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「朝日のあたる家」の撮影は6年前の今頃だった「原発映画を作ったら、2度と仕事が来なくなる!」と言われたこと思いだす [2019]

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原発事故を描いた映画「朝日のあたる家」の撮影は6年前の今頃だった。

「原発映画を作ったら、2度と仕事が来なくなる!」

映画界ではそう言われていた。先輩たちからも何度も止められた。でも、個人的に興味を持ち調べ始めた原発事故。そこで苦しむ福島の人たちのことを知り、原発の危険を知ったことで何かしなければ!と思った。

僕ができること。大したことはできない。知名度もない。金もない。発信もできない。いろいろ考えて、映画で原発事故の悲しみを伝えることならできると思えた。同時に恐怖も感じた、

「どこの誰か分からない奴が圧力をかけてくるかもしれない、殺されるかもしれない。怖い。危険な映画はやめた方がいいか?」

そうも考えたが、そうするなら僕は今後「表現」の仕事はしてはいけないと思えた。表現者失格であり、人間失格。見て見ぬ振りをして「幸せとは何か?」と言う映画を作っても、それは観客には伝わらないだろう。「なぜ、あの時、原発事故の映画を作らなかった。まだ、受けてもいないバッシングや圧力を恐れて諦めるべきではなかった」と一生、後悔すると思えた。

どうしても人は安定を望み、組織は安泰を図る。しかし、「表現」の仕事をするものが「真実」や「歴史」を都合よく改ざん、捏造したり、目の前にある危険や不幸から目を逸らすのは絶対にやってはいけないこと。そう思い映画製作をスタート。山本太郎さんも賛同してくれて出演。多くの人の支援と強力を得て静岡県の湖西市を舞台に映画を完成させた。奇しくもクランクアップが3月11日。

当初、多くの映画館から上映拒否を受け、お蔵入りかとも思われたが、いくつかのマスコミが応援。記事にしてくれて、日本各地の映画館から「だったら、うちでやりましょう!」と言う声がどんどん届き、最終的には25館で公開することができた。いずれの映画館でも大ヒット。東京では5ヶ月ほどロングラン。その年、最大のヒットとなった映画館もある。

言われていた圧力。ゼロと言っていいほどなかった。電力会社からクレームが来ることも、怪しい奴に尾行されることもなく、映画の世界で村八分にされたりすることもなかった。それどころか、その後、2本の劇場用映画を監督。仕事はむしろ順調になる。

つまり「原発映画を監督したら2度と映画は撮れない」と言うのは「そうなるんじゃないの〜」と不安で誰かが言った言葉が一人歩きしていただけで、事実ではなかったのだ。根も葉もない噂。まさに杞憂。それを多くの映画人が真に受けて、避けまくる。勝手に原発映画はヤバイと思い込んでいただけ。

それどころか僕の「朝日のあたる家」が完成する前に、ヒットメーカーである園子温監督も原発事故題材の映画を先に完成させて公開。そして「朝日」の後にも次々に同種の映画が作られた。思ったのは、多くの人が勝手に自粛していたと言うこと。言い方を変えると「忖度」していたのではないか? 原発ムラは巨大。大手企業が中心だ。当然、圧力がかかる。だから、手を出さない方がいい。

人の心理としては分かる。しかし、表現者やマスコミがそれではダメ。自分たちの仕事は何なのか? 広報なのか? 報道なのか? 政府や企業に都合のいい情報を流すことか? 真実を伝えることか? 表現も同じだ。マスコミが報道できないことも芸術の世界では伝えることができる。考えることができる。それが映画であり、音楽であり、漫画であり、小説であり、演劇であり、作品なのだ。

そして「真実」や「歴史」。そして「幸せ」や「不幸」を語ると言うのは、自らが傷つくかも知れない戦い。「圧力があるかもしれないから、やめておこう」と言うのなら「表現」の仕事をするべきではない。

そんなことを考えながら6年前に撮影したこと。思いだす。その「朝日のあたる家」その後はDVDになり、TUTAYAでレンタルもされ、現在はプライムビデオのNETFLIXで配信中。明日、3月1日に終了。チャンスある人は見て欲しい。



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人はなぜ、知らないことを調べないで、勝手な想像で分かった気になるのか?=そんな人たちが今の政権を支えている? [my opinion]

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人はなぜ、知らないことを調べないで、勝手な想像で分かった気になるのか?=そんな人たちが今の政権を支えている?

毎回、映像産業以外の会社や団体と仕事すると、思いもかけぬ誤解があり驚く。もちろん、彼らは映像製作を知らないのだから、知らない、分からないは仕方がない。ただ、知らないのに「これはこういうものだな!」とか「あれはこれに違いない!」と独自の想像で、決めつけることが多い。

例えばラーメン屋でラーメンを注文すれば10分15分でテーブルに届く。だが、あれは前の日からスープを仕込んであるから、その時間でできるのであり、1からスープを作る場合は十数時間から数日必要。それを

「遅い! 何でラーメン一つに、こんなに時間がかかる!」

と怒るようなものだ。料理でも、映画でも、小説でも、何かを作るのは時間がかかる。が、その制作現場を知らないと、まさか?何日も、何ヶ月も、何年もかかるとは想像すらできないのだろう。

かなり前だが、ドキュメンタリー製作依頼を受けた時、9割の取材が終わり、残り1割。その段階で一度、粗編集を見せるということになった。そうするとスポンサーはその粗編上映に社長、会長、来賓、専門家、評論家を招くと言い出した!?これは何か勘違いしているのではないか?と聞いてみると、

「一度、関係者に見せてお披露目したいんです」

何でそーなるの? 9割の取材が終わったと言っても編集はしてない。話をして3重に誤解があることが分かった。1つ目は

「9割を取材した。粗編集をする。あと1割を取る。編集をする。それを嵌め込めば完成」

と思ったのだ。まず間違っているのは「粗編集」というのは、文字通り「粗い」「編集」。正規の編集とは違い、素材を順番につないだだけのもの。撮影は作品で見せて行く順番通りには撮らない。だから、順番通りに映像を繋ぐことで、全体像を感じることができる。粗編はそのための初期的な編集。ただ繋いだだけ6時間ほどあった。それを通常の編集、あるいは本編集と思い込んだ。

