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昔「夢を諦める若者」今「夢が見つからない若い人?」 [my opinion]

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記事等で「夢を諦めてはいけない」と書くと、「現実は甘くない」と批判する奴が必ず出てくる。だが、夢を追いかけることは、人生にプラスになるということ。成功するかどうか?だけではない。それが近年、興味深い意見を聞く。「夢を諦めてはいけない」というと、こんな批判が来ることがある。若い人からである。

「その夢が見つからないんだよ! ムカつくなあ!」

その言葉の意味。分かるだろうか? 僕の時代には「夢なんてしょせん夢。現実を見ろ」と大人たちは言っていた。だから、将来の夢があっても、それを諦めるのが大人の考え方だと自分自身に言い聞かせたものだ。

だのに、今時の若い人たちは「夢が見つからない」という。これは僕らの世代とは違う。つまり、夢を見つけ、それに向かって真剣になってみたいという願望がある。だから「諦めるな」と言われると「その夢が見つからない」と腹立たしく思うようだ。

俳優になりたい!歌手になりたい!作家になりたい!レーサーになりたい! ボクサーになりたい! そんな夢がない。でも、何かに夢中になり、必死にがんばるという青春を送ってみたいという気持ちがある。では、なぜ、そんな夢が見つからないのか?考えてみた。

たぶん、彼らは真面目に教育を受け、おとなしいいい子として育つ。成績優秀でなくても、そこそこ勉強をし、暴走族になったり、ドラッグをやったりせず。いい子でいた。余暇ではテレビを見たり、漫画読んだりするが、クラブ活動に熱を入れたりしない。学業の邪魔になることはしない。

厳しい受験戦争を乗り越えて大学に入り、バイトをする。コンパをする。スキーに行く。海に行く。彼女を探す。時間はある。そこそこのお金もある。でも、特にやりたいことはない。そんなとき僕の記事を読んだ。「夢を諦めてはいけない」....何言ってんだ!その夢が見つからないんだよ!とムカつく。

そんな彼らの人生を見つめれば夢が見つからないのも分かる。勉強をする。邪魔になることはなるべくしない。クラブ活動もしない。しかし、勉強の邪魔になることこそが「夢」につながるのだ。邪魔になるというのは、そちらに熱を上げ時間を費やし、勉強に身が入らなくなるということ。

邪魔になることは排除してきた。小学生からずっと。それが大学生になり、時間ができた。そこから何かやれ!夢を追えと言われても、どうしていいか?分からない。でも、若い心の中に「何か夢中になれるものはないか?」「真剣に時間を忘れて没頭できることがしたい!」という思いがある。なのに。それが見つからない。

なのに、聞いたこともない映画監督が「夢を諦めるな!」という記事をネットに書いてる。「うるせーなー。その夢が見つからないんだよ!!!」ということなのだ。何度もそんなコメントを書き込まれたことがある。ただ、その種の声を僕が若いころにはほとんど聞かなかった。先にも書いた通り「夢なんてしょせん夢」「諦めるのが大人の考え方」というのが当時の若者の考え方。

映画が好きでも、ロックが好きでも、そこそこにして、ましてプロを目指そう、将来そんな仕事に就きたいと思っても自制して、勉強に身を入れる。同級生の多くがそんな感じだった。大学生になっても、バイトと、コンパ。スキーに旅行。ただ、同級生たちと話すと「本当はギターリストになりたかった」「小説家を目指していた」という。でも、夢を諦めた。それが今の若い人は諦める以前に夢が見つからないという。

確かに勉強の邪魔になると思い、避けていては夢は見つからない。夢以前に自分がしたいことは何なのか?も分からない。なら、僕らの時代はなぜ、それを見つけることができたのか? むしろ、そちらが疑問に思えてくる。大学時代にバンドしていた奴がいる。小説を書いていた奴もいる。彼らを思い出してみると、高校時代からそれが好きで、いつか自分もステージで! 本屋の店頭に著書を並べたい!そんな夢をみるようになった。

今の子たちはどうか? たぶん、自分で何かを始める前に自分で自分を止めるのではないか? 「ギターを弾きたい。でも、勉強の邪魔になる。やめておこう」「ミステリーが好きだ。自分でも書いてみたい。でも、やめておこう」僕らの時代に比べて自己制御機能が強くなっているのではないか? だから、何かをしたい!という気持ちを抑えてずっと生活する。大学に入り、時間ができた。でも、何をしていいか分からない。無名監督の記事が目に入る「夢を諦めるな」うるせーー!

僕らの時代以上に教育と学校。さらには社会が個人を押さえつけ、誰かが注意しなくても、ルールを作らなくても、個人の欲求を抑え、夢を追いかけたりしないで、まじめに勉強をする環境が出来上がっているのだ。おとなしく勉強さえすれば、安定した人生が送れるという思いに縛られてしまうのだろう。誰もそんなことを保証しているわけではなく、会社の終身雇用制は崩れ、正社員にさえなれない時代なのに、若い人たちは過去の価値観に縛られたまま、20代を迎える。

そこまで来て初めて「こんな人生でいいのか?」「どうせ厳しい社会なんだから、本当に好きなことをやりたい」そこで気づく。「俺には追いかける夢がない.....」僕らの時代は「夢はしょせん夢」と諦めた。今の若者は「その夢が見つからない」どちらが幸せなのか? どちらに可能性があるのか? いずれにしても、管理社会は想像以上に個人を束縛し、考え方をもコントロールしていることを痛感する。


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あなたは騙されていませんか?真実を見抜いていますか?  ー明日にかける橋に込めてメッセージのひとつ [my opinion]

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あなたは騙されていませんか?真実を見抜いていますか?
 ー明日にかける橋に込めてメッセージのひとつ

「明日にかける橋」にはいろんなテーマやメッセージを詰め込んである。「家族の絆」や「未来は変えられる」だけでなく、今の時代を走り抜く上で大切なことを盛り込んである。

例えば「あなたは騙されていませんか?」「真実はどこにあるか気づいていますか?」というのもある。少し前までの映画やドラマでは分かりやすい悪役が出てきて、それを正義感ある主人公が倒すみたいな物語が多かった。でも、現代は複雑で何が悪で何が正義か?分かりづらくなっている。また、ある情報を信じれば酷い話に思えても、別の視点で見れば美談だったりもする。

真実は何か? 本当に悪いのは誰か? 誰に責任があるのか? あまりにも多様な情報が渦巻く現代でそれを見抜くことはむずかしい。コマーシャルを見て「安くて、美味しい食品!」と思えても、健康を害するものが入っていることがある。そもそも、コマーシャルは商品を売るためのもの。都合の悪いことは言わない。そんな情報を鵜呑みにしてはいけない。

情報番組を見て「この食品。体にいいんだ!」と思う。「これはコマーシャルじゃなく、情報番組だから嘘は言わないはず」と考えがちだが、スポンサーがその種の食品を扱っているかもしれない。そこから話がきて局が取り上げたのなら、悪い部分を指摘はしない。

「テレビニュースが言っているんだから真実だよ!」という人も多い。しかし、ネットをやっている人ならすでにご存知。テレビも新聞も真実だけを伝えているわけではない。それぞれにスポンサーがいるわけで、それらの社に不利益なことを報道したりしない。特定の団体から抗議される可能性があることも伝えない。

では、ネットに真実があるのか? マスコミが伝えることのできない情報もネットなら流せる。ただ、嘘やデマも多い。事実誤認をいい触れ回る人たちもいる。そんな中で何を信じればいいのか? 政府も、企業も、マスコミも真実を隠し、嘘ばかり。そんな時代に大切なのは、真実を見抜く力だ。それを養うこと。

「明日」でも、金持ちの言葉を鵜呑みにした市民たちが犯人探しに奔走。事実誤認の情報を信じて、無実の主人公を犯人と疑い追い詰める。町の人たちは正義のため、犯罪を止めるため!と思っているが、実際は弟を救おうとしている主人公の邪魔をしているだけ。なのに悪意はない、善良な市民が幼い子供が殺されるかもしれないのに、それを救おうとしている主人公の邪魔を続ける。

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昔のドラマなら主人公の邪魔をするのは悪の組織だったり、宇宙人だったり、ヤクザだったりするのだが、今、一番恐ろしいのは間違った情報に振り回される市民。悪意がなく、自分は正しい、世のため人のため!と思いながら真逆な行動をしていることに気づかない人々。物語ではそんなふうに市民を誘導するのが金持ちのあの男。本来、漏らすべきではない話を同情している振りをして市民に伝えてしまう。

それに気づかず人々は情報を拡散し、間違った方向に進み始める。その構図は物語後半で登場する宝田明さん演じる尾形社長の言葉にもダブる。「結局、儲かるのは一部の人たちと金持ちだけ」戦時中もバブル時代も現代も、同じ。いつの時代も普通の人たちが騙され誘導されて来たのだ。

「あの人は悪代官のようだし、金権体質だから信じられない」と思っても、それは対抗勢力の流した嘘だということもよくある。特にマスコミの報道を鵜呑みにする人は危険。真実は何か? 裏に何があるのか? それを見抜く目を養ってこそ。未来を変えることができる。そんなメッセージも「明日にかける橋」には込めている。


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日本はなぜ、いつまでも不況から脱出できないのか? その背景にあるのは時代遅れの教育?! [my opinion]

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日本はなぜ、いつまでも不況から脱出できないのか? その背景にあるのは時代遅れの教育?!

