年。2年に1本撮っても30本の映画を撮ったとする。高校時代の3年間の経験を6年で使い果たした。この先30年もオリジナルで映画を撮り続けられるのか?どうでもいい作品ではなく、毎回、泣ける。感動する。ハラハラする。そんなシナリオを人生であと30本も書けるのだろうか?

20歳そこそこだったが、そんなことを考えた。そして、技術だけでは、センスだけでは、感受性だけでは、素晴らしい作品はできない。何が大切か? 経験だ。映画界以外での経験が必要ではないか? でないと、一般の人たちが共感、感動する映画が撮れないだろう。そこで考えたのが高校時代からの夢。アメリカ留学だった。映画の勉強をしながら海外の生活を経験できる。

こうして、「スターウォーズ」のジョージ・ルーカス監督が学んだという南カルフォルニア大学入学を目指し、英語力ゼロのまま、LAに留学することになる。それはまた別の話.....だが、この経験というのは「感受性」「技術」に並んで大切なものとなることを、やがて実感する。次回は「経験」が表現には重要という話を書かせてもらう。


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脳科学から考える=俳優やアーティストになるために必要なこと? 卓越した表現力はどうやって養うのか? [映画業界物語]

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脳科学から考える=俳優やアーティストになるために必要なこと? 卓越した表現力はどうやって養うのか?

表現をする仕事をする人は「感受性」が大切。人の痛みを人一番感じる力。それがないと俳優も、歌手も、作家も、映画監督も、その他の表現をする仕事にも向かない。では、感受性が高ければ高いほど、より素晴らしい表現者になれるのか? というと違う。感受性は「感じる力」であり、表現する能力はまた別にある。

以前、脳についての本を読んでいて、「なるほど!」と思う記述があった。脳には2つの能力がある。インプットとアウトプット。インプットは見たり、聞いたりしたことを記憶する。それを繰り返すほどに知識になり、見る目が養われる。例えば映画ファン。映画をたくさん見ることで、どんどん情報がインプットされる。いろんな映画を見て比較することで、発見がある。見方が鋭くなる。最初は気付かなかったプロフェッショナルな部分にも気づき、粗や問題点も見つける。

だが、これはインプット。映画を見る目が向上するだけ。アウトプット=つまり、映画を作るは別の能力なのだ。にも関わらず、ここで勘違いする人が出る。映画を見ていてこう思う。

「ダメだな。この脚本。先が読めるよ。役者も下手だなあ。なんでこんなの選んだの? 監督がダメなんだ。分かってないなあ」

映画レビューを見るとその種の素人評論家のような人が数多くコメントしている。そんな人たち。勘違いを起こす。

「この映画は酷い。監督は問題点に気付いていない。俺は気付いている。だから、俺が映画を撮った方がより良い作品を作ることができるはず!」

そこが大きな間違い。その人は見る目がある。つまり、インプット能力が養われているだけで、アウトプット能力が優れている訳ではない。というより、アウトプットの経験はゼロなのだ。俳優志望の人にも同じタイプがいる。テレビドラマを見る。新人俳優の演技が酷い。

「この子。ダイコン。まるでダメ。可愛くもないし。事務所の力で出演したのね? 私の方が可愛いし、芝居もできる。芸能界に入れば、すぐブレイクできるはず!」

先の映画ファンと同じ構図。以前にも書いたが、これらはプロ野球を見ていて「何で、その球が打てねえんだ!」とテレビに怒鳴るオヤジ。ボクシングを見ていて「右右。違う。そこでストレートだよ」とコーチのようなことを考える人たちと同じ。自分が球場やリングに上がれば、何もできないこと。プロの投手の球を素人は簡単に打てないし、プロのボクサーを相手にすれば数秒でKOされる。映画作りや演劇も同じなのだ。

では、何が必要か? それがアウトプット。これが難しい。その本によるとインプットは観たり、聞いたりすることで向上するので、楽して能力が向上する。映画を観る。音楽を聴く。芝居を見る。ということ。それに対してアウトプットは大変。代表的なのはピアノのレッスン。毎日、何時間もピアノを引き続ける。幼い頃からスタート。何年も何年も練習する。

