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「明日にかける橋」LAの映画祭ー映像を配信! [動画]



「明日にかける橋」LAの映画祭ー映像を配信!2018年8月に監督が渡米。

LAの映画祭で特別賞を受賞した「明日にかける橋」そのときの記録映像。

静岡のおばちゃんたちが作った映画がアメリカでどのように観られたのか? 

現地の魅力ーサンタモニカビーチ、ハリウッド等を紹介しながら伝えます。


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演技レッスンを受けたこともないのに、もの凄い芝居が出来る人たち? [映画業界物語]

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演技レッスンを受けたこともないのに、もの凄い芝居が出来る人たち。「鋭い感受性」「経験」他に俳優に必要なものは何だ?

俳優、そして表現の仕事をする上では「経験」も重要だが、経験にばかり囚われて表現力を養わないと無意味となる。そんな話を前回書いた。人生に置いて様々な経験をすることは表現の仕事をする上でプラスになる。が、いろいろな体験をしているからと表現の仕事ができる訳ではないということだ。

例えば外人部隊として海外で戦争に参加した人がいたとする。その体験は貴重であり、なかなか経験できないことだ。が、だからといって、彼は作家になれる訳ではない。1本はその経験をもとにノンフィクションの体験小説が書けるかもしれないが、それで終わり。大事なのは表現力。作家なら書く力だ。それがなければ作家の仕事を続けることはできない。

俳優業も同じ。どんな素晴らしい経験があっても演技力がなければ俳優の仕事はできない。そして、それら表現力を伸ばすには、繰り返し表現を続ける。つまり、作家なら書き続ける。俳優なら演じる。それを何年何年も続けてこそ、卓越した文章力、演技力になるのである。

では、俳優業や作家業は幼少の頃から訓練し、何十年と続けないとプロとして通用しないのか? 高校を卒業してから、30歳を過ぎてから挑戦しても無理なのか? それは違う。俳優の仕事はバレリーナやピアニストのように幼少の頃にスタートしなくても、ブレイクする人たちはいる。

では、才能があればいいのか? それも違う。繰り返し書いているが「才能」なんて存在しない。でも、あるものを持ち、磨いて来た人であれば、30歳、いや、40歳、50歳を過ぎてからでも表現の仕事がし、業界に通用させることができる。まず、こんな話を紹介しよう。

ワークショップをすると、なかなかの実力派が集る。というか、それなりの経験がある役者に勉強してもらうためのワークショップなので当然ではあるが、プロとして知名度がなくても、水準以上の芝居ができる人たちは多い。台詞もできる。動きもOK。笑えといえば笑えるし、泣けといえば、すぐに泣ける。ま、でも、それらは本当に重要なことではない。演劇学校へ行けば教えてくれることであり、それを長年練習して来たのだろう。彼ら彼女の多くは俳優事務所に所属。或は劇団のメンバーだ。そこそこ、映画やドラマにも出演している。が、食って行けるところまでは行かず、皆、アルバイトをしながら俳優をしている。

30代を過ぎた人も多い。「私は一生、俳優を続ける!」という意思も感じる。応援したくなる。が、問題がある。そこそこの演技はできる。下手とは言えない。が、普通の演技なのだ。つまり、代えが効くということ。A君がいる。ドラマで刑事役をする。その役をB君が演じる。でも、さほど違いがない。そう、個性がないのだ。どちらも普通の人。このタイプが実は多い。女性も同じ。皆、ずば抜けてはいないがルックスはいい。芝居も出来る。そこそこの役ならワークショップの参加者のほとんどがこなせるだろう。でも、Aさんがやっても、Bさんがやっても大きな差はない。

ひとつは個性がないということ。それで演技力が同じなら、オーディションでも何でも、「その俳優をぜひ欲しい!」にはならない。そんなところにデブ、チビ、ハゲ、というキャラの個性的な俳優がいたらどうだろう? 完全に持って行かれる。主人公の友達、同僚、家族、という役柄ならアウトだ。普通の兄ちゃんや姉ちゃん。少し芝居ができても、個性派には勝てない。