[新月]日本はなぜ、いつまでも不況から脱出できないのか? その背景にあるのは時代遅れの教育?!

「あの人、頭いいよね!」っていう言い方をする人がいる。でも「頭がいい」ってどうやって判断するのだろう? 多くは高いレベルの教育を受けた人のことをいうようだ。昔から考えていたことだが、教育現場である学校では、良い成績を上げる者が優秀とされ、一流企業や国家公務員一種になり日本国を動かして行く。では、その日本の教育の中身とはどんなものか? 

その多くがよく言われる「詰め込み教育」だ。つまり、知識の詰め込み。「歴史」であれば「いつ、誰が何をしたか?」を覚える。「大化の改新」とはどんなものか? 「廃藩置県」とは何か?そんな知識をより多く覚えたものが優秀とされる。「英語」の場合は会話ができることではなく、より多くの単語や文法を覚えること。それに従って英文をいかに正確に訳することができるか?で優劣を付ける。

もう一つは「理解力」。「数学」では教えられる多くは公式を理解し、それを使い問題を解くこと。「現代文」では小説等を読み、内容を理解すること。ただ、この場合は自分の力で読解するというより、すでに用意されている「この小説のテーマ」や「表現の巧みさ」をそのまま覚えるという場合が多い。個性的な理解をしても間違いとされてしまう。つまり、与えられた解釈で理解する力である。

まとめると「覚える力」「理解する力」そして「与えられた方法論を実践する力」である。国語、数学、社会、英語、ほとんどの科目がそんな能力を育てる、というより計るためのものだ。では、それ以外の「力」はどうなのだろう? 例えば「想像力」物語を作り出す。新しいものを造る。新しい価値観を考え出す。そんな「想像力」はというと、それを育て、学び、延ばす科目はほどんどない。

では、推察力。ものごとのあり方。事実を見抜く力。様々な情報がある中で何が正しくて、何が間違っているか? 外から見える姿と実情とは違うことを鋭く推理する力はどうか?これも日本の教育にはほとんどない。「数学」でも「英語」でも与えられた公式や文法を使って問題を解くもの。何も与えられないで自由に考える科目はない。

本来なら「歴史」は「なぜ、坂本龍馬は暗殺されたのか?」「なぜ、明智光秀は信長を裏切ったのか?」等の謎を解く想像力と推察力が必要な科目だ。そこが歴史の楽しいところ。だが、日本の教育では何年に大政奉還は行なわれたか? 大政奉還とはどういうものか?と、ひたすら記憶することがメイン。「いかに多くの事実を覚えることができるか?」という記憶力を試す科目になっている。

分析力はどうか? 推察力と近いところはあるが、データや情報を集め、時間や月日の流れに沿って状態を把握する力。車の輸出台数。電化製品の売れ行き。或は人口の増減。ブームの推移。数字を上げて、流れを解析することで、経済や歴史等の流れも見えて来る。或は、「なぜ、今、***は人気なのか?」「なぜ、若者は旅行離れしているのか?」等も分析によって背景や答えを知ることができる。そんな「分析力」も学校教育では学ばない。社会や歴史でも、事実を上げるだけで、そこから見えて来るものを分析することはしない。その背景を探る授業はまずない。

こうして考えると日本の教育は「記憶する」「理解する」「与られたことを実践する」という3つを主としたものだと分かる。想像したり、推察したり、分析したりという「考える」という能力を育てるものがほとんどない。だが、こういう人もいるだろう。

「数学の公式を解くのだって、考えるよ?」

確かに何も考えずに問題は解けない。でも、それは与えられた公式を使って、それに従って解く訳であり、自分独自の発想や方法論で解く訳ではない。つまり「考える」というより「与えられた公式」を理解し、使うことができるか?という能力を試すものである。

何か変だ。本来、教育というのは子供たちが秘めた能力を延ばす。いろんな力を付けるためのものではないか? 英語力を付けることで海外の人とコミニュケーションができる。でも、10年も勉強するのに多くの日本人は会話ができない。想像力や分析力。或は洞察力。創造力。指導力。いろんな能力があるのに、先の3つが主となりほとんどの科目に組み込まれている。なぜ、その3つが圧倒的に優先され、他が見事に無視、おざなりにされているのか?

これは長年の疑問だったが、社会に出てよく分かった。日本の教育というのは「子供たちにいろんなことを学ばされる。力を延ばすため」のものではなく、日本の経済を成長させるための優秀なサラリーマンを育てるためのものだったからだ。なので、まず記憶力。与えられたことをより多く覚える能力が高いことがサラリーマンとしては大事。そして、与えられた指示通り動く人間を育てるために、余計なことを考えず、個性的な発想をせず、与えられた公式、文法通りに作業をする能力。

それは同時に会社で上からの指示に逆らわず、言われた通りのやり方で仕事をする優秀なサラリーマンになるということ。つまり、日本の教育で重用視されている「記憶力」「理解力」「与えられた方法で処理する能力の3つは、優秀なサラリーマンを育てることが目的。大企業や官庁ではそんな教育を受けた者で、成績のいいものを上から取れば、優秀なビジネスマンとなることが確約されるのである。

よく、お役所などで、高学歴で、出世しているのに、融通が効かず、規則一辺倒の人がいるが、職員が融通を効かせてはいけないのだ。決められたルールの中で、上からの指示を絶対に守ることが彼らの使命。そのために子供の頃から、教育では与えられたことしかさせない。そんな教育を10年近くも受けているのである。さらに言えば、自分で考えて判断しないことが役者や企業では重要。だからこそ、日本の教育には「考える」がない。むしろ勝手に考えてはいけない。

洞察力や想像力。分析力は余計なもの。例えば、その能力が優れた社員がいれば、上層部の決定に疑問を持つかもしれない。「それでは売り上げがダウンする」その社員は異議を申し立てる。上からすると面倒。余計なことをするな。正しいかどうかではなく、命令に従え。言われたこと以外はするな。それには「考える力」がない者が使いやすい。だから、考える力を教育では育てないのだろう。

そんな中で落ちこぼれと言われた人たち。成績が悪いと自己嫌悪に陥った人もいただろう。「私はダメ人間だ」と思ったかもしれない。だが、そうではない。優秀なサラリーマンになるための能力に多少欠けていただけ。実は他の優れた能力を秘めていたかもしれない。誰にも負けない能力があったかもしれない。が、日本の教育はそれを探し出し、延ばし、評価することはしない。教育がそんな子供たちにしたのは「落後者」という見えない焼き印を押すこと。考える力が育たなかった人たちは、教育の実態には気付かず「俺はダメな奴...」と思い込んでしまう。

思い出すのが戦時中の日本。国策としての戦争。それを反対する人たちを「非国民」と蔑んだ。同じく、国策として優秀なサラリーマンを育成する教育の中で、それに従わない子供たちを「落ちこぼれ」と蔑む。「太平洋戦争」も、現代の「受験戦争」も同じ構図。国民はそれに巻き込まれ、疑うことなく、自ら突き進んだのである。だが、現代の国策も高度成長期、バブル期まではよかった。大きな成果を上げた。経済大国にもなった。しかし、その後は20年にも及ぶ不況。なぜ、それを打破できないのか? こう言う人がいた。

「でも、企業や官庁のトップって頭のいい人たちでしょう? 何とかなるんじゃない?」

その「頭のいい人」というのは「記憶力がいい」人たちであり、洞察力や分析力がある人たちではないのだ。与えられたことを確実にこなすだけの人材。そんな人たちには混迷の時代を乗り越えることができない。多様化し、細分化された現代社会は様々な価値観があり、一筋縄では行かない。過去の方法論が通用しなくなっている。だから日本企業も官庁も対応できない。だからこそ20年も日本は苦しんでいる。それが「頭のいい人たち」の現実であり、日本式教育の結果である。