前回の取材は1ヶ月ほど前。

その段階から撮影した9割のものを全て編集する時間などあるわけがない。編集は数ヶ月かかる。それを1ヶ月しか経っていないのに、9割の編集が終わると思ったららしい。もし、「編集には時間がかかる」ということを知っていれば、「1ヶ月に編集ができている」とは思わないし、「粗編集」の意味を知っていれば「本編集」ではないことが分かる。

でも、スポンサーを両方を知らず。さらに、「粗編集って通常の編集とが違うの?「という疑問も持たず。9割完成だ!と思い込んだのだ。聞いてみると誤解はさらに凄くて、

「9割分の映像には音楽やテロップ。ナレーションも入っていて、残り1割を嵌め込めば完成」

と思ったらしい。ということは残り1割を撮ったら、もう一度、音楽やテロップ。ナレーションを入れる作業をするために、再びスタジオを借りて、作業をすると思ったのか? 一度にやればそれなりの値段だが、あえて2回に分ければ値段は2倍になる。それは無駄というのも。さらに9割しかできていないものに、ナレーションや音楽を入れてどんな意味があるというのか?

聞いてみると、そこまで考えなかったという。

9割撮影して、粗編集すれば、9割完成!と単純に思ったらしい。それで会長、社長、来賓を集めて..試写会。それもおかしい。9割しかできてないものを皆に見せてどうするのか? 映画で言えば、クライマックスの撮影が終わっていないものを社のトップや外部に見せるようなもの。料理なら、まだ食べられない。煮込んでいる途中のものを社長に試食させるのと同じ。

9割で会社の重役、外部の関係者に見せるという発想自体が理解できない。それ以前に大きな勘違いがある。ドキュメンタリーの場合。9割撮影が終わったから、編集という訳にはいかない。

あとの1割で何が撮れるか? 

どんな証言が得られるのか?分からない段階で、編集はできない。9割の段階で「この人の証言をクライマックスにしよう」と思っていても、残り1割でそれを超える感動的な証言が得られれば、それをクライマックスにする。

証言内容が重なれば、当初クライマックスに予定していた証言は全面カットということもあり得る。新しい素材が手に入ることで、全体の構成を変えなければならない事態もあり得る。だから、ドキュメンタリーの場合は全ての素材が揃ってから編集をする。

その前にとりあえず撮れた映像を企画時に考えた順番通りに並べてみようというのが「粗編集」なのだが、そこから先に説明した誤解が始まり、重鎮を集めた大々的な試写会まで計画してしまったのだ。

そもそも、ドキュメンタリー制作を理解していないことが問題。プラモデルで、9割を組み立てた。あと1割のパーツが手に入れば、それを組み込んで完成というのはあり得る。劇映画で9割撮影した。そこまでを編集し、残りを撮影してそこに入れ込む。これもまだ分かる。が、ドキュメンタリーとはそういうものではない。先に書いた通り。全ての素材を揃え、吟味して、まず、当初の予定のような構成でいけるか?考える。

当然、撮れなかったものもある。

この時は特に一番メインとなる方のインタビューが撮れなかった。だから、クライマックスを何にするか?どの証言を中心に編集するか?を考え直さなければならなかった。それを9割の段階で考えて編集しても、残り1割の映像次第で編集を1からやり直すこともあり得る。

取材が終わらない段階で9割分を編集するのは危険であり、無駄な時間を費やす可能性が高い。まして、その時は1ヶ月しか時間がなく、9割分の編集をし、音楽をつけて、ナレーションを入れているはずという想像は、制作サイドからして常識を超えたものだ。

なぜ、9割しかできていないものを、スタジオを借りて、音楽家に作曲。ナレーターにナレーションを入れてもらって、MAをする必要があるのか? 9割のお披露目をするのか? その発想が理解できない。何の意味があるのだろう? 業界の友人に話すと

「バカ過ぎて話にならない! 

 それは映像製作を知らないだけでなく、あまりにも常識がなさすぎる!」

と激怒していた。僕もいろんな業界の人と仕事をするが、そのスポンサーはずば抜けた勘違いがあった。担当者は間に立ち、頑張ってくれたから最後まで行けた。会社が映像製作を知らないのは分かる。が、常識的なことから説明せねばならないことも多く、腹わたが煮え返ることが何度もあった。

でも、そこから感じたこともある。人は自分のいる周りのことしか知らないし、知ろうとしない。勝手な想像で分かって気になる。聞きかじった情報を精査せずに信じてしまうのだ。

沖縄戦を勉強する前、僕自身もある意味で同じだった。全く知らないくせに「沖縄の人々は米軍に酷い目に遭わされた」と思い込んでいた。が、事実を調べると間違いではないが、その背景には日本政府の酷い方針があったこと。そして米軍だけではなく、日本軍にも人々は酷い目にあったことを知った。

基地問題も同じ。アメリカの傲慢さのために未だに基地がなくならず、新基地建設まで行われていると思っていた。が、そこに日本側の大きな思惑があり、実はアメリカより日本の一部の人たちのために基地が存続していることを知った。(これはいずれ詳しく書きます)それも知らず。

「アメリカ酷い」

と思っていた。人は知らないことを調べようともせずに、聞きかじった情報で思い込み。勝手な想像で理解した気になり怒ったり同情したり。そして問題が起こると「知らなかった。分からなかった。なぜ、教えてくれなかった!」というが、自分から調べ勉強しなかったことが原因とは思わない。

それが全ての原因なのだ。スポンサーも映像作品を作るのであれば、それなりの勉強は必要だし、勝手な想像をせず、ことあるごとに確認すべきなのだ。でも、それをしない。だからトラブル。

それは同時に日本人全体に言えること。

選挙前に「自民圧勝、確実」とニュースが流れれば「どうせ俺の1票なんて」と選挙に行かない。あの党に投票するのは毎回、全有権者の2割。たった2割だ。多くの人が勝手な思い込みで棄権することが、今の政府を間接的に支えているのだ。知ることの大切さ。知ろうとしないことの愚かさ。強く感じる。



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「明日にかける橋」DVD入荷されたようですが...? 在庫はあと5枚?! [「明日」DVD]

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「明日にかける橋」DVD入荷されたようですが...? 在庫はあと5枚?!