チビ、ハゲ、デブという個性的な人たちは一般世間では持てないだろうし、コンプレックスが多い人生だろうが、この世界ではそれは武器となる。ずば抜けた演技力がなくても、そこそこで十分通用する。逆にいうと、可愛い、美人、巨乳という女優は山ほどいる。上には上がいる。それで勝負するのは大変。男性でも、二枚目、イケメン、いい男も捨てるほどいる。この世界で容姿だけで勝負するのは無謀。

ということは、ワークショップに来てくれる真面目な青年俳優たちはどうすればいいのか? 抜群の演技力を付けるか? 自分なりの個性を探し出し、それを前面に出して行くか?なのだ。つまり、幼少から演技レッスンを受け、長年稽古して来ても、それで演技派に成長するとは限らないのが俳優業だ。18歳からスタートしても、花咲く人もいるし、子役からがんばっていても、パッとしない子も多い。単に長期間やっていれば、うまくなるというものでもない。といって、30歳を過ぎて行きなり俳優になり、高い表現力が発揮できるか?というと、それも難しい。その辺は経験のない人がいきなり小説を書いて、素晴らしい作品が書けるものではないのと同じ。

しかし、演技経験がないのに、30代で初めて映画主演した人がいる。50代を過ぎて連ドラのレギュラーになった人もいる。いや、以外にそんな人たちは多い。若い頃から演技の勉強をしていたか? NOー全くしていない。劇団に所属していた? NOーしていない。なのに、長年俳優を続けるベテランを超える芝居をしてしまう人たちがいる。さて、どんな人たちか? その前にクイズを出そう。以下の人たち。有名俳優だが。共通点は何か?

岸部一徳、武田鉄矢、沢田研二、片岡鶴太郎、ビートたけし、竹中直人、萩原健一、内田裕也、いかりや長介、泉谷しげる

皆、個性的な俳優だ。さて、共通点は何か? 答えー元々は俳優ではなく、別の分野で活躍する人たちだ。歌手か、お笑い芸人なのだ。「相棒」の官房長で怪演していた岸部一徳さんも、実は元タイガース。あのグループサウンズのメンバー。歌手なのだ。沢田研二さんも同じタイガース。竹中直人さんは物まねからスタートした人。萩原健一さんはテンプターズ。いかりや長介さんはご存知ドリフターズ。元々はバンド。その後「全員集合」でお笑いをやっていた。

思うのだが、彼らの演技は通常の俳優。特に劇団系などの正当派の俳優たちには絶対にできない芝居をする。若い人はご存知ないかもしれないが、沢田研二は「太陽を盗んだ男」で映画初主演(タイガースがメインの映画等を除き)31歳だったが、もの凄い演技を見せた。あの役は他、誰ができるだろう? その後の「ときめきに死す」でもラストの絶叫。名だたるベテラン俳優でも、あの芝居ができたか? ビートたけしは自らの監督作での演技だけでなく、「コミック雑誌なんかいらない」のクライマックス、豊田商事事件の犯人がモデルの役。あの迫力と異常さを誰が真似できるか?

上記に上げた俳優たちのそれぞれの作品をひとつひとつ解説したいほど、迫力と狂気と、熱情と、悲しみに満ちた演技に何度も打ちのめされたのを思い出す。彼らはミュージシャンであり、歌手であり、お笑い芸人だ。子供の頃から児童劇団で勉強した訳でもなく、俳優の仕事を主にやって来た人ではない。出演前に演技レッスンに通ったのでもないはず。中にはドラマデビューが30代40代50代の人もいる。

いかりや長介はコントは長年やっていたが(映画「全員集合」というのもあったが)本格的な映画出演は黒澤明監督の「夢」。当時59歳。武田鉄矢の「金八先生」シリーズにしても、上記に名前は上げなかったが長渕剛も「とんぼ」「シャボン玉」等のテレビドラマでは、俳優一筋で来たベテランでは考えられない演技を見せ、大ブームを起こしている。

僕は基本、劇団系の俳優さんが大好きなのだが、歌手やお笑い出身の俳優陣の力は本当に凄いと思える。となると、演技レッスンって何だ? 長年の稽古って何だと考えてしまう。では、なぜ、彼らがそんな凄まじい演技ができるのか?説明して行く。これも才能なんてものではない。演技=表現。つまり彼らは長年に渡って「歌」や「笑い」という表現をやって来たのだ。元々、鋭い感受性のある人たち。歌うこと。笑わせるという表現を長年やり、試行錯誤し、自分のスタイルを確立した人たちだ。その方法論を演技という表現に置き換えたのだ。