そんなふうにアウトプットというのは、頭でイメージしたもの。与えられたものを、体を使って表現する行為だ。それを繰り返し、繰り返し、長時間、長期間、続けることで、脳と体が連携し、それを体現できるようになるという。

野球選手も同じ。絵描きもそう。ミュージシャンは皆同様。その他の表現の仕事も実はほぼ同じなのだ。例えば作家。最初から思うような文章は書けない。こんな話を書こう。こんな物語を書きたい。と思ってもうまく行かない。それは頭(脳)で考えることを体が的確に表現できていないということ。だから、ピアノレッスンと同じように、何度も何度も繰り返す。そのことで感じていることを的確な言葉で、伝えたいことを文章で伝えられるようになってくる。

シナリオライターも同じだ。自分が書きたいものがあっても、最初はうまく書けない。その力を養うには書き続けること。これがアウトプット。友人で若くして脚本家になった奴がいる。彼はいう。

「よく、プロデュサーがこのシナリオダメだな。作家に才能ないんじゃないのか? 仕方ないから俺が直したよ。ほら、よくなったろう? でも、それは違う。ゼロから物語を作り書いたものを出来上がったものを見て、ちょこちょこ直すのではレベルが違う。ゼロから作り上げるということはどんなに酷いものでも価値ある作品。もし、自分が創作活動をしていたら、どんなダメな作品でも、酷評はできない。それができるあのプロデュサーはそんな経験がなく、出来上がったものにケチを着けているだけなんだ」

別の問題もある、多くの俳優志望者はまず演劇学校に通う。必死で所属事務所を探す。さらには監督やプロデュサーと親しくなろうとする。営業する。なぜか? 就職活動を重ねてしまうのだろう。大手企業に入りたい。縁故を探す。関係者に売り込む。専門学校に行く。それと同じ。表現の仕事と会社員になるのは全く違うのに同じ構図で捉えてしまう。

会社は入社してから仕事を覚える(最近は即戦力を求められるが)。同じように「芸能事務所に入れば、仕事をもらえる。デビューさせてもらえる」と考える。だが、大切なことを忘れている。アウトプットだ。たくさん芝居を観る。映画を観る。ドラマを見る。脚本も読む。「あとはチャンスだけ」と考える俳優の卵が多いが、それは間違い。

アウトプットができていない。演劇学校やワークショップに通ったくらいで演技は向上しない。ピアニストやバイオリニストは子供頃から練習を続ける。バレリーナや歌舞伎俳優も同じ。なのに、俳優だけが18歳やそこら。高校を卒業してから、演劇学校に行き、卒業したら俳優デビューなんて、どうなのか?
俳優ってそんな簡単な仕事なのか? 

ひとつには多くの俳優志望者が商業主義に乗せられている現実がある。高校を卒業。専門学校で料理を学ぶ。卒業して店で働く。これはありだ。大学を卒業して就活。企業に入社。多くの日本人はそれが社会に出る道筋と考える。だから、俳優になるのなら演劇学校。映画監督になるのなら映画学校。最近は漫画家になるための学校まである。

しかし、それらを出てもプロになれる保証はない。それを他の業種と同じように考えて、業者が学校を作る。先の道筋と同じように、そんな学校へ多くの夢追う子供たちが入学する。乗せられているだけ。

学校でアウトプットはほとんど学べない。映画監督になるのに、映画の歴史や映画批評を教えられても役にも立たない。実習だってクラスで数人しか監督にはなれない。その生徒の実習費用を払うために他の監督志望の生徒は高額な授業料を払っている訳だ。でも、学校に通うことで安心する。業界に就職できる可能性は少なく、監督なんてまずなれないのに2年間、通学する。演劇学校も同じ。

表現の仕事は学校では学べない。それはインプットの能力を養うだけ。アウトプットをやらなければダメだ。例えば、映画監督が「恐怖」の演出をしようとする。インプットとしてはヒッチコックやデパルマの映画を勉強する。でも、それらのカット割りや撮影法を真似しても怖さは出ない。大切なのは、その演出を繰り返し試すこと。こーでもない。あーでもない。と。やっていると、あーーこれは怖い!という表現が見つかる。それがアウトプットなのだ。