発売日に完売! 予約した方でも商品が届かないことにもなり、ご迷惑をかけましたDVDですが、その後、再プレスをして予約を頂いていた方に順次、発送しているようです。次々に「届きました!」との声。ホッとしていました。が、本日、amazonのサイトを見てみて驚き。再プレスしたにも関わらず、残りあと5枚となっています。

サイトには「入荷予定あり」とありますが、2回目の再プレスはされるかどうか? 僕は聞いていません。メーカー側が「これだけ売れたら、もう買う人はいないだろう」と判断すると、再プレスはされません。なので、もし、買いたい!という方はこの機会にぜひ。

いろいろ、すみません。再々プレスされること祈って!


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地方映画。劇場公開が終わった後は?イベント上映=それって何? [地方映画の力!]

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地方映画。劇場公開が終わった後は?イベント上映=それって何?

映画は撮影。編集。完成。宣伝。映画館公開と展開する。そのあとがDVD。これで終わりか?と思いがちだが、まだあとがある。イベント上映だ。いわゆる非劇場上映である。公民館やホールで映画を上映会をすること。

これは製作サイドが主催するのではなく、映画をレンタルする。子供会、婦人会、学校、老人ホーム、映画鑑賞会、***の会、町内会。といろんな団体が映画を借りて自分たちで上映するという形。映画館公開までは、配給会社が関わるが、ここからは映画を製作した団体が主となって映画の貸し出しをするわけだ。

通常は小さな会場の上映ならレンタル料は5万円くらい。大きな会場なら10万円くらい。昔はフィルムだったが、今はDVDやBDを貸し出す。

「え? それなら市販のDVDを自分で買って上映会すれば、レンタル料なしでできるね!」

と思う人もいるだろう。が、それは違法行為だ。DVDというのは個人で再生して楽しむためのもので、家族で見る。友達と見るというのはOKだが、不特定多数の人を呼んで見る場合は違法行為となる。作品の著作権は今も理解されずらいものがある。

物(DVD)に権利があるのではなく、作品(映画)に著作権というものがあり、それを上映するには、著作権者の承諾が必要なのだ。もちろん、映画にはいろんな権利者がいる。が、イベント上映に関しては、基本行うものなので、製作した団体が許可すればOK。他の著作権者の同意は必要ない。テレビ放送やネット配信、映画祭への出品はまた別だが、イベント上映は問題ない。

映画館まで行けないお年寄り。映画館公開時に見れなかった人。もう一度、大画面で見たい人。子供達。と、地元で撮影した映画を見たい人はどの町でも多くいる。そのためにもイベント上映は大きな意味があるのだが、故郷映画を作った多くの街はそれを行わない。映画館公開が終わると

「あーー終わったなあ」

と日常に帰ってしまう。もったいないことだ。あと、イベント上映のいい点は、宣伝があまり必要がないこと。映画館上映の場合。映画館は宣伝をしてくれない。それは製作サイドと配給会社がせねばならない。が、イベント上映の場合は、レンタルした側。学校や団体が生徒や会員に連絡して見るので宣伝が必要ない。宣伝費もいらない。

製作サイドにとっては、それで得たレンタル料をさらなる宣伝費にして、海外の映画祭に出すとか(審査料等が必要)、まだ上映していない地方の映画館での経費(ポスターやチラシを作らねばならない)に当てることが出来て、さらに映画を全国発信できる。昨年、劇場公開で大ヒットした「明日にかける橋」の実行委員会は、そんなイベント上映を計画していると聞く。

市内、県内だけでなく、いろんな団体から依頼が来ること楽しみ。「うちの街で映画を作りたい」というみなさんはぜひ、上映会をして市民が作った映画とはどんなものか?見る機会としてほしい。お問い合わせは「明日にかける橋」実行委員まで。Facebookで検索すればすぐに見つかる。そこにメール連絡を!



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地域社会に必要なのは文化、芸術に対する理解。それを武器にすること。=せっかくの故郷映画を活用できない街? [地方映画の力!]

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地域社会に必要なのは文化、芸術に対する理解。それを武器にすること。=せっかくの故郷映画を活用できない街?

先日、「明日にかける橋」実行委員の方から連絡があり、今後の展開についての報告と相談があった。これはとても嬉しいこと。というのは、地方映画。完成してから活用できてないことが多い。映画館上映が終わったら、何もせず日常に戻ってしまう。そこからが本番であり、地元の活用をすべきなのに? 何もしなくなる。その上、勘違いする人たちもいる。

「金出したのはワシらだ。あと映画をどうしようとワシの勝手だ!」

と製作会社、配給会社、監督らに相談も、連絡もなく、映画を勝手に利用してしまうことがある。確かに金は出しているが、出来上がった作品というのは著作物なので、金を出したからと好き勝手することはできない。

例えば、映画の1場面を切り出してCMに使ったりはダメ。俳優の肖像権があり、映画ーということで契約、出演してもらっている。それをCMに使うなら別途、契約とギャランティが必要。その他の権利者の承諾も必要。再編集して上映もダメ。

著作物は勝手に改変してはいけない。これは法律で決められている。また、物語のキャラクターをイラストにして、グッズを作るのも同じ。元となった俳優。脚本家の許諾が必要。前にも書いたが、