歌を歌うというのは、ただ歌詞を歌うだけではない。歌詞で描かれた物語。その主人公の気持ちになり、伝えるのが歌だ。悲しみや喜びをどうやって歌詞で伝えるか? その歌を聞き、観客は悲しんだり、感動したりする。歌手の仕事は俳優と同じなのだ。その登場人物に成り切ること。俳優はそれを言葉と動きで伝える。歌手はそれを言葉と音楽で伝える。そんな仕事を長年し、その世界で成功して来た人たちが「演技」という形で、表現をするのが俳優への転進なのだ。

お笑いも同じ。観客を笑わせるということは感情を操ること。間の取り方。言葉のトーン。早さ。ちょっとした表現で人は笑ったり、笑わなかったり。そんな仕事をして来たお笑い芸人。もの凄い技術を持っているのだ。それを演技に生かした。演劇学校で感情表現のトレーニングとか良くやっているが、観客相手に生で勝負しているお笑い芸人。それもその世界で成功して来た人たちの技術は学校で学ぶレベルではない。

結局、演劇とはレッスンで学べるものではないと思える。ワークショップに参加してくれる若者たち。事務所のレッスン。演劇学校。他の監督のワークショップ。いろいろと参加し勉強している。でも、それらがどれほど意味があるのか? 目の前にいる観客を笑わせるために日々、努力するお笑い芸人。観客を湧かすために歌う歌手。彼らが長年続けて来たその経験と努力が大いに表現、演技に生きていることが分かる。

僕が伝えたいこと。表現の仕事は学校では学べない。そして、短期間で上達するものではない。といって幼い頃からの英才教育でもない。また、大学を出てからスタートしたのでは遅過ぎるのもある。しかし、昔から歌をやっていた。お笑いをやっていた。いや、それ以外でもいい。何か感性を磨くことをやっていたのであれば、それを使うべきだ。そして、できる限り多くの舞台やカメラの前に立ち。芝居をすること。それが上達する早道。早道といっても、そこから5年10年かけて、うまくなればいい。

作家も、歌手も、お笑い芸人も同じだと思う。場を踏み。考える。そしてまた観客の前に、カメラの前に立つこと。学校で学ぶことではない。映画監督業も同じだ。僕が若い頃。「俺に監督させろってんだよ。最高の作品撮ってやるよ」という友人がいた。どの業種でもそうだが、何の根拠もないのに、若い内は「俺は違う!」と思えるもの。ま、以前に書いたインプット作業ばかりしているからなのだが。

でも、映画を数観ても監督業はできない。8ミリだろうと、ビデオであっても、自分で撮ることで力が着く。何よりも真剣勝負のときに学ぶことが多い。映画学校で学んだことで役に立つものはほとんどないと感じる。実践が一番大事。もちろん、その場に立つまでにいろいろ困難はあるが、今回はそのことを伝えたい。


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俳優業等ー表現の仕事に大切な感受性について詳しく語ろう [映画業界物語]

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俳優、歌手、ミュージシャン、作家、画家、映画監督等々の「表現」の仕事をする人に大切なのは「鋭い感受性」であることを毎回、書いている。では、感受性とは何か? 簡単にいうと「感じる力」。美しいものを美しいと感じ。悲しいことを悲しめる。自身のことだけではない、他人の悲しみや苦しみも自分のことのように悲しみ苦しんでしまうのが鋭い感受性を持つ人の特徴。

多くの子供はそれを持っているが、大人になるに連れてそれが固まり、能力が低下していく。10年に渡る教育と日本人の考え方ー感情を押さえるのが大人ーと、現代社会、会社等の組織で仕事をする上では「感受性が豊か」であるより、無神経な方が楽という環境もある。

フレッシュな気持ちで入社した会社員も、勤続年数が増えるたびに感動や喜びがなくなり、与えられたことをひたすらこなすロボット社員のようになってしまう光景はどこでも見かける。夕陽を観て「あー美しい」雨の日に「雨音が綺麗」と感じたりする感性が失われて行くのだ。他人の不幸を見ても何も感じない。苦しむ同僚を見ても「バカな奴」としか考えない。感情が麻痺して行くのが現代社会であり、組織である。