俳優でも同じ。悲しみの演技をする。悲しそうに見えないと言われる。泣きの演技を勉強する。映画を見る。ドラマを見る。人間観察をする。大女優の演技を見る。それらは大切なことだが、全てインプット。その理屈や方法論が分かっても自分がするとうまく行かない。「才能がない?」そうではない。アウトプットが鍛えられていない。磨かれていないからだ。

それを繰り返し挑戦する。でも、ただ、泣く行為を繰り返してもダメ。それは意識した行為でしかない。演技ではない。大事なのは実践すること。舞台で、カメラ前で演技すること。それを繰り返すことでアウトプットが向上する。

「でも、そんな簡単に舞台やドラマには出れないし」という人もいるだろう。その通りだ。しかし、俳優なら劇団とか、仲間と組んで小劇場で芝居もできる。これが映画監督志望なら、最低でも何十万もかけてカメラを用意、俳優とスタッフを雇い自主映画をせねば実践できない。作家ならパソコンがあれば、小説が書けるが、生活のための仕事もあり、集中して書くのはこれも大変。つまり、お手軽に出来るインプットではなく、時間もお金もかかるアウトプットをしなければ表現力は向上しないということ。

簡単なことではない。でも、それを長年に渡ってやってきた人は強い。様々な試行錯誤をして考え続ける。それが卓越した演技力となり、迫力となる。「どうすれば悲しみが表現できるか?」「どうすれば怒りを伝えられるか?」いろんなことを何年も考え実践し続ける。もうひとつ言えば、これは俳優でも、ミュージシャンでも、映画監督でも同じなのだが、学校で1年学ぶより、実践を1回した方が遥かに成長する。

もちろん、俳優にとって映画に出るというのは、小さな役でも大変なことだ。でも、だから、どんな役でも俳優はそのチャンスを大切にがんばる。現場に立つことがもの凄い勉強になるからだ。100回のレッスンより1回の現場。

でも、インプットしかやってない俳優の卵は見る力だけが向上していて、自分は即戦力と思ってしまう。人気俳優の問題点を見て、自分の方ができると勘違いして「主役でないとなあ」とか「脇役じゃあ、真剣になれないよ」と考えてしまう。そんな子たちをたくさん観てきたが、全員消えてしまった。まさに裸の王様。知識だけで「俺は出来る」と勘違い。アウトプットをほとんどしていないので、現場で通用しない。

自分の考えた演技を自分の体を使って表現するーそれが俳優の仕事。楽器を使って表現するのがミュージシャン。文章でするのが作家。映像を使い表現するのが映画監督。みな、同じだ。どうすれば自分の思いがそこに表現できるか?それは感受性の鋭い人が、様々なインプットで勉強した上で、アウトプットで実践して磨いた実力を発揮。卓越した表現ができるようになる。そんな人たちに依頼が集まり仕事となる。それが映画界、芸能界なのだ。

大学卒業=>就職という一般社会とは別の構図がある。それを同じだと思うから勘違いしてしまう。そして、世間がよく言う「才能」というのは、鋭い感受性を磨き、インプットだけでなく、アウトプットでも鍛え、実践して手に入れた卓越した表現力のことなのだ。それをもとから持っていた力のように「才能」なんていうから、多くが勘違いしてしまう。血と努力と汗。そして年月をかけて磨き上げた力なのだ。

これで「表現の仕事」というものが、大体のことは分かってもらえたと思うが、感受性について、まだ、語り切れていない。その辺のことをまた機会があれば書かせてもらう。


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映画界&芸能界で仕事ができる人。できない人。「素質」=「感受性」? [映画業界物語]

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映画界&芸能界で仕事ができる人。できない人。「素質」=「感受性」?