もし、企業や国のトップが新しい方法論を見つけ出し、指示すれば、与えられたことをするのは優秀な人材が問題を解決するのだろうが、トップもまた考える力がない。彼らの上にその昔いた人たちから与えられた仕事をしてきただけだからだ。過去の価値観に縛られ、決められた方法論でしか仕事をしていない人たちでは、新しい問題を解決する能力は持っていない。では、どうすればいいのか? 日本はどうすれば復活できるのか? 最近、教育関係で働く友人からこんな話を聞いた。

「来年度から文科省の教育方針が大きく変わる。これまでのように詰め込み主義の暗記中心の教育ではなく、考える力を育てることを中心とした内容にしていくらしいよ」

自分で考え行動できる人材を登用する重要性に気付いたのだ。そのためには教育を変え、そんな人材を育てるところから始めるしかない。だが、それには時間がかかる。そんな人材が育って来るまで、誰が日本を引っ張って行くのか? だから、日本は混乱している。その子たちが育ち、企業や官庁で中心的存在となるには何年待たねばならないのだろう? 10年、20年? その頃、僕らはもう生きていないかもしれない。

ただ、言えること。それまでの日本を支えるのは、優秀な成績を収めた優等生たちではなく、そんな教育からはみ出した個性的な人たちであろうということ。常識に囚われない。型破りな人たち。幕末の混乱期も同じ。エリート武士では対応できない。そこで下層武士だった勝海舟が注目され、やがて軍艦奉行に取り立てられる。同じように、現代もそんなタイプの人たちが日本を支えるしかない。新しい教育を受け、考える力を持った子供たちが大人になり、日本の舵を切るまでの間は....。


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時代からズレてしまった人々。その背景にあるもの?② [my opinion]

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時代からズレてしまった人々。その背景にあるもの?②

若い頃は流行の先端にいて、いつも音楽や映画。人気のテレビ番組を教えてくれた友人。40代になった頃から普通のおじさんになってしまった。彼はいう「鈍くなったんじゃない。流行に関心がなくなったんだ!」とはいいながら、歳を取ることで感受性が鈍くなり、新しい波をキャッチする感性のアンテナが錆びてしまったのだ。人のことを言えない。僕自身もそれを実感することが多い。

サラリーマンなら、今どきの流行やブームを知らなくても大きな問題にはならないが、映画やドラマの仕事をしている者には致命的だ。もちろん、流行を追う必要はない。が、世の中の動きや志向性を把握しないで作品作りをしても、ヒットする作品作りはできない。

別の言い方をすれば、帆船で航行しているのに、「風向きは関係ない」というようなものだ。風の吹く方向に行く必要はないが、風向きを知らずに航海することはできない。目的地にたどり着くことはむずかしい。趣味の世界ならそれでもいいが、仕事として作品を作るなら、作家でも、作詞家でも、脚本家でも、監督でも、音楽家でも、プロデュサーでも時代の風向きを感じる力が要求される。が、それが年齢と共に劣化。時代からズレてしまう。

業界の友人。彼は頭がよくセンスがいい。昔から困ったことがあると相談していた。毎回「なるほど!」という意見を聞かせてくれ、納得できる答えをくれた。ところが、ここ5年くらい。おかしい。相談しても首を捻る意見。アドバイスされることも納得できない。それだけではない。彼の仕事を見てもなぜ、この時代にそんな作品を書くのか?と思えるものが増えた。もちろん、作家は自分が書きたいものを書くべきだ。なのだが、誰が読むの?という感じ。時代からズレているということなのだろう。

若い頃。映画ファンだった時代。日本の映画会社が企画する多くの作品。時代錯誤と思えた。今の時代になぜ? タイトルだけで見たくない。素人だった僕は身の程知らずにもそんなことを感じていた。ま、僕だけではなく、同世代の映画ファンの多くはそう思っており、日本映画を観る者は極々一部で、多くはアメリカ映画を見ていた。のちに、時代錯誤の映画を企画していた人たちと仕事をすることがあった。やはり、ズレている。と痛感。洋高邦低と言われた時代を思い出させた。

しかし、彼らは決して悪人ではない。個人的な利益のみを求めた訳でもない。「いい映画を作ろう! ヒットする映画を作ろう!」と努力していた。が、結果として真逆のことにエネルギーを費やしていた。その背景が時代とズレていたということ。西風が吹けば、船は東に進む。なのに「今の時代は南だ!」という作品を作るので、船が前に進まない。つまり、世間に受け入れ辛い作品が出来上がる。

映画は芸術ではあるが、娯楽でもある。何より商売だ。多くの人が見たいと思う作品を作ることで、ヒットし、儲かり、映画会社は存続できる。マニアックな芸術派の映画監督が時代と逆行する作品を作るのはまだ分かるが、利益を求める会社が人々が求めない作品を作ってどうするのか? もう1歩進めていうなら、商業主義でない映画を作る作家であっても、時代の流れを知った上で作るのと、それを勘違いして作るのでは全然違う。

何より怖いのはズレていることに一番気付かないのは本人ということ。皆「俺は昔から変わらない!」「今の時代はこれだ!」と胸を張っていることが多い。それどころかまわりの人たちにも、自分の考えを押しつけ、時代の先端を走る人を「あれじゃダメなんだよな」と批判すること。これは作品作りだけでなく、商売でも同じだろう。製薬メーカーは世間が必要とする薬を作るし、自動車メーカーは人々が欲しがる車を作る。人々が必要とするのは、今の時代に合った価値観ある製品だ。映画もドラマも音楽も、それと同じ。

あれほどヒット作を連発して監督が、あるときから「アレ?」という作品を作り出す。同一人物とは思えない映画を監督する。それも時代からズレてしまったのが背景だと思える。泣ける。笑える。感動できる。怖い。どきどきする。涙が零れる。それらは時代の反映。昔の喜劇を見ても笑えないものがある。古い映画は感動できないことがある。もちろん、時代を超越した作品もあるが、多くは時代が反映されたものを多くの観客は支持する。

長々と書いたが、そんな「アレ?」と感じることが、ここ数年何度もあった。映画人だけではない。お世話になっている人。昔から鋭い友人。尊敬する先輩。これまで助けられた人たちなだけにショックを受けた。アドバイスが無意味。時代と逆行している。悪意がある訳ではない。つまり、ズレているのだ。ただ、もしかしたら、僕の方がズレてしまっているのかも? 正解かは分からないが、もし、これまで鋭いアドバイスをくれた人たちがズレてしまったとしたら...。理由を考える。

ひとつは加齢。皆、どんどん歳を取り、感性が鈍くなる。もう一つは時代のスピード。これまでになく速度を上げているということ。今までの価値観では対応できない時代に突入しつつあるということではないか? 世界を見ていても、ここしばらくなかった激変が続いている。トランプ大統領の登場。北朝鮮問題。ロシアの動向。ヨーロッパの状態。これまでのルールや価値観では前に進まない時代が訪れたと思える。

何より日本社会がそうだ。戦争をしない国が「戦争ができる国」になり、ブラック企業で死ぬまで働かされ、終身雇用どころか、正社員になれない社会。にも関わらず世の母親たちは、我が子に高学歴を求め、安定した生活を考え、受験戦争に今も送り込もうとしている。多くの子供たちは時代の変化を感じながらも、与えられたことをこなし、ゲーム機やスマホで現実逃避している。これもやはり時代からズレているということだ。

今、時代はどこへ行こうとしているのか? 価値観はどう変わって行くのか? つまり、金持ちになることが幸せという価値観はまだまだ続くのか? 家族との時間も持てず、深夜まで働くお父さんはまだ「それが家族のため」と信じて仕事しているのか? 様々なあり方が大きく変わろうとしているように思える。大切なことな何か? 古い価値観に縛られるのではなく、時代からズレた賢人たちのアドバイスに従うのでもなく、感性のアンテナを錆びないようにして、時代の流れを、時代の行く先を自分自身で感じることだと思える。では、そのために必要なことは何か? 答えを探し続ける。


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時代からズレてしまった人々。その背景にあるもの? [my opinion]

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時代からズレてしまった人々。その背景にあるもの?