そんな環境の中で、鋭い感受性を持つ人は本当に生き辛い。でも、そんな人こそアーティストと呼ばれる表現の仕事ができるのである。「サラリーマンは嫌だから、芸能界に転職して派手な人生を送りたい」という動機ではダメ。日常が生き辛い豊かな感受性こそがアーティストの条件なのである。

しかし、感受性が鋭ければ誰でも俳優や歌手になれる訳ではない。が、その前にもう少し「感受性」について説明する。僕はロスアンゼルスに6年住んでいた。カルフォルニアの青い空。雨は1年に7日くらい。ハリウッドがあるくらいの町だから晴れが多い。

最初は本当に快適だった。湿度も低く。梅雨もない。6月は毎日、傘をささねばならない。ジメジメする町で生活していた頃を思うと本当に快適だった。春秋でも天気がいいと暑い。ハワイほどではないが、冬でも晴れの日はプールで泳げる。日本から考えると本当に羨ましい気候。

だが、そんな町で何年も暮らしていると気付く。季節がほとんど変わらないこと。雨が降らないことがどんなに苦痛であるかということ。日本では暑い夏が続き、「あー早く秋になればいいのに〜涼しくなってくれよ〜」と思うが、実際に秋になり涼しくなると、夏の暑さが懐かしくなる。

汗を流しながら町を歩き、エアコンの効いた喫茶店に入ったときの快感。アイスコーヒーの冷たさ。そんな日々にもう一度戻ってみたいとさえ思う。冬は冬で「寒いの嫌だー」と思っても、春が来ると、その寒かった日々。白い息を吐きながらバイトに通った日々が懐かしく思える。

雨も同じだ。シトシトと降りしきる雨。傘の上で雨音が跳ねる。ハンバーガーショップに入り、雨が弱くなるのを待つ。窓から外を見ると色とりどりの傘をさした人たちが早足で歩いて行く。窓ガラスをつたう雨だれ。日本にいると1年中体験することであり、鬱陶しい記憶でしかない。しかし、雨の降らない町にいると、そんな経験がもの凄く懐かしく、同時に、それが日本人の感性を育てていたことに気付く。

移り行く季節。だからこそに悲しくも美しい。満開のサクラもやがて散る。積もった雪も最後は溶けてなくなる。夏の暑さも、冬の寒さも永遠ではない。そんな中で生活する日本人だからこそ、ものの哀れ、という考え方が生まれて来た。美しいものを愛でる、感じるという感性が育ったのだ。雨も、雪も、同じ。

それがロスアンゼルスにはない。雨も1年に7日ほど、雪は降らない。サクラもない。1年中ほぼ夏。言い方はよくないが、LAで育ったアメリカ人は少々無神経。フレンドリーともいえるが、単純発想の人が多いと思える。映画監督であり、俳優でもあるウッディ・アレンが「LAには住めない」とよく言うが、なるほどという気がする。

そのニューヨークは四季がある。冬はもの凄く寒い。雨も降る。その街で育った映画監督ーアレン以外だと、マーティン・スコッセッシがいる。ハリウッドの映画が単純明快なヒーローものが多いのに対して、ニューヨーク派は繊細であり、芸術タイプが多い。それも土地柄。つまり、気候風土が感受性を育てるのである。その意味で日本人は素晴らしい環境で生活している。のだが、教育と会社によって、その感受性を踏みにじる環境が同時に存在する。

感受性の話を続ける。分かりやすくいうと食べ物でもそれが分かる。多感な人は食べ物にこだわる。「何でもいい。食えりゃいいだよ」という人はやはり無神経なことが多い。その意味で食べることに拘る女性は男性より、多感な人が多いということだ。映画も食べ物に拘る。業界の先輩。演出部だが、その人が結婚式のパーティをするレストランを決めるのも大変だった。何軒もの店を訪ね、実際に食事して、数ヶ月かけて店を決めた。というのも、映画人は食うことにうるさい。