「映画を見て感動したから、歌を作りました!」

と映画のタイトルを使って「イメージソング」と言って人前で歌うのも違法行為だ。便乗商法と言われても仕方ない。同じく絵本を作る。ノベライズを出す。全て同じ。

でも、一般の方はその辺を知らない人が多く、金を出したのだから「ワシらのものだ!」と思ってしまう。よく考えると、違うことはすぐに分かる。地方映画の場合は、寄付や自治体の予算で作られることが多い。営利目的ではないし、故郷のための活動。だからこそ、多くの映画スタッフや俳優は大企業の映画よりずっと安いギャランティで参加する。

それは値段を下げたというより、市民と同じく映画に対して寄付をしたのと同じ。通常100万のギャラを取るスタッフが、60万で参加した。これは40万円寄付したのと同じだ。それでその人がいつもの6割に力しか出さないか?というと、全力で仕事をする。キャストも同じ。それによって、最低でも1億円かかる映画製作をその半額以下で地方映画は作る。それを考えず。

「ワシらが金出した! 映画を撮らせてやった!」「お前らに金をやった!」

といって来る勘違いない人も時々いる。極々一部とは言え、後になりそんなことをいう市民の声をスタッフ&キャストには聞かせたくない。問題はあるが、その人たちも悪人ではなく、あまりにも映画製作というものを分かっていないこと。不勉強なのが原因。

なぜ、映画を作るというのに、勉強しないのか? 聞きかじった情報やデマを振り回して、反論したり、権利を主張する。そんなタイプが後で「監督。ギャラ取るんですか? 失望しました」と言ってくる。地方映画というのは市民の熱い思い。それを応援するスタッフ、キャスト。その3者の力で作り上げた血と汗の結晶が映画なのだ。

共同作品。もちろん、主なる権利は地元にあるが、細かく言えば、それぞれに権利があるので、市民だけの判断で映画を無断で活用することができない。それこそ、度を超えた乱用をする場合は、権利者たちは使用禁止を申し立てることもできる。が、もともと、それぞれの熱い思いで作った作品であることを考えれば、そんなトラブルにはならないはず。

逆もある。市民、スタッフ、キャストの強い思いで映画を完成しながら、劇場公開が終わると地元が何もせず、日常に戻り、映画を活用しないことが多い。撮影には喜んで参加するが、宣伝はしない。映画館には観客気分で行く。上映が終われば、何もしない。なぜ、地元のために作った映画なのに、それを活用しないのか? でも、似たような話は多い。

「我が村に美術館を作ろう!」「コンサートホールを作ろう!」

街の活性化、子供達への芸術、文化教育のため。署名を集め、寄付を集めがんばる。完成披露は盛大。でも、あとは何もせず、客はほとんど来ない。宣伝もしない。場内はガラガラ。莫大な維持費用だけが市民にのしかかる。そんな街は全国にある。同じように、せっかく作った映画を活用できない自治体や団体も多い。

「文化を理解できていない地域社会」

というものが背景にあるのだろう。お祭りは好きだが、活用、運用の仕方が分からない。そのための勉強もせず、知識もない。そのくせ、やってはいけないことをやって、関係者の顰蹙を買う。それはらギャラを超えて参加したスタッフ、キャストへの裏切りであり。何より、寄付、協力してくれた多くの市民を裏切ることではないか?

そんな中、今回の「明日にかける橋」メンバーは今も会合を続け、映画の活用を考え、行動している。いろんな相談も受ける。本当に凄い。「どうすれば映画を使って街をPRできるか?」「街を伝えることができるか?」「子供たちに故郷の素晴らしさを伝えられるか?」その奮闘を続けている。参加した映画人たちもそれを聞き喜んでいる。いろんな展開、楽しみだ。


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悲しみを表現するにはどうするか?俳優、作家、音楽家、映画監督、それぞれに模索する。才能ではない。努力? [映画業界物語]

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悲しみを表現するにはどうするか?俳優、作家、音楽家、映画監督、それぞれに模索する。才能ではない。努力?

表現者はどの分野でも共通するものがあること。ときどき感じる。作家が文章で悲しみを伝えるにはどうすればいいか?考える。俳優がどうすれば悲しさを表現できるか?思案する。映画監督がどうすれば悲しみを理解してもらえるか? 葛藤する。

表現法が違えど、皆、同じだ。例えば俳優が悲しみを表現するとき、涙を流す。観客は「ああ、悲しいんだろうなあ」と思う。でも、画面で俳優が号泣していても、観客には全然伝わらないことも多い。逆に一緒になって泣いてしまうこともある。その違いこそ、俳優の力量なのだ。

「明日にかける橋」DVDに収録してあるメイキングで、藤田朋子さんが新人の越後はる香さんにアドバイスする場面があるが、葬儀で涙する越後。我慢して我慢して最後に泣く。という助言している。いきなり泣くより、その方が気持ちが伝わるというのだ。実際、映画館でその場面を見ると、藤田さんの指摘通り。越後と一緒に観客は涙していた。

藤田さんが日頃から、悲しみをどう表現すれば観客に伝わるか? 登場人物の気持ちが伝わるか?を考えているのだ。同じ手法でもダメなこともある。状況や設定も関係する。その中でベストな手は?と俳優は常に考えている。実践する。また、同じ手法でもこの俳優ならいいが、あの俳優なら違うということもある。

つまり、自分を知らないといけない。容姿、声質、技量、自分の能力を知る。それには何度も演じることが大事。何度も繰り返すことで、この演技は受けた。でも、この芝居はダメだった。と分かってくる。
その繰り返しで俳優は演技力を養っていく。

その意味では劇団をやっている人は、公演中に10回20回と同じ役を演じる。客の反応を知ることができる。「昨日は受けたのに。今日はダメだった」そうやって問題点は何か?を考える。それが勉強になる。これでいつもいう「才能なんてない」という意味も分かってもらえるだろう。