10代の頃。「大人ってバカだなあ〜」と思っていた。しかし、大人の方がいろんな経験値があり、長年の教育を受け、社会に出て仕事をしている。そんな人たちの何がバカ?だと思ったのだろう? よくよく考えてみると、知識がないとか、計算が遅いとか、漢字が読めないということではなく、時代からズレていることを呆れていたのだと思える。若いので感覚的に捉えていたが、バカだと思えた大人たちは古い価値観を振り回す。無意味なことに拘る。肩書きに振り回される。てなことだったのだろう。

それは映画界で仕事をするようになってから、再度感じることになった。すでにハイビジョン時代にが到来していたにも関わらず、ベテランスタッフたちはフィルム時代の価値観や方法論こそが「映画作りだ!」と言い張り、無意味なことにこだわり、それを押し付けて来た。だが、それから12年。最近では僕が撮影隊の最年長であることが多く、ベテランは皆、引退したのでそんなケースはほとんどなくなったが、そんな先輩たちの下で長年仕事をしていた奴は、古い価値観を振り回すことがある。

坂本龍馬の有名なエピソードを思い出す。ある人が龍馬に会ったときに「これからは短刀の時代じゃ」といい長い刀を持ち歩かないと言われた。襲われたときにも長い刀では対抗できないという。その人は納得。次に龍馬に会ったときに「私も短刀にしました」というと「これからはこれぜよ!」とピストルを見せられた。そこでピストルを買い求め龍馬に見せに行くと、龍馬は「新しい時代はこれじゃ!」と本を見せられたという。武力ではなく知識が大切というのだ。事実かどうかは別にして、時代の価値観がどんどん変わって行くということ。それに対応しないと生き残れないということを伝えるエピソーだ。

同じように、映画界では過去の歴史であるフィルム時代のルールや方法論を振り回すベテランスタッフがいた。「お前は分かっていない。そんな映画の撮り方は間違っている!」とよく怒られたものだ。が、今はもう誰も、そんな古い方法論で撮影をしていない。同じく、10代の頃に出会った大人たちも、社会の古いルールを振り回して「一流大学へ行けば一生安泰」「だから、しっかり勉強しろ」「遊んでいたら将来苦労する」「大手の会社員になれば安定した生活を送れる」とか言っていたが、そんな価値観は21世紀に入り次々に崩壊している。

彼らが若い頃に教わったルール。或はその時代の価値観。それを大事にして成長し、大人になる。でも、時代は変わり、もはや機能しない。意味のないものになってしまう。にも関わらず次の世代にも教えようとする。それが大人の責任であり、子供たちが幸せになる道だと思い込んでいる。その上、歳を取り、頭が固くなり、時代が変わったことに気付かない。感性が錆び付いている。だから気付かない。

それを感受性の鋭い若い人が見ると「ズレてる」と感じる。古い時代のルールは知らないが、大人たちの振り回す方法論や価値観は、現代をビビットに感じている若者たちは疑問に感じてしまう。そういえば10代の頃。最新の流行に敏感だった友人も、40代を過ぎ。「今、何が流行っているのか?」が分からないという。「歳のせいだよ」というと「違う。流行を追うのに興味がなくなっただけだ」というが、感性が老化し、新しいものを受け入れる柔軟性をなくしてしまったのだ。

偉そうなことは言えない。昔は大人からあれこれ批判ばかりされていて、無茶な生き方をしていた僕も、感性は確実に老化しているに違いない。「この若い奴ダメだなあ…」と思っても、実は彼こそが正解で、僕がズレているのかもしれない。同じことを友人にいうと「いや俺たちが正しい。最近の若い奴が軟弱なんだよ!」という。しかし、同じことを僕らの上の世代も言っていた。歳を取るというのは新しい時代の波を感じる力を失って行くということ。知らず知らずに古い価値観に支配されるということなのだ。

昔は尊敬すべき先輩だった人も、数年前からズレ始めた。言ってることがおかしい。相談をしても昔のような鋭い意見を言ってくれない。それは違うんじゃないかな….と思える。先輩がボケてしまったのか?僕の方がズレてしまったのか? 分からないが、そんな友人や先輩たちを見ているのは辛いものだ。

今、時代は昔以上に早い速度で変わりつつある。これからの10年はかなりな激変があると思える。世界情勢を見るにつけ、政治状況を見るにつけ、過去の価値観や体制がどんどん崩壊している。その中で何を主張し、掲げるべきなのか? 探して行くこと。そんな新しい時代を生き抜くことのむずかしさ。ひしひしと感じている。


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文化芸術の活動には金がかかる?それを「営利主義」と批判する人たち? [my opinion]

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文化芸術の活動には金がかかる?それを「営利主義」と批判する人たち?

反戦歌を歌い続ロックシンガーのAさん。彼は東京を中心に活躍しているが、ときには地方でライブもする。1人でも多くの人に歌を聴いてもらい、戦争の悲惨さを訴えたいと仲間のミュージシャン3人と活動している。といっても有名ではない。生活はアルバイトで支え、ライブを行なってもほとんど赤字。でも、彼らの歌に感動。とある地方の有志グループのYさんがライブをしてほしいと手を上げた。まずは会場探し、田舎なのでライブハウスはない。公営の小さなホールを借りようと手続きに出かけた。が、そこで大きな壁にぶつかる。

レンタル料が2通りあった。入場料を取らないイベントだと3時間で5000円くらい。公営なのでとても安い。が、入場料を取ると5万円になる。担当者に聞くと「営利目的の場合は値段が高くなる」という。Yさんは困った。まず、今回のコンサートでAさんに来てもらうための費用がいる。といってもAさんはギャラなしでいいという。ただ、自分とメンバーの交通費、食費は出してほしいという。その町は東京からかなり遠い。メンバーは3人。Aさんを入れて4人。交通費が1人1万円だとしても、4人で4万。往復で8万円となる。さらに会場費が5万。13万円が必要になる。宣伝のためのチラシやチケットも作らなければならない。そう考えると16万くらいは必要。

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田舎なので動員は期待できない。50人来るかどうか? 高い入場料は取れない。1人2000円だとして、10万円。経費だけで16万。6万の赤字だ。これがもし、入場料を取らない場合のレンタル料だと5千円。だが、収入はなくなるので、16万の経費全てをYさんたちが負担することになる。いずれにしても、彼らは1円も儲からず、多額の出費をするだけになる。ホール担当者にお願いした。

「僕たちはボランティアでイベントをやっています。営利目的ではありません。バンドの人たちもギャラは取りません。ただ、東京から来てもらうので交通費が必要です。それは払いたい。素晴らしい歌を歌う人たちです。子供たちにその歌を通して戦争の悲惨さを伝えたいんです。彼らの交通費を捻出するために、入場料を取りたい。でも、そうするとホール料がバカ高くなる。何とか入場料を取らない価格で、貸してもらえませんか?」

担当者はこう答えた。

「それはできません。決りですから。入場料を取るということは営利目的です。それが規則です」

ーYさんは当時を振り返り言う。

「その規則。いや、そもそもの考え方がおかしい。そのホールを使いコンサートをする。儲けるためのイベントなら、高めの使用料というのも分かる。でも、結果して、儲かるどころか赤字になるのに入場料を取るという一点だけで、10倍もの使用料になってしまう。これでは趣味で演奏する人がタダで友達を呼んでコンサートをするしかない。別のいい方をするなら「入場料を取り儲けるならホール側も儲けたい!」と言っているよう。同じ広さのホールを高めの値段で貸し出し、借りた方は赤字。ホール側は黒字。それが公共のホールのやり方なのか?」

さらに、市民の一部からこんな批判も出て来た。

「入場料を取るのはおかしい」「営利主義でやっているのか?」「子供たちのためならタダで見せろ」

でも、彼らに交通費や宣伝費という発想はない。「金取る」=「営利主義」=「よくない」というだけ。結果、Yさんたちのグループはライブを中止した。ライブはやりたい。Aさんたちの歌は素晴らしい。が、赤字分をメンバーで割ると1人数万円の負担になる。そこまですることにメンバー内からも反対が出た。彼は思う。

「そのホールのシステムは、やる気のある人たちの気持ちを削ぐようなものになっている。何かするにはお金はかかる。なのに、個人が負担しないと出来ないようなルールになっている」

そのホールの真の目的はそこにはないだろう。しかし、結果としてはYさんが感じている通りなのだ。それはボランティアというものがどういうものか?という理解がお役所にないからだろう。何をするにも経費はかかる。ギャラ、交通費、食費、会場費、宣伝費。なぜ、かかるか?というと、それなりのものを多くの人たちに観てもらうためだから。地元の人が趣味でギターを弾き、友達を呼んでコンサートをすれば安くは済むが、それは趣味の世界。それなりの感動を与えてくれるアーティストを呼ぶには経費がかかる。宣伝費も必要。それを入場料で賄う。それでも赤字になるのに、それに便乗して会場費を上げるというのは、会場側こそが営利主義ではないか?と思える。