「有名になりたい」「芸能人と仕事がしたい」「大手企業の仕事がしたい」そんなことが目標なら、俳優も、作家も、歌手も、ミュージシャンも、映画監督も無理!という話を前回書いた。「そうだよ。才能がないと!」という人がいるが、それも違う。

アーティストというのは「素質を磨き続ける人たち」のこと。だから、まず、「素質」が大事。これは「才能」とは違う。説明する。それは美しいものを美しいと思える感性。素晴らしいものを素晴らしいと理解するセンス。

例えば映画を観る。音楽を聴く。小説を読む。そのときにいかに多くのものを感じ取れるか? それが感性だ。その感性が鋭い人は素質があるといえる。渡されたシナリオから、自分の役のキャラクターや性格、人生を想像。それを体現するのが俳優。文章で書かれた物語からどれだけのことを感じ取るか? それが俳優の最初に仕事だ。

「俳優は綺麗な人、イケメンでないと!」と思いがちだが、先に説明した感性がないと演じるということができない。その役がどんな幼少期を送り、どんな青年期を過ごし、大人になったか? その過程であった事件や出来事が大きな影響を与え、人格形成をしている。それを想像、演じるに役に反映せねばならない。ただ、上手に泣くとか、笑う。怒るという行為をリアルに演じるだけが俳優ではない。

演劇学校ではよく「笑う」「苦しむ」「怒る」という感情表現のレッスンをする。講師が「はい、笑って!」というと生徒たちが一斉に笑う。そんな練習も必要なのかもしれないが、僕から見ると無意味だと思える。「演劇やってる!」という実感が持てるだけで、それが映画撮影で役に立つと思い辛い。ただ、笑えといって笑うのではなく、その役が笑うのであれば、それなりのツボというものがある。同じジョークを聞いても笑える人と笑えない人がいる。また、ジョークを言った人にもよる。Aさんがいえば面白いが、Bさんなら笑えないとか。

それなのに、ただ笑う訓練をすることに意味があるのか? ドラマというのは人と人との対峙である。笑う、怒る、悲しむ、後悔する、さまざまな感情が生まれるのは人との対峙。或は事件、現実との対峙である。それにより、さまざまな感情が生まれる。そんな微妙な感情というものを、レッスンで「笑え」「怒れ」「泣け」と指示されたままに出してもリアリティを感じるのは難しい。

分かり安く言えば、下手な女優が舞台で涙する演技をしても泣けない。でも、友人を亡くした女性が葬儀で涙するのは、胸を打つ。何が違うのか? 本物は胸を打つが、演技は心に届かないのだ。では、どうすれば心に響く演技が出来るのか? 「笑って!」「はい。泣いて」というレッスンで学べるものでない。

感受性が大切なのだ。これは俳優だけでなく、歌手でも、ミュージシャンでも、小説家でも、映画監督でも同じ。感性が鋭くないとこれらの仕事はできない。感性が鋭い人が素晴らしい作品を作り、表現する。同じ歌を歌っても、A子のは感動するが、B子が歌うと感動がないということがよくある。芝居でも同じだ。同じ芝居を別キャストで観たとき、別物になるのも同じ。感性の鋭いアーティストが感動を呼ぶのである。

では、なぜ、感性の鋭さが感動を呼ぶのか?というと、例えば俳優なら、成り切るということ。役を演じるのではなく、役に成ってしまう。だから、その人が葬儀のシーンで泣けば、それは演技ではなく本物。だから、観客の涙を誘う。先にも書いたが人の悲しみは演技では届かない。本当の悲しみでないと心に刺さらない。素晴らしい役者というのは、演技を超える。本人になる。

だから、観客は感動し、涙を流す。本人になるには、鋭い感性がないとなれない。演技力はその次だ。では、本人になるというのはどういうことか? 例えば、友達の話を聞く、辛い話だ。そのときに一緒に泣ける人は感性が鋭いといえる。女性に多く、男性はそれを「涙もろい」とか批判しがちだが、それはとても大切な資質。子供の頃によく泣いたというのも大事。

つまり「泣く」という行為は、他人の悲しみを自分のことのように感じる力があるということ。子供の頃に、ちょっとしたことで泣く子は「悲しみ」を何倍にも感じているのだ。他人から見れば「ちょっとしたこと」なのに、それを増幅してしまう感性がある。また、友達の災難を一緒に怒れる。おもしろいことがあれば大笑いする。そんな人はよく「天真爛漫」とか「いつまでも子供」と言われる。が、表現の仕事をする素質があるということなのだ。