いきなり舞台に立ち。「素晴らしい!演技だ」と言われることなんてない。先に書いたようなプロセスで、自分の特徴を知り、表現力を磨いてこそ、観客を感動させる俳優に成長するのだ。ときどき「俺はいきなり主役ができる力がある」とか超勘違いしている新人がいるが、演技は楽器を弾くのと同じ。どんな天才でもいきなりピアノは弾けない。演技も同じだ。

監督業も同じ。どんな演出をすれば、その役者の魅力が引き出せるか? どんな編集をすれば観客が退屈せずに見てくれるか? それらも才能ではなく、技術。でも、その技術も、誰が使っても同じ結果が出るとは限らない。基本的な手法はあるが、それを応用し、組み合わせて悲しみや感動を生み出すのが監督業。真似できない表現を見つけ出し、実践することが大事。

それも俳優業と同じ。その昔、若い俳優で松田優作の真似をした芝居をする者がそこそこいたが、誰もブレイクしていない。あれば松田優作だからいいのであって、それを真似てもモノマネでしかない。ただ、最初は真似ることでいい。松田優作も実は原田芳雄のスタイルを真似るところからスタートしたらしい。そこから自分らしさを見つけたのだ。そうやって表現法を探す。どの分野も共通する。


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お客様は神様です!ーでは済まない時代。矢沢永吉の決断は正しい。 [映画業界物語]

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お客様は神様です!ーでは済まない時代。矢沢永吉の決断を考える?

矢沢永吉が特定のファンをコンサート出入り禁止措置を発表した。でも、昔から「お客様は神様」と言われる。そんなことしていいの?と思う人もいるだろう。でも、映画製作をしていると、矢沢の気持ちが、とてもよく分かる。まず、そのニュースを紹介しょう。 (J-CASTニュース、ORICON NEWSより)

矢沢永吉さん(69)の公式サイトが、迷惑なファンの一人を「コンサートへの一切の出入り禁止やファンクラブの強制脱会等の措置を取らせていただきました」と発表。その理由を「私設応援団を名乗る一部の集団が威圧や強要、一部のファンの飲酒による周囲への迷惑行為」が後を絶たないためと説明

矢沢永吉の目指す『どなたでも来場しやすいコンサート』への長きに渡る取り組みに対する妨害行為と判断せざるを得ない内容」といい、「これを看過することは、矢沢永吉の方針を自ら否定することにもなりかねません」

今後、A氏は「コンサートへの一切の出入り禁止やファンクラブの強制脱会等の措置を取らせていただきました」と報告。2019年1月21日の発表によれば、この人物は私設応援団の総会長をつとめている。だが、公式では私設応援団の結成は認めていない。(ニュース記事より)

上の記事を読めば「当然だよ!」と思えるかもしれない。が、芸能界では「お客様は神様です」という思いもあり、なかなかファンに厳しく言えない。逆恨みしてデマを言い触れ回る人もいる。こんなツイート見たことはないだろうか?

「今、人気の若手女優A子。この間、街で見かけたので手を振ったら、無視された。いい子だと思ったのに幻滅。二度と応援しない。ドラマも見ない!」

この手の人は本当によくいる。そもそもなぜ、道で知らない人が手を振ったら、それに応えなければならないのか? 「サイン頼んだら断られた」とかいう話もよく聞く。それもイベントでもないのに、道で頼まれてサインする必要はない。それにサインすることで、他の人が気づき、多数の人が集まって混乱ということもある。サインしてはいけない場合もある。

しかし、ファンの多くは「あの人は絶対に応えてくれる」「いい人だし、ファンを大切にしている」という思い込みがある。手を振らないだけで幻滅され、その後、ツイッターであれこれ悪口を書きまくる人もいる。人気商売。それは困るので、手を振り返す。嫌でもサインするという芸能人も多い。そこに矢沢が一石を投じる。

記事を読むと確かに酷い話と思え、矢沢の決断は支持できる。実際、僕もコンサートには何度も行っている。昔は本当に凄かった。暴走族の集会か!と思うような客が多かった。それが最近ではその手は激減しているように感じていたのだが、主催者側から見ると、まだまだ問題ある客がいるということだ。昨年のコンサートが矢沢の誕生日に当たった。ファンの一人が

「会場で『ハッピーバースデー』をみんなで歌い、クラッカーを鳴らして永ちゃんのお祝いしよう!」

とツイートした。それに賛同したファンが次々にリツート。それを読み「ファンに愛されているんだなあ」会場でファンから「ハッピーバースデー」を歌われると矢沢も嬉しいだろうなあと考えた人もいるだろう。そのあと、主催者側からやめてほしいとの発表。コンサート演出に支障が出て、他のお客に迷惑というのだ。

「えー、せっかくのファンの思いをー」

と思う人もいるだろう。が、違う。コンサートは矢沢の歌を聴く場であり、そのために演出があり、構成がある。それを客が勝手に途中で歌い出す。コンサートが中断してしまう。この曲が来て、あの曲が来て、トークなしで、ヒット曲!と続くから盛り上がる。それを突然に客が歌い出すのはどう?

ファンの集いではなく、コンサートだ。矢沢のファンだけでなく、音楽を聞きに来る客もいる。それを一部のファンが「おめでとう」の場にするのはおかしな話。でも、ファンからすると「永ちゃんにお祝いを伝えたい!」という熱い思い。「みんなで祝福したい」と思うのも分かる。が、それがコンサートの妨害行為になっている。

そんな背景もあり、迷惑ファン出入り禁止ということにも繋がってのだろう。とても、よく分かる話だ。映画を作っていても、応援してくれる人が多い。本当にありがたい。でも、中には暴走して、やってはいけないことをやってしまう人もいる。例えば、

「監督の映画に感動したので歌を作りました! それを毎週、喫茶店で歌っています。***のイメージソングと説明して歌います。応援になると嬉しいです」

これも先に「ハッピバースデー」と同じ。応援してくれる気持ちは嬉しいが、違法行為だ。便乗商法になってしまう。映画という商品を無断で使い、そのイメージソングだと言って歌う。著作権法違反でもある。「これはトトロのイメージソングです」と勝手に歌を作るのと同じ。ジブリに告訴されても仕方ない。