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非常に視野が狭い。「入場料」という物差しでしか計らず、公的な施設なのに便乗して儲けようとする。個人がどれだけ赤字になろうが、ホール側は通常の10倍の利益を上げる。結果、市民のためのホールが、市民の努力と赤字の上に儲けているという形だ。それだけではなく、そんなシステムで運営されるホール側に市民が失望することで、文化活動や芸術活動をやっても「私たちが損するだけ...」と感じしてしまい。結果、趣味のイベントしかしなくなる。そんなことになってしまうのはなぜか? 要はホール側。運営する市側の発想は「趣味」と「商業主義」の2つに分けているだけだ。入場料を取ると「商売」。無料でやると「趣味」。だから、その間にある文化活動ができなくなっているのだ。

音楽、演劇、映画、等の文化芸術を市民が率先して行なう。黒字にはならなくても、入場料を取ることで経費を捻出して、自分たちはボランティアで働き、子供たちや市民に、それらを楽しんでもらう。文化や芸術を知ってもらうという活動ができないシステムになっている。できるのは趣味の発表会だけ。「市民は余計なことをする必要は無い」と役所は考えているのか? そうではない。こうした疑問が出て来た背景には、役所や企業の発想が現代に通用しなくなって来たということなのだ。多様化。公共のサービスが時代に対応できなくなり、古いルールで縛られることで意味をなくしてしまっている。時代の推移を感じ「何かしなければならない!」と考える町思いの市民の努力や思いを遮ることになっている。

そして問題なのは役所だけでなく、一般の人たちも似た発想に縛られているということ。Yさんたちを批判した人たちと同様に、その種のイベントで入場料を取ると「営利主義だ!」と批判。理由をつけて無料で見せろと迫ったりすることがある。その入場料が主催者の利益になるのではなく、経費として消えた上に、彼らは持ち出しで何万円も出費していることに気付かず「金儲けが目的だ」と勘ぐる。結果、町のための文化活動とがんばる人たちはバカらしくなり、止めてしまう。地方で文化や芸術が育ちにくい背景には、そんな時代錯誤な発想に縛られている人たちが多いからではないか? 

文化や芸術を楽しみ、学ぶにはお金がかかる。欧米では当然な発想。ブロードウェイのミュージカルだって、膨大な製作費と宣伝費をかけてスタートする。ロングランにならなければ主催者側は黒字にならない。そんなふうにお金も時間もかけたものだから、素晴らしいものができる。だから、観客は高い入場料を払って観に行く。ヒットすれば、素晴らしい作品を作った人たちは儲かる。客もそれを当然と考える。だが、日本で、市民レベルでそれをすると「営利主義」と批判、「入場料を取るべきではない」と批判するようなものなのだ。


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日本人はいつから、そんなふうになってしまったのか? テレビの影響があるだろう。映画館は入場料を取るが、テレビはタダ。そんな年月が続き、いつしか娯楽や文化は無料と思うようになったのかもしれない。しかし、番組のスポンサーのCMを嫌でも見せられ、それらの商品を買うときにはCM料が加算されていることを忘れている。結局、テレビを見ても金を払わされているのだ。気付かない間に取られるのはOKで、現金で払うのは嫌ということか?

ただ、近年。ケーブルテレビやAmazonプライム等もそうだし、シネコンもそうだが、いい環境でいい作品を観るにはお金がかかるーという意識が育ちつつある。映画をテレビの洋画劇場で観ればCMで分断され、カットされ、エンドロールも途中でフェードアウト。感動の余韻もない。それなら多少のお金を払っても、ケーブルや衛星放送で観る。映画館で観るという選択をする人が増えている。テレビ洋画劇場で満足という人は今や少数派。音楽でも、演劇でも、文化芸術はお金を払い堪能するものという意識の人が増えている。が、都会はそうだが、地方に行くと「金は払いたくない」「タダ券くれ」「金儲けが目的か?」という人たちが、まだまだいる。

僕が作る故郷映画も同じだ。地元の人たちが故郷の魅力を伝えるために、実行委員会を結成。寄付を集め、プロのスタッフ&キャストを呼び、自分たちはボランティアで働く。交通費や食費は自腹だ。にも関わらず、寄付もせずに「有名俳優がみたい」と撮影現場に集り、仕事の邪魔をする。地元で上映会を企画。入場料を宣伝費にまわし全国公開を計画しているのに「寄付したのだから、タダで見せろ!」「営利主義なのか!」という人がどこの町でも出て来る。地元の実行委員たちも儲かるどころか、結果自腹を切って映画を完成させることが多い。1円の人件費ももらわない。交通費だけで何十万円にもなる。そこまでしてがんばっているのに批判する人たちというのは、本当に悲しい。先のホールの発想と同じ。「市民は余計なことをしなくてもいい。趣味のレベルでいい」という時代遅れの発想に呪縛されてしまっているのだろう。

これからの時代に大切なこと。目の前にある問題、課題を解決するには、昔のように役所や企業ではなかなか難しいということが多い。自由な発想で動ける市民団体の方が行動力がある。ただ、自分たちでお金を出し合い趣味のレベルでやっていたのでは無意味。いかに経費や宣伝費を捻出しながら、目的を達するか? 表面しか見ない人たちは「営利主義」と批判するだろう。自分たちが抱える問題に挑んでいることが分からない。でも、多くの問題はもはや過去の枠組みでは解決できない。古い価値観をぬぐい去り、新しい方法論を実践することで、新しい時代が見えて来るのだ。


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【夢を追いかけるあなたに伝えたいこと。必ず掴める!】 [my opinion]

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【夢を追いかけるあなたに伝えたいこと。必ず掴める!】2015.12

映画監督になりたい! 高校時代にそう思った。では、どーすれば映画監督になれるのか? その話は以前にも書いたが、日本映画黄金時代は映画会社に試験を受けて入社。10年ほど助監督経験をして、ようやく監督をさせてもらうというシステム。黒澤明監督も、大島渚監督らもそのコース。しかし、映画産業が斜陽になってから、そのシステムは崩壊。映画会社に所属する監督はほとんどおらず、社員監督は取らなくなった。

現代は大学や専門学校に映画コースがあり、多くの若者がそこで学ぶ。が、卒業して映画監督になれるものでもない。学校が就職を世話してくれる訳でもない。そこまでは、高校時代にいろんな本や雑誌で調べて分かった。でも、これでは映画監督になる方法が分からない。そこで、アメリカの映画監督の経歴を調べた。スピルバーグは以前に書いたので省く。

ジョン・ランディス(アニマル・ハウス、ブルースブラザーズ)は撮影所でメールボーイをやっていて、そこからチャンスを掴む。コッポラはUCLAの映画科時代から、プロデュサーであるロジャーコーマンのスタジオで働いていて、B級映画を撮るようになった。ジェームス・キャメロンも同じ。ウイリアム・フリードキンはドキュメンタリー映画の会社で働いていた。アラン・パーカーはもともと広告代理店の社員。

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ま、ハリウッドの事例が日本で応用できるとは思わなかったが、調べた。では、日本ではどうすれば映画監督になれるのか? 親戚に映画関係社もおらず、ツテを頼って元映画プロデュサーだった人も訪ねたが、昔の自慢ばかりされて、何の役にも立たなかった。

おまけに帰り際には「まあ、諦めが肝心だな」とまで言われた。そんなこんなで、とにかく、映画の専門学校に行った。大学の映画科も考えて、夏休みに見学に行ったが、そのキャンパスを歩いている学生たちを見て「ダメだ。こりゃ!」と思えて、一番まともそうな専門学校を選んだ。

その頃から僕は傲慢で、その学校も1学期で愛想が尽きた。「こんなところで学んでも何のプラスにもならない!」と18歳のガキなのに、そう感じて登校拒否。当時、ブームだった自主映画を始めた。教室で年老いた先生たちの映画論を聞くより自分で作る方が意味あると思えたのだ。というのも、8ミリ映画を撮っていた学生たちが、メジャー映画を監督するという事件が数年前にあったからだ。

日活で「高校大パニック」を監督した石井聰互。「オレンジロード急行」の大森一樹。2人とも助監督経験はなく、8ミリ映画を撮っていて、いきなりプロの監督に抜擢された。そこにはハリウッドでスピルバーグやルーカスのように8ミリ学生映画をやっていた若い監督がヒットを飛ばしたという背景があり、日本でも若い人にチャンスを!というものだった。