ただ、その種の人は人生が大変。些細なことで泣いてしまう。塞ぎ込む。人前でも大笑いして顰蹙。日本人は特にそうだが、大人になると感情を押さえ、個性を殺し、生きていかねばならない。ある意味で無神経な方が生きて行きやすい。感性の鋭い人には生き辛い世界。豊かな感性を押さえて毎日を生きなければならない。これは一般の人が思う以上に苦しい人生だ。その種の人たちは阻害され、批判され、社会からはみ出すことが多い。

だが、そんな人たちが芸能界、映画界に行けばそれが武器になる。演じる。歌う。物語と作る。それには鋭い感性が必要。日本人社会で感情を押さえ、個性を殺して生きなければならないのに対して、より感情を豊かにし、より個性を発揮し、それを芝居や歌や楽器、物語で「悲しみ」や「喜び」を表現する仕事なのだ。

これで分かってもらえたと思う。「有名になりたい」「芸能人と仕事したい」「大手企業の仕事をしたい」という俗世間にまみれた人には無理ということ。一般社会で生きて行ける人は感情を押さえ、個性を殺し生きている。それに対して芸能界や映画界は正反対なものが要求される。

一般社会で普通に生きて行ける人たちには表現の仕事は無理。一方、鋭い感受性を持つ人たち。他人の悲しみを自分のことのように受け止める純粋な心。溢れる悲しみや怒り。そして喜びをどうすればいいのか分からずに社会生活で苦しんでいることが多い。それを表現という形で発揮することができる。それが芸能界であり、映画界なのだ。

その表現は演技であり、歌であり、小説であり、映画。つまり、アーティストは才能ある優れた人たちではなく、多感で、感受性が強く、一般社会で生きて行き辛い人たちが、悲しみや苦しみ。喜びや感動を表現することで、自分の存在を見いだしている人たちなのだ(だから、彼ら彼女らはとても気難しい)。

その構図が分からない人たちは、アーティストを見て「才能あるから、あんな芝居ができるんだ!」と思ってしまうが、そうではないことが分かってもらえたと思う。では、感受性の強い人は皆、アーティストになれるのか? というと、そうでもない。ここまではいつもいう「素質」である。この素質をどう磨いて行くか? で、俳優になれるか? 歌手になれるか? 作家になれるか? 映画監督になれるか? が決まって来る。「磨く」とはどういうことか?それはまた別の機会に書かせてもらう。


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【明日にかける橋感想文】何でお決まりのように涙が流れるのか? [映画感想]

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【明日にかける橋感想文】和歌山県の小タマムシパパより

太田隆文監督作品はデビュー作の「ストロベリーフィールズ」からずっとスクリーンで複数回観てます。毎回当たり前のように泣かされます。何でお決まりのように涙が流れるのか?

それは作品テーマが親子に伝えたい大切なことだからでしょう。友情・家族の絆が毎回のテーマ。

特に今作の「明日にかける橋」は父娘の関係が強く描かれてましたね。僕自身、娘が2人おるので、ほんまに他人事ではありません。板尾創路さん演じる冬樹父さんを観ながら、自分に当てはめてみる。

娘たちにちゃんと接してあげることができてるか?悩んでる時に正しく助言してあげられたか?「あー!あのときこうしていれば」と後悔することもあります。僕も決して良い父親ではないかもしれません。過ぎた時間は取り戻せないけれど、これから出来ることもあります。

「明日にかける橋」を父親参考書だと思い、娘たちの将来をもう一度しっかり考えていきたいです。田中美里さんの桐子母さんもまた母親参考書ですね。百聞は一見にしかず。世のお父さんとお母さん、まぁ一回観てください。できればお子さまを連れてご一緒に。心が洗われますで。

公式ホームページ、上映館情報はこちら。
http://asunikakeruhashi.com/

スバル座舞台挨拶2&予告編はこちら。
https://www.facebook.com/100001929411675/posts/2183969855010640/

よろしくお明日にかける橋お父さんお母さん泣けますよます。


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