悪意はない。それでも、その歌に感動がないと「きっと映画もそんな感じなのね!」と思う人もいるだろう。素人の歌だと、「映画も素人の作品」と思うかも。応援にならない。それをスポンサーや関係者が聞けば

「え? イメージソングなんてあったの?」「誰が許可したの?」

と揉めるだろう。一部の矢沢ファンと同じ。応援のつもりで、いろんな人に迷惑をかけている。悪意がないので厳しく注意はできない。やんわり言っても分かってもらえない。厳しくいうと逆ギレして

「じゃあ、もう応援しない!」

になり、熱い想いがある人ほど傷ついてしまう。応援が迷惑になっていること伝えるのは難しい。慎重に対応する必要がある。

と言って、映画製作の場合。スタッフにそんな係がいる訳でもなく、時間も余裕もない。何より好意で応援してくれているので、あれこれ言わずにおきたい。矢沢にもそんな思いがあったはずだ。でも、そんな暴走ファンのために新しいファンがコンサートに来れない。迷惑する。と考えた時、長くライブをやるには、決断をせねば!と考えたのだ。

芸能人ばかりではない。政治家も同じ。自分を支持してくれる人。でも、その人が他の支援者に迷惑をかける。出入り禁止にしたい。けど、その人が激昂して、あることないこと言い触れ回るかもしれない。アーティストも同じ。皆、それによる反動。批判。ファン離れを心配してしまう。本当に難しい。

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新しい時代で一番、苦労するのは今の40代男性か? 思い出すあの言葉? [my opinion]

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新しい時代で一番、苦労するのは今の40代男性か? 思い出すあの言葉?

10代の頃。「大人は信用できない!」と思っていた。トリフォーの映画は「大人は判ってくれない」だったが、それに近い思いがあった。そんなこともあり監督作「向日葵の丘」では主人公の常盤貴子さんの部屋に、その映画のポスターを貼った。

当時、大人はこう言っていた。「最近の若者はダメだ!」ダメな大人に限ってそう言う。僕は大人になっても、その台詞だけは言わないでおこうと密かに誓った。それが僕らの世代が20代後半に差し掛かると、友人がこんなことを言うようになった。

「最近の若い奴はダメだ...」

同じだろーーー。彼の言葉を分析すると、「今の奴は軟弱、主張がない、日和見主義、長いものに巻かれる、やる気がない」等々。しかし、それらは僕らの時代にも言われたし、友人自身がそれそのものだった。

「俺たちは違ったよ!あんなじゃなかった!」

でも、彼との付き合いは長い。同じだ。ただ、僕らの頃に比べてより、今の若者はその体質がより強くはなっている。それでもダメな大人より若い奴の方が可能性がある。新しいものを受け入れる。大人は過去にこだわり、古い価値観を振り回し、プライドばかり高い。

そう。僕が大人を信用できなかった理由はそこにあったこと。大人になって気づいた。それから何年か経ち。若い人たちと仕事して、思った。

「最近の若い奴はダメだ!」

ヤバイ。友人と同じだ。この台詞は言わないことにしていたのに!いや待て。考えた。仕事をしたメンバー。バカが多い。なぜ、バカなのか? 頭が悪いと言うことではない。なのになぜ、バカになったのか? 考えた。答えは簡単だった。

僕ももう50代。僕から見て若い奴でも40代だったりする。結婚もして子供もいる。脳が老化。過去にこだわり、古い価値観を振り回し、詰まらないプライドを大切にしている。そう。僕が10代の時に「信用できない」と思った大人そのもの。僕よりは若いが当時、大嫌いだった大人たちと同じ。

つまり、当時10代の僕が嫌った大人も多分40代くらいだったのだ。それを下の世代である僕が見て「大人」と思った。今は50代。40代を見て「若い奴」と思った。でも、どちらも40代なのだ。そして40代の男性に多いのが先の状態。

「過去にこだわり、古い価値観を振り回し、詰まらないプライドを大切にしている」

なるほど、これは歳を取り、脳が老化することで起こる現象なのだ。違うのは、僕らが子供の頃はまだ「好きなことをしたい! 夢を追いたい!」と言う子供が結構いた。僕は今もそれを続けているので、若い人たちにも「夢を追え」という。が、最近はこう言われる。

「その夢が見つからないんだよ!」

本人のせいではない。より管理教育が進み。考える力を奪われているので、夢を探すことさえできないのだ。自分がやりたいことも分からない。中には

「正社員になることが夢です...」

と言う寂しい奴もいる。戦うこともしない。仕事の手抜きしか考えない。そんな若者が40代になり、老化が始まる。僕らの世代(結構、老化が酷い)以上に酷い状態になるような気がする。特に男性が顕著だ。

と言うのは今、時代は激変しようとしている。過去の価値観は覆り、以前の経験は何の役にも立たなくなる。そんな時代に「過去にこだわり、古い価値観を振り回し、詰まらないプライドを大切にしている」そして夢見ることすらできない。

そんな大人は本物の粗大ゴミになるしかないだろう。女性は40代でもしたたかに生きているが、大人の男性の運命はそちらに向いている。いや、人の心配をする前に自身の心配をしよう。amazonプライムとFINAL CUT Xで、新しい時代を学ぶことから始めてはいる?


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「監督はギャラ取るんですか?失望しました....」という地元市民。その背景を考えて分かった人の心理? [映画業界物語]

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「監督はギャラ取るんですか?失望しました....」という地元市民。その背景を考えて分かった人の心理?