が、その後も、森田芳光、手塚真、今関あきよしら、8ミリ映画出身の監督が続々とデビューした。その波に乗ろうと多くの大学生たちが学生映画を作った。それまでなかった「映画監督への道」が開けたのだ。にも関わらず興味深いのは、監督になりたくて映画学校に通う若者たちは、そんなムーブメントが起きているのに、8ミリカメラを手に取ろうともせず、毎日、勤勉に学校に通い、授業を受け続けていた。

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卒業したからと、映画会社に就職できる訳もなく。当然、映画監督へのパスポートがもらえる訳でもない。なのに、黙々と授業を受ける。意味が分からなかった。のちにその中で監督デビューした者が1人いるらしいが、あとは皆、夢破れて行った。どう考えても目標に向かっていない道をなぜ歩み続けたのか? 僕には理解できなかったが「夢を追う」といいながら、多くの若い人は夢には繋がらない努力をしていることが多い。

といって、学生映画を作ればプロになれるのか?というと、それももの凄く厳しいものがあった。結果としてプロになれたのは20人くらい。それでも僕が高校生のころは「監督への道」は全くなかったので、スゴイと思うのだが、本当に実力のある連中が、それもチャンスを掴むことができ、出会いがあった人たちだけが「監督」へのパスポートを勝ち取り、デビューした。

僕はそこで落ち零れた。まわりでは少しずつ認められて来ていたが、デビューした人たちは、素人なのに、日本全国の映画学生が名前を知るような存在。僕なんて遠く及ばなかった。そんな選ばれた若者たちも、監督した作品がヒットせず。1本で消えて行く者。2本で終わる者が出て来て、スピルバーグのような大ヒット作を監督する者はおらず。業界的にも「やっぱ、8ミリ撮っているくらいじゃダメだな」ということになり、学生映画ブームも終ってしまう。

僕はそのブームの中でデビューすることはできず。大きなチャンスを失う。「映画監督への道」は閉ざされた。まじめに映画学校を卒業した友人たちもスタッフの仕事に着いた者はいたが、多くは映画以外の仕事に就職。夢破れた者がほとんどだった。また、業界に入れても、昔のように10年助監督をしたら監督になるというシステムもなく。そこから監督になった人は僕のまわりにはいない。

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絶望的な状況。どーするべきか? いろいろ考えて「アメリカに留学しよう!」と決意するのだが、ここからが太田物語・第2部「ロスアンゼルス編」になるので、また別の機会に書きたい。波瀾万丈の物語なのだが、いずれ。ただ、この章まででいえることがある。本当に目指すものがあれば、夢があれば、おとなしく学校で勉強しているだけではダメだということ。チャンスがあれば、それに賭ける。そのチャンスをうしなっても、方法論を変え、アプローチを変えて、時代に合わせたやり方でがんばることが大切だということ。

そして本当に夢を追うのなら、5年や10年で諦めないことだ。「えーーそこまでしなきゃダメ?」と思うのなら、今諦めた方がいい。僕の場合はアメリカに6年。帰国してアルバイトをしながらシナリオを書き5年がかりで、脚本家になり、さらに10年かかって映画監督デビューした。自分でも呆れるほど年月がかかった。ま、僕の場合は要領が悪いとか、頑固で、傲慢だから、いろいろと難しかったとは思う。

ただ、言えるのは考えて考えて、考え抜けば、必ず答えが見つかり、道が見えて来るということ。僕は決して一流大学出身でもなく、8ミリ映画コンテストで入選したこともない。それでもたどり着けたのだから、きっと、あなたも夢を掴むことができるはず。大切なのは「努力」ではない「方法論」だ。その正しい方法論で前に進む。そこで初めて「努力」が必要となり、チャンスや出会があって、ゴールが見えて来る。

もちろん、ゴールは新たなるスタートではあるのだが、まずはそこまで行けるはずだ。大事なのは「方法論」ー考えること。そして時代の風を読むことだ。そう思えている。



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人間関係でトラブル「卑劣な奴。許せない!」でも、もしかしたらその人は? [my opinion]

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人間関係でトラブル「卑劣な奴。許せない!」でも、もしかしたらその人は?

職場で、友達関係で、近所で、ふとしたことでトラブルになり、それが長期化。精神的にも追いつめられ、大変な思いをしている人は少なくないだろう。あの人はなぜ、そんなことを続けるのか? 私がこんな辛い思いをしているのに?何の得があるの? 理由が分からない。そんな経験はないだろうか?

友人のA君がよく仕事をしていた製作会社。映画やドラマではないが、映像作品を作るところ。そこの社長は温厚で仕事のできる中年男性。気配りもあり、誠実な人。信頼できた。だが、次第に問題が起こるようになる。いつしか理不尽なことを始めた。人を踏みつけるようなことをする。担当者に断りなしにプロジェクトの方向転換をする。A君がやるべき仕事を黙って別のスタッフにやらせる。信頼が揺らぐ。やがて社員全員が社長を嫌っていることが分かる。

社長のことを「悪魔」と呼び。数ヶ月に1度、何人かが辞めて行く。そのたびに新人を入れ、2年も経つと全員が入れ替わった。A君のようなフリーのスタッフも、1本仕事をしたら、2度とそこで仕事をする者はいない。だが、その手の悪徳会社というのは映画界には多い。会社でいえばブラック企業のような感じ。社員をこき使うのに給与はちょっぴりみたいな。実はそんな人かと考えた。

しかし、社長を見ているとそう断定できないところがある。冷酷無比なタイプかと思い気や陽気でおしゃべり好き。冗談をよく言っている。夕飯とか奢ってくれたりする。費用のかかる撮影を自ら提案したりする。もし、ピンハネして儲けようという悪徳会社なら、製作費がかからないことをするはず。かと思うと、スタッフを長時間働かせても、夜食も出さない(業界的には深夜に及べば夜食を出すのがルール)終電を過ぎてからスタッフを解放するような理不尽なことをする(その際はタクシーを出すのが業界の常識)


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若いスタッフは自腹でタクシー使い帰宅することもできず、居酒屋で時間を潰し、初電で帰るようなこともある。皆、怒り心頭だが、仕事を失うのを恐れて社長には何もいえない。スタッフだけではない。社長は映画に様々な面で協力してくれた別の会社や団体に対しても何らお礼も報告もしない。その1社が「どうなってんだ! うちがあれだけ協力したのに挨拶もなしか!」と連絡をしてきた。それを聞いた社員が社長に報告したところこういわれた。

「おかしいなあ。何度もお礼はしているし、何かあるたびに報告をしているんだけどなあ。勘違いじゃないかな?」

その社員が調べたところ。社長を始め誰もその会社にはお礼どころか一切の連絡をしていなことが分かり、あわててお礼状とお詫びの品を送ったこともあった。他にも必要ないことに大金を注ぎ込んだり、みんなで決めたことを守らず、スタンドプレーをしたり、見え見えのウソをつき誤摩化したり。言ってないことを言ったと言い張る。言ってないことを「いや、私はそう言ったはずだ!」と言ってきかない。質問しても全然関係のないことを延々と答える。「社長、質問に答えてください」というと「答えてるだろ!」と怒り出す。社員やスタッフはいつも振り回されていた。

プロジェクトが終わったあとA君は、二度とその会社と仕事をすることはなかった。ギャラも約束の半分しかもらえなかった。それをいうと

「そんな約束はしてない。あの話はその額を目指しましょうという意味です。ギャラは私が決めました。だから、それが全額です」


そう言われた。事前に何度も額を確認。「心配しなくても大丈夫です」と社長は何度も言った。目標額なんてことは一度も話していない。さらにいえば、なぜ、社長が額を決めるのか? ギャラは双方の同意で決めるもの。「もう、生涯。この男に会うことはないだろう」思った、仕事中の生活は全てサラ金でやりくり。もらったギャラでは返済できない。それから10年近くが過ぎたが、A君は今もその借金返済を続けている。

話を戻す。だが、A君は考えた。何かおかしい。単に金儲けしか頭にないブラック社長なら、無意味なことに大金を注ぎ込んだりしない。もしかしたらワンマンで閃きで動く出来る社長なのか? しかし、彼がやること成すこと失敗ばかり。必要のないことに金を注ぎ込み無駄にして、必要なことをケチり多くの関係者に迷惑をかける。御曹司なのか?それにしては基本的な部分は真面目で、会議の時間に遅れたりせず、プロジェクトはしっかり進めている。営業はうまいようで、いろんな仕事を取って来て会社はそこそも利益を上げているのだ。