ある有名監督は「食べることに拘らない人はいい映画を作れない」という。そういえば伊丹十三監督は「食べる」というテーマで「タンポポ」という映画を作ってしまった。あれを見れば伊丹監督の「食べる」ことへの拘りがよく分かる。先輩も食べるに拘る。彼の仲間、それこそ先輩や監督、俳優らがパーティに来て、「えー**さん。こんな料理を出す店。選んだの?」と言われたくなかったのだ。それで先輩のセンスや志向が分かってしまう。「さすが、**先輩」という料理を出す店にしたかったのだ。

食べることへの拘りは食通ということではない。高くて美味しいのは当たり前。普通の値段でも、努力している店。手抜きをしている店がある。それを見抜くのも感受性なのだ。食事だけではない。店の内装や照明でも、その店の経営者のことがよく分かる。そこに趣味やセンスが現れるからだ。

それも感受性から来るもの。特に照明は気になる。日本という国は先にも書いたが、感受性を育てる素晴らしい環境があるのに、照明に限って言うと、本当に無神経。その原因は蛍光灯。スイッチひとつで部屋全体が明るくなる。もの凄く無神経な光だ。

僕も生まれたときから蛍光灯だったので気付かなかったが、アメリカ映画を見ていると部屋の灯りが違う。間接照明にしてある。蛍光灯ではなく、裸電球。それを複数のスタンドで部屋を照らし出す。だから、部屋の中に光と影があり、蛍光灯が白色なのに対して、裸電球はオレンジ色。その色合いが美しい。

なぜ、日本は蛍光灯になってしまったか?分からないが、電気代が安い。部屋が明るくて作業が能率的とかいうことがあるのだろうが、美しくない。経済性と利便性を取り、美的感覚を捨てたのだと思える。僕が住んでいたロスアンゼルスの安アパートでさえ、間接照明だった。だから、帰国して以来、僕の部屋は間接照明だ。今はLEDの赤い電球があるので電気代も安い。

話が逸れたが、生活する中にもいろいろと感受性が試されることがある。ファッション、音楽、演劇、映画、感受性が鋭い人はそれらを楽しむがそうでない人はそこそこ。しかし、それは日常レベル。そんな感受性のずば抜けた人が表現の仕事をするのに向いている。

感じる力ー美しい、悲しい、醜い、苦しい、せつない、儚い、等々、あらゆるものから感じ取る力がないと、表現することはできない。それらを感じてこそ、俳優なら悲しみ、苦しみ、喜び、妬み、を表現できるのである。作家や歌手、画家や映画監督も同じだ。

だが、感受性が鋭く、それらを感じることができるからと、すぐに表現が出来る訳ではない。以前に書いたアウトプット作業の熟練をしなければ素晴らしい表現はできない。

感受性が鋭ければ、「この俳優の悲しみの表現は見事だ」と見抜くことはできるが、いざ、自分がそれができるか?というと別。往々にして、その表現の素晴らしさ、未熟さを見抜ける人は、自分ならもっとうまくできると思いがち。そこが大きな間違い。鋭い感受性があった上で、表現の訓練をしないと、素晴らしい表現はできない。

ピアニストだって、バレリーナだって同じ。歌手も、俳優も、ミュージシャンも、作家も同じ。熟練した技術が求められる。感受性が鋭いからとピアノが弾ける訳ではない。まず、ピアノを弾く技術を学び、それを毎日、幼い頃から繰り返す。

その上で鋭い感受性がある人がやがて、名ピアニストとか呼ばれるようになるのだ。楽器は物理的に弾くという行為があるから分かりやすし、バレーやダンスも形が決まっているので練習が必要なことは理解しやすい。が、演劇の場合は何もしなくても、できそうに思う人が多い。それこそ「才能」があれば、とか考える。今回のテーマで言えば

「私は感受性が鋭い。食べ物も、ファッションも、拘りがある。演劇もよく見る。だから、できるはず」

とか思う。が、演劇もピアノやバイオリンと同じ。楽器を弾き、音を出す。音楽を奏でるという練習を繰り返しすることで、単に楽器を弾くだけでなく、その曲の美しさ、悲しさ、優雅さをも表現できるようになる。演劇も同じ。単に悲しい台詞を口にするだけでなく、その悲しみを観客に伝えるためには年月をかけた訓練と練習が必要なのだ。