地方映画を作ると、完成してからこう言われることがある。

「監督。ギャラを取るんですか? 失望しました!そんな人だったんですね....」

そう、なじられたことがある。どの街でも数人はいる。???と思う人が多いだろう。僕は映画監督という仕事をしている。映画を作ることでお金を頂き、生活をしている。職業だ。当然、監督料を戴く。と言っても、その額をいうと多くが驚くだろう。もちろん安すぎて!でも仕事なので貰う。それより無事に映画を完成させ、地元の人に喜んでもらえることが嬉しい。でも、そんなことを言う人がいた。

そんなお1人。彼は50代男性。会社経営者。地域活動をしている。顔も広い。性別に関わらず、そんなことを言うのは年配の人。年若い経験が少ない人ではない。地方映画というのはその街をアピールするための映画。町おこし映画だ。

街で寄付を集め、時には自治体が資金を出し、プロの映画スタッフを雇って製作する。が、企業映画のような十分な予算は集まらないので、街の人たちがボランティアでお手伝いすることが多い。雇ったプロには当然人件費を出す。

それを先の人たちは「なぜ、監督はギャラを取るのか?」と怒る。が、「カメラマンはギャラを取るのか?」「俳優には金を払うのか?」という声は出ない。監督だけなのだ。一般的に映画製作では「監督が一番大変」と言われる(本当は皆大変!)その一番大変な仕事をした人がギャラを取ることを批判するのはなぜか?

その話を第三者にすると「理解できない!」「おかしいんじゃない?その人たち」と言われる。僕は何度も経験しているので空気として、背景は分かるが、いい大人がなぜ、そんなことを言い出すのか? そのメカニズムが分らなかったが、長年考えてピッタリな例を思い出した。

アメリカ留学時代。僕はLAに6年住んでいた。最初に渡米したとき、お世話になった日本人がいた。英語も全くできなかったので日本人が現地にいたことありがたかった。ある方の友人で僕は面識がない。渡米初日に訪ねた。が、その人はあまりフレンドリーではなかった。アメリカに長く住むのでそうなのか? 最低限のことはやってくれたが、それ以上はしない。それでもありがたかったが、何か引っかかるものがあった。

その後、僕は大学の映画科に合格。英語もある程度できるようになり、中古車も買った。そんな頃から僕を頼って遊びに来た友人が何人もいる。当時、彼らは大学生。友人たちの希望でユニバーサル・スタジオやディズニーランドに行く。有名なレストランで食事する。僕が運転。街を案内し、通訳もする。彼らは喜んで帰ったが、僕は出血赤字サービスでその月は金欠。

アミューズメント・パークの入場料はかなり高く、彼らが行きたがった有名レストランも高価。ガソリン代もいる。何日も彼らに付き合うとかなりの出費。通常生活費の3倍4倍。貧乏な大学生生活。おまけに当時はまだ円が安かった。それでも友人が来てくれたことは嬉しく、いちいち文句は言わなかった。それが長年の友人が来た時、こう言った。

「大学生活で大変だろうから、食事代や入場料は僕が出すから!運転もしてもらうし、通訳や案内もしてもらう。ガイド料にしては安いけど、そのくらいはしないと!」

え?と思った。考えると、なぜ、何度も行ったディズニーランドやユニバーサルスタジオに自腹で行かねばならなかったのか? なぜ、行きたくもない高級レストランで食事せねばならなかったのか? 運転して案内して通訳して、友達だからと思ったが、多くの友人は「じゃあ、また!」と行って帰って行った。その話を先のお世話になった日本人に話すと、こう言われた。

「そうなんだ。彼らはアメリカに来ているのに友人と会うと日本にいる時と同じ気分になってしまう。一緒に旅行していると勘違いする。こちらが付き合いでディズニーランドに行っていることを忘れる。その内に友達の友達というのが訪ねてくる。同じことの繰り返し。何度も自腹でディズニーランドに行った。それを指摘すると揉める。ある時に一線を引いた。それ以上はしないと」

僕の友人たちも同じ。一緒に旅行していると思い込んでいた。「だから割り勘が当然」と思う。東京ならそれでいい。でも、LA。おまけにDランドも、Uスタジオも僕はすでに何度も行っている。なのに高い入場料を払って同行。気遣いをしてくれたのは数人だけ。ほとんどが友達と旅行しているモードになっていた。

地方映画も同じなのだ。監督は撮影前から、それこそ1年前から地元に通う。その内に仲良くなる。友達モードが育つ。一生懸命やるほどに「この人は地元愛があるんだな」と思われる。僕のモットーは「まず、地元を好きになること」そうやって、誤解が始まる。

「この監督は金のためではなく、地元を愛してくれている。だからこの街で映画を作るんだ。俺たちと思いは同じだ!」

映画は完成。ギャラを請求する。

「なんで? 金を欲しがるんだ? 街を愛しているのは嘘だったんだ。騙された!」

先の観光旅行の友人たちと同じ。「友人とLA旅行をしている」=「だから割り勘」「地元のために映画を作っている」=「だから、双方ギャラなし」と認識してしまったのだ。どちらも考えれば分かることなのだが、気づかない。その地元の人は特別ではない。同じことを友人たちがLA時代にしている。そこで以前にも書いたが、先輩に言われたこと。

「お前は一生懸命やりすぎるんだよ。だから、誤解される。金のためじゃないと思われる。少しは面倒臭そうな態度を取るとか、距離を置くとか、仲良くしちゃいけないんだよ。結局、バカを見るのはお前なんだからな!」

先輩の言うことは正解な部分もあり、明らかに間違っている部分もある。でも、考えねばならないことだ。悪意はないのに人は勘違いし、人を非難し、自らを貶めてしまう。人とは一体どういう生き物なのか? 考えてしまう。



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尊敬する人が変わってしまう悲しみ?=人はなぜ堕ちてしまうのか。 [映画業界物語]

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ドラマの「太閤記」で豊臣秀吉の後半人生が描かれない理由と、尊敬する人が変わってしまう悲しみ?