まともな大学も出ている。会社を作り5年ほど運営して来たのは社長自身。暴力も振るわない。セクハラもしない。アル中でもない。ただ、以前からずっと不眠症で悩んでいるというくらい。そんな社長だが、彼の行為に社員は振り回され、次第に愛想が尽き、最後は全員が辞めてしまう。全ての原因は社長なのだが、ブラックという訳でなく、無能というのも違い、御坊ちゃまでもない。ただ、ただ、人の気持ちを逆撫でするようなことが頻発。皆、最後には離れて行く。


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いろいろ考えていて、精神病か精神障害を考えた。以前にA君が勉強した統合失調症か?と思え、症状を調べてみた。一致するものも多いが、明らかに違うものもある。統合失調症によくある妄想が彼にはない。患者が持つある種のエネルギーもない。考え方も飛躍がなく、理屈が通るものが多い。そこで社長の行動言動を思い出す限り書き出し、精神科の先生に意見を聞いた。

「この人は統合失調症ではなく、双極性障害です。似た症状があるので医師でも判断を間違うことがあります」

双極性障害? 何? と思い勉強を始めた。別名は「躁鬱病」である。陽気になったり落ち込んだりするあれ?と思ったが、それでは理解できない。症状を上げてみよう。

●自尊心の肥大: 自分は何でもできるなどと気が大きくなる。

●睡眠欲求の減少: 眠らなくてもいつも元気なまま過ごせる。

●多弁: 一日中しゃべりまくったり、手当たり次第に色々な人に電話をかけまくる

●観念奔逸: 次から次へ、アイデア(思考)が浮かんでくる。具体的には、文章の途中で、次々と話が飛ぶことなども含まれる

●注意散漫: 気が散って一つのことに集中できず、落ち着きがなくなる。

●活動の増加: 仕事などの活動が増加し、よく動く。これは破壊的な逸脱行動にも発展しうる。

●快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって旅行や買物をする、逸脱行動に出る

ほとんどが社長に当てはまった。そして答えが出た。社長は金儲けのために卑劣なことをするのではない。人を踏みつけるのも、スタンドプレーを取るのも、言ったことを言わない。言わないことを言ったと主張するのも、全て病気のせいなのである。そんな人が社長というトップを勤めることで、多くの社員が振り回され、傷つき、去って行ったということなのだ。

守銭奴ではない。だから、飯を奢ることも多い。なのにギャラを勝手に半額にする。無意味なことに金を注ぎ込むのは症状にある。不眠症も当てはまる。つまり、双極性障害を患っているのだ。そのことを友人に相談した。

「そんな病気本当にあるのか? あの社長は単なる嫌な野郎だよ」

「俺も社長とは仕事したし、嫌な奴だけど精神病じゃないな。まともだったよ。急に叫び出したり、神の使いだなんていわないしさ」

精神病=気が狂った状態と思う人が多い。これだけ健康ブームでその手の番組があるのに、精神病を解説するものはない。雑誌や新聞でもせいぜい鬱病。だから、一般の人は双極性障害といわれてもピンと来ない。包丁を振り回し暴れるのが精神病と思う人たちがとても多いのだ。別の友人はいう

「嫌な奴だけど、精神病というのは酷いと思うよ。彼にも人権があるし、可哀想だよ」

この手の反応も多い。精神病に触れること自体が差別という考え方。確かに精神病患者を差別することはいけない。が、その考えが過度になり、精神病に触れること自体がいけないことと思ってしまう。結果、その人がなぜ奇行を繰り返すのか? どう対処すべきか?を考えず、臭いものには蓋をしろ的な対応になる。


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例えば、インフルエンザにかかった友人がいる。気付かずに会社に出て来た。それは危険。ウイルスがまき散らされる。彼は自宅で療養すべきなのだ。それを「インフルエンザなんていうのは可哀想だよ」というのと同じ。患者に「会社に来るべきでない」というのも差別ではない。そもそも、彼は会社に来てはいけない。他の社員に移るからだ。自宅で療養。治療を受けることが大事。人権とかいう問題ではない。

あの社長はもともと優秀な人だったのだろう。しかし、病気によってまともな判断ができない。そのために社員に嫌われ、同時に仕事もうまくいかない。本人は気付かない。自分は正しいと思う。病気によって「私は何でもできる!」と思い込み無謀な挑戦をして失敗する。社員の1人はいう。

「とにかく嫌な人で、悪魔と呼ばれるのも当然。でも、社外の人に言っても誰も信じない。まじめないい社長だよ。多少の社内トラブルはどこでもあるよと言われた。A君から病気の話を聞いて納得。けど、精神病だなんていうと差別だと言われ、私たちから言えないわ」

その通りだろう。世間は個人の辛さや悩みを理解しない。人間関係のトラブルと考える。まさか社長が病気とは想像しない。そして、精神病だというと「差別だ!」「酷いことをいうな!」と批判される。或は「社長はよく知っているけど、病気とは思えない」と取り合わない。精神病を知らない者がどうして「病気とは思えない」と言えるのか? でも、多くのがそんな対応しかしない。そんな3重の壁があり、1人の患者がいることで多くが傷つき、トラブルが起こる。ただ、患者に悪意はない。病気なのだ。

精神病は特別な病気ではない。統合失調症の患者は100人に1人いると言われる。なのに国もマスコミも精神病についての理解の輪を広げようとしない。国民も「怖い病気」と思い込み、触れないようにする。だから多くが気付かない。その社長は今も会社を経営している。噂で聞くところだと、社長は相変わらずだという。社員は次々に辞めて、2年で全員が入れ替わるという。誰にも悪意がないのに、悲しい事態は終わらない...。




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明日にかける橋ーFacebook「友達」との対応に困ったことありませんか? [my opinion]

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以前にも書かせてもらったが、このFacebookに連絡を頂いても御返事はできないーというのも、「映画はいつから公開ですか?」「大阪では上映しますか?」という類の質問が多いからだ。それらは繰り返し記事としてアップしていることであり、僕のタイムラインを少し遡れば書かれている。或はまだ決まっていないから告知していないというもの。

それでも以前は御返事していたが、同じ質問が毎日のように、何人からも来るようになった。それに便乗して「最近、見た映画でお勧めはありますか?」「好きな作家は誰ですか?」とかいろんな質問が来るようになる。さらには「野菜をしっかり食べてください」「目薬はやめた方がいいよ」というコメントまで来るようになる。

そして「女優の***さんって本当のところどうなんですか?」「***さんと付き合っているって本当ですか?」という質問まで。そんなことに答えられる訳がない。返事をしないと「裏切られた」「スルーされた」「失礼だ」と言い出す人たちもいた。

「5分あれば返事くらい出来るでしょう?」とコメントする人もいた。が、会ったこともない人に対して、それも自身プライベートや俳優の私生活をなぜ、答えなければならない? 記事に何度も書いてあることを、それを探そうともしない人に時間を取り、返事する必要があるのだろうか? 1人5分でも、10人から質問が来れば50分だ!


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仕事上の返事すらいつも遅れているのに、会ったこともない人に対して、すでに告知したことを再度伝えるために時間を取るのはどうなのか?と考えるようになった。応援してくれていることは分かる。でも、そこまで行くと応援ではなく、邪魔をされているのと同じ。そんなことで内容に問わず、コメントや質問には答えないというスタンスを取ることにした。しかし、なぜ、そんなことになるのか? そんな人たちも決して悪意がある訳ではない。ではなぜ?