これは文章でも同じ。僕は帰国してからバイトをしながら5年間。シナリオを書き続けた。書き上げては業界の先輩。友人。仲間に読んでもらった。が、最初の頃は不評。ま、SFドラマを書いていたので、年配の人たちには理解し辛いのだと思えた。今考えると、半分はその通りだが、半分は僕の文章力のなさだった。そして次第に分かってくるのは、僕はSFドラマが好きなのだけで、自分がそれを書くのは決して得意ではないということ。これは俳優に例えると、2つの側面がある。

1つ目は、表現力がないので、演じても評価されない。もう1つは演じる役が合ってないから評価されない。例えば70代にさわやかな二枚目青春スターとしてデビューし人気を誇った俳優Mさんがいる。が、その後、パッとせず、いろんな映画に出たが興行不振。それがあるとき時代劇に出演。好評だった。

その後、悪役を演じても好評。それらの役の方が彼の魅力が際立ったのである。同じように、僕もSFドラマではなく、青春ものを書いたとたんに、まわりの評価が上がった。さらに、好きだけど、書くのはなあ…と思っていたミステリーが好評。そのシナリオでプロデビューすることになった。

脚本家ならまず「書く力」を鍛える。俳優なら表現力。その次がスタイルなのだ。最初はどんな役でもやってみる。そこで感情表現を鍛える。その上で、スタイルを模索する。僕の場合だとSFより、青春ものやミステリーだった訳だ。

バレリーナやピアニストと同じである。ところが、その訓練というのが難しい。というのは、これはかなり僕の意見であるが、いくら演劇学校で練習しても、うまくならないということ。もちろん、少しはプラスになるが….、という程度だ。ワークショップだって、要は講師である監督がどんな人か? 気に入ってもらえるか? 何か新しい指摘をしてくれるか? というくらいのものだ。音楽家の宇崎竜童さん。以前こんなことを言っていた。

「100回スタジオで練習するより、ライブをして観客の前で演奏する方がうまくなる。その1回が100回に勝る」

本当にその通りだと思う。100回レッスンするより、1回舞台に立ち芝居をする。カメラの前に立つ。それがうまくなる早道。もちろん、そこまで行くのは大変なことだ。でも、有名な劇場や企業映画である必要はない。

最近はプロの俳優でも専門学校の実習に出演する。素人だと嘗めてはいけない。カメラの前に立ち、演じることは大いに意味ある。マイナー劇団の舞台でもいい。ちょい役でもいい。舞台に立ち。観客の前で演じること。それが一番勉強になる。

それをせずに、仕事もないのに事務所でレッスンを受けて自分はプロだと思ったり、業界の飲み会に参加してアピールしたり、映像関係を訪ねて営業したり、そんなことで仕事をもらえても、表現力が貧しければ結局は消えて行く。まずは表現力を養うこと。最初から名演技ができる人はいない。何度も場を踏むこと。それを忘れてはいけない。

脚本家志望だった友人も、いつまで経っても書こうとせず、「依頼があればいつでも書きますよ」というばかり。プライドが高く。実績もないのに依頼が来る訳もない。もし、依頼があったとしても彼には大したものは書けなかったはず。書く力を養うためには書き続けることが大事。それに書いたことがないから「俺が書けば凄いシナリオが書ける」と勘違いし続けることができたのだ。

僕が教えていた演劇学校の生徒も似たような子がいて、何かというと「俺、まだ本気でやってないですから」と言っていた。企業映画や大きな舞台の仕事が来たら本気出すというのだが、レッスンだけしてうぬぼれてる奴に依頼など来るはずもない。毎回本気を出さずして、ここぞという場で本気は出ないのだ。

というところで今回のまとめ。表現の仕事をするには「鋭い感受性」が必要。でも、それだけではダメ。感受性を駆使した表現力を鍛えること。技術を覚えること。熟練することが大事だ。もう分かってもらえたと思うが

「あの俳優さん凄い!才能あるからあんな演技ができるのね!」

というのは間違い。鋭い感受性がある人がもの凄い努力を何年も続けて自分なりの表現を模索した結果なのだ。その背景が分からないから多くに人は「才能」という言葉で理解しようとしてしまう。「才能」=「感受性」ではない=>「感受性」+「努力」+「何年もの模索」なのだ。

しかし、それだけではない。「経験値」というものも重要。これは武器にもなるし、勘違いの背景にもなる。それはまた別の機会に紹介する。


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