小学生の頃。大河ドラマ等の戦国時代ものを見ていて感じていたのは、なぜ、豊臣秀吉の人生後半が描かれることが少ないのか? 「国盗物語」(秀吉は火野正平)では本能寺の変、山崎の戦い辺りまで。「新書太閤記」(山口崇主演)でも「青春太閤記」(なべおさみ)でも、本能寺の変以前で終わる。不満で司馬遼太郎の小説や漫画の歴史ものを読み漁った。

ドラマで終わったあとの秀吉は、明智光秀を山崎で倒し、柴田勝家にも賤が岳で勝利。順調に勝ち進み、天下統一してからは何とも、おかしな人になっていくことを知る。利休を殺したり、秀頼を溺愛したり、朝鮮出兵、と、農民出身で庶民の気持ちが分かるはずの人が、庶民を苦しめる制度を進める。

もう、立身出世物語ではなくなり、悪の大王のような人生。前半とはかなり違う。それだけにドラマでは後半が描かれることがなかったのだろう。「スターウォーズ」で言えば、アナキンがダースベーダーになるような感じ? 

また、ドラマでは爽やかな二枚目俳優が秀吉演じていたが、後半の人生を同じ俳優が演じるには無理がある。あまりにも別人なのだ。その後半人生を描いたのが大河なら「独眼竜政宗」。秀吉は勝新太郎。怪物のような秀吉を演じ、新人だった渡辺謙の政宗を脅かす強烈な存在。実際の秀吉もこうだったのだろう。

なぜ、彼が変わってしまったのか? 富も名誉も手にすると人はあんな風になってしまうのか? いろいろ考えたが、人はあそこまで変わるものなのだろうか? そんなことを実感する経験がある。

もう20年ほど前の話だが、お世話になっていた方がいる。豪快というのがピッタリな男性で、。年齢は60代。僕は21歳。留学前からお世話になっていた。当時僕が「映画監督になりたい!」というと誰もが反対、批判した。

「無理だ。不可能だ。簡単なことではない。夢見ている歳か? お前才能あるのか?」

でも、その人はいう。

「やってみろ! ハリウッドで映画を撮ればいい!」

そう言ってくれた。留学後もお世話になり、ずっと応援してくれていた。鋭い人で、普通の人が言わないアドバイスをくれた。叱られもしたが、納得できるものだった。既成概念に囚われない。下らない風潮や世間に惑わされない。仕事でも高く評価されている人だった。

僕が帰国してから、その人は癌になり入院。手術した。かなり進行していたが、手術は成功。何度も見舞いに伺った。いつも強気なのに、流石に病室では元気が無かったが、とても喜んでくれた。経過は良く、日常生活には支障はないが、再発の恐れはあるとのこと。以前のような元気な姿は見られなくなった。

それからも何かあるたびにお訪ねしたが、次第に彼は変わって行った。以前のような鋭さが無くなる。いつも「なるほど!」という意見を言っていたのに、「それ違うんじゃないかな?」と思えることが増えた。やはり大きな病気をしたので、精神的にもダメージが大きく、感覚的にも鈍ってしまったのか?

その後、僕に対しても批判めいたことを言うようになる。当時まだ僕は監督デビューはできておらず、アルバイトをしながらシナリオを書き続けていた。そんな中、アドバイスをもらおうと訪ねたのだが、以前のような「なるほど!」と思える発言がなくなった。それどころかこんなことを言われた。

「ちょっと、やってみてダメだったら、諦めて田舎に帰って来ようと思ってんだろう?」

耳を疑った。もう、10年近い付き合い。僕が「ちょっとやってダメだったら諦める」そんな奴だと思っていたのか? アメリカで6年。帰国して2年。すでに8年。監督を目指して奮闘。それ以前の横浜時代を入れれば12年だ。そのことを知っているはずなのに、「ちょっとやってダメなら」と言うか? 同じ批判をする人は当時、多かった。でも、彼からそんな言葉を聞くのは辛かった。

しかし、なぜ「田舎に帰ってくる」になるのか? 実家は商売をしているわけでも無く、戻っても何もない。金持ちでもない。まして親は映画監督になるのを反対している。帰れば「やっぱりダメだったろう!」と言われるのは分かっている。そんな話も何度もしている。もし、万が一、監督になれなくても、東京で何か映像の仕事をするつもりだった。それも話している。なのになぜ「ダメなら田舎に帰る」と決めつけるのか?

病気でボケて誰かと勘違いしているのだろうか? でも、他でおかしな発言はない。体調が悪いのか? 別の時に訪ねても、おかしな批判をする。皮肉を言う。尊敬している人が、理解し、応援してくれていた人がそんな風になってしまい悲しい。僕が何かいけないことを言ったのか?何度も考えた。

そんな時、ある年配の女性に聞いた。その人の夫は豪快なビジネスマンだった。が、やはり大きな病で入院。命の危険を宣告されてから、変わったと言う。嫉妬深く、怒りっぽくなり、以前の頼もしさはなくなった。病気のせいだと思ったが、悲しく、やりきれなかったと言う。同じなのかもしれない。

その後、彼を訪ねることはなくなった。お会いする意味がなくなった。せめて訪ねたことを以前のように喜んでくれるのならいいが、迷惑そうに見えた。

数年後、亡くなったと聞いた。ガンが再発したと言う。やはり、変わってしまったのは病気のせいだったのだろう。命を脅かす病と闘うのは大変なことだ。そのせいで正確に物事を捉えられなくなり、おかしな意見を言ったり、ありもしないことで人を批判していたのだろう。

彼が死んで数年後、僕は監督デビューした。実家に帰ることもなかった。帰国してから16年経っていた。「ちょっとやってみてダメだったら」と言われたが、16年。それから14年、監督業を続けている。尊敬していた彼には理解も、期待もされてなかったということか?

人はなぜ変わるのだろう? 人はなぜズレて行くのだろう? 病気のせい? 加齢のせい? いろいろ理由や背景はあるだろう。でも、尊敬する人が、かつては応援し、理解してくれた人が、批判を始め、皮肉をいい、当て外れな意見を言うのを見るのは辛く、悲しい。秀吉の晩年も同じだったのだろうか? そんなことを考えてしまう...。



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