最初は好意で応援してくれている。それが何度もコメントのやり取りをしていると、次第に距離感がなくなり、親しくなる。本当の友人になったと思い込む。だからプライベートを尋ねてもいいだろう?と思えてしまう。その段でこちらが返事をしないと「酷い!」「裏切られた!」と相手が感じてしまう。単なるFacebook友達なのに、長年の友達に拒絶されたと思ってしまうのだ。そこにネットの怖さがある。

或いはこうだ。「公開はいつですか?」と5秒くらいでキーを打ち質問して、5分以内に返事が返って来たとき。相手が仕事を中断して5分かけて答えてくれた。ということを意外に想像しない。Googleで検索して答えが出るのと同じように、打ち込めば答えが出て来ると無意識で感じて、さらなる質問をしてしまう。

また、テレビのワイドショーで芸能人が質問されてプライベートを答えているのを見て、芸能人にはその手の質問をしてもいいんだ!と無自覚に感じてしまう。飲み会で「女優の***は**と付き合ってるらしいよ」と噂するのと同じノリで質問して来る。俳優たちは僕の仕事仲間。そんな人たちのプライベートを話せる訳がないことを想像せず、居酒屋で親しく話す友人と同じモードで接してしまう。


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そんな人たちも最初は「この監督はいい映画を作る。応援したい」「がんばってほしい」という熱い思いから始まっており、いろんな面で応援してくれる方々。ただ、質問に何度も答えていると「この監督はいい人だから、何を聞いても大丈夫だ!」ー「親しい友人」と思い込み一線を超えてしまう。ただ、こちらからすれば「会ったことのない人」「Facebook友達」なのだ。そのギャップがトラブルを起こしてしまう。それなら最初から答えないことが大事だと悟った。

一般の方々でも同じようなトラブルを経験した方は多いはず。最初は趣味が一致して楽しく会話してた。次第に親しくなり「会いたい」「電話で話したい」と言われて困ったり。異性から執拗にコメントがあったり。それでも相手の気持ちを考えると無理して返事。それが苦痛になる。友達削除することで、あちこちに批判を書かれても嫌だ。仕方なしに我慢する。その内にFacebookが面倒になり辞めてしまう。僕の友人にもそれが多い。

例えばあたなの「友達」の1人は現実世界で友達が少ない。Facebookであなたと知り合えて嬉しい。あれこれ話したい。でも、あなたはそれほどでもない。仕事が終わり就寝前にパソコンを覗き、「いいね」を押すだけで満足。たまにコメントを書けばいい位に思っている。なのに毎日「いいね」が押され、「コメント」が連日書き込まれる。あれこれ聞いて来る。それが負担になってくる。付き合いで返事をすると、さらに慣れ慣れしくなる。要求が多くなる。質問が次々に来る。次第に対応できなくなる。

僕の場合も監督業ということもあり、それのバージョンアップした状態になってしまった訳だ。いろんな質問や提案。連絡をくれる方が今もときどきいるが、御返事はできないということ。公平に誰にも返事をしないこと。数年前からそうさせてもらっている。ご理解頂けるとありがたい。


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子供たちに伝えたいこと。「考える力」を育てないと生き残れない? [my opinion]

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(2015年3月の記事より)

僕の映画。テーマが「親子に伝えたる大切なこと」

なので、よくお母さん方から質問を受ける。「子供のために何をすればいいんですか?」その答えはとても難しい。昔なら「しっかり勉強して、いい大学に行き、一流企業に就職すること」と誰しも思っていた。

が、今や一流企業でも倒産したり、大量のリストラをする時代。エリートコースを歩んでも、絶望が待っているかもしれない。そして一生懸命勉強することは実は子供たちにとって大きなマイナス面がある。何度も書いたが、日本の教育は優秀なサラリーマンになるための訓練。与えられたことを確実にこなし、上には逆らわず、疑問を持たず、指示されたことを正確に、早くこなす能力を育てるためのものだ。

つまり、想像力。洞察力。共感力。

状況把握能力といった、社会に出たときに大切となる力を育むものではない。分かりやすくいうとサラリーマン・ロボットになるための教育。バブル時代まではそれでよかった。が、言われることしかできない社員ばかりなので、上が時代錯誤になると、企業全体が駄目になり、電気製品も韓国に抜かれ、不況からも脱出できないのだと感じる。


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では、何が必要なのか? 

その前に聞いてほしい話がある。テレビで「****が人気!」といえば、それを鵜呑みにする人が多い。自分では確かめていないのに「テレビが言ってるから!」と信じてしまう。ニュースキャスターが「*****」といえば、それを自分の意見のように人にしゃべってしまう。「東京の偉い先生が***と言っているんだから、間違いない!」という人も多いだろう。これらこそが日本の教育の成果(?)なのだ。

上から与えられたことは素直に受け入れ、疑わない。つまり、テレビや権威のある大学の先生が言うことを絶対的に信じる。「考える」という教育を受けて来なかったことでの弊害だと考える。日本の教育は与えられたことさえすればOK、言われないことまですると注意される。なので、上からの指示、情報は疑わずに受け入れる。

でも、これからの時代で大事なのは、

情報を得たとき、そのまま受け入れるのではなく、その裏や意味を想像する力。風を読み、時代の流れを感じて、「今は何が必要か?」を自分で考える人だ。そんな力を持つことで、混沌とした時代を生抜いて行けるはず。でも、すでに社会人の大人はもう遅いかもしれない。せめて子供たちの「考える力」を育てたい。

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どうすれば「考える力」は育つのか? 

「考えろ!」といって考えられるものではない。そもそも考えるとはどういうことなのか? 例えば、目の前に白い色があっても、白と認識するのは実はむずかしい。そこに黒があることで、違いが分かる。あきらかに白とは違う色ということで認識。つまり、比較することで、物事を認識できる。

具体的にいうと僕が子供の頃、銀行は3時で閉まるのは当たり前だった。不便だし、働いていると預金を降ろしに行くこともできない。その後、自動支払機が出来てからも、しばらくは午後6時で終わり。その後も、100円の手数料が取られた。何で自分の金引き出すのに手数料が? と苛ついたが、それが当たり前だと思っていた。

ところがアメリカに留学すると、

銀行はどこでも午後5時までやっているし、自動支払機は365日、24時間。手数料なしで引き出せる。そうだよな! それが顧客サービスだし、何で自分の金出すのに手数料取るの?と思えた日本の銀行がいかに努力をしていないか?が分かる。その後、日本も改善され、3時以降も営業するところ、手数料なしで引き出せる機械もできたが、日本人は不便を不便と思わず、それが当たり前と思っていたのだ。

同じように日本では当たり前ということが、実は世界の非常識だったりする。そんな経験をすると、物事は一面だけではないこと。当たり前だと思っていたことが実は違うこと。別の側面があり、違った論理があると分かってくる。いろんなことを疑い、本質を見つめようとする。問題が見えてくれば、どうすれば解決できるか?試行錯誤する。それが「考える」ということ。その力が今の日本人は決定的に欠けている。

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サラリーマン育生教育を受けて来た僕の世代。

50歳を超えた友人たち(関西人だけど)に日本社会の問題点をどう思うか訊く。「オレらにどうにかできる問題とちゃうし。考えてもしゃーない!」とよく言われる。そう「考えてもしゃーない!」考えることを放棄している。同時に考える力もないのだ。

決して友人は馬鹿ではない。それなりの有名大学を出て、それなりの企業で今も働いている。が、あれこれ、社会問題について質問を続けると、怒り出す。日頃から「考える」ということをしていないので、答えられなくなり取り乱してしまうのだ。10代から「与えられたこと」を教えられた通りにこなすことしかしていないので、状況を見て自分で判断。意見を持つことができない。

彼が悪い訳ではない。

そんな教育を受けて育ったのだ。教えられてないことを要求してもできない。多くの日本人が自分の意見を持たず、ニューキャスターの発言を鵜呑みにして、それが自分の意見になる背景もここにある。では、どうすれば子供たちは自分で考えるという習慣がつくのか? いろいろあると思うが、そんな質問を受けたとき、僕は留学を進める。

情報化社会といいながら、

まだまだ日本人が知らないことは山ほどある。情報番組やネットで情報を得て、海外のことが分かったつもりになっているが、実際に行くと大きな違いを痛感する。海外旅行では駄目。やはり、その国に住み、暮し、地元の人と接してみないと分からない。そこで初めて日本との違いを実感する。そこから「考える」という行為をするようなるのだ。

僕自身。アメリカ映画とアメリカの音楽で育ち。ドラマもアメリカ。アメリカ人よりアメリカ文化には詳しいくらいだが、やはり住んでみると、数々の驚きがあった。その意味で、若い人には留学を勧める。アメリカでなくてもいい、ヨーロッパでも、アジアでも。日本以外の国に行けばいろんなことが見えてくる。日本の駄目な点だけでなく、日本の素晴らしさも分かる。海外で生活したことがないのに「日本はいい国だ!」という人がいるが、本当の良さは分かっていないだろう。

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少し前まだは円高で、

東京の大学に進学するより海外の方が安くついたのだが、現在は円安。子供を留学させることは難しい家庭も多いだろう。ただ、留学のみが「考える力」を育てる方法ではない。いろんな方法がある。それはまたの機会に紹介する。いずれにしても大事なことは、子供たちを昔通りに日本の教育を受けさせて、一流大学、一流企業を目指すだけでは、考える力は育たず、いずれ、大人になってから大変な思いをするのは間違いない。

だから、子供たちと、その親たちに、今、何をするべきか? あれこれ考えて、映画を作る。そうやって、幸せになるヒントを届けられれば嬉しい。


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