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ダウンしたベッドの上で思い出を追ってみる。 [思い出]

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ラスト舞台挨拶ツアーが終了。帰京してからダウンしていた。というより、前回の自宅入院状態の続きである。過労というのは本当に何もできない。1日に2度も3度も寝てしまう。起きているときもベッドに横たわっている。と書いても、過労を体験したことのない人は「怠け病だろ?」とか「さぼりたいだけだよ」という。倒れるまで仕事をした人でないと実感できないだろう。

ベッドの上で天井を見つめながら、iPadで映画の上映情報を打つ。このくらいはできる。HPや誰かの記事から情報をコピー。それを自分のFacebookやTwitterにアップする。iPadは写真も簡単に持って来れるので便利。集中力がないのでテレビは見ない。本も読めない。1日に1度、根性で起き上がり、近所のコンビニに食料を買いに行く。それ以外は部屋で寝ている。

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回復状態を計る目安がある。近所のコンビニ=5分まで行く気力がある。それがないと重傷。次が駅まで行けるか? 20分の道のみ。それでもダウンしていると、「無理…」と思えてしまう。以前、「そろそろ行けるか?」と挑戦して、途中で体力が尽き、引き返したこともある。さらによくなると近所の映画館。といっても歩きで40分。電車で数駅。これはかなり良くならないとダメだ。それらにチャレンジできる気力があれば、段階的によくなっている。

全快して駅まで普通に歩くと、なぜ、これだけの距離を歩く元気がなかったのか?と不思議に思うが、重度の過労になると、それすらもできない。ひたすらベッドで天井を見つけて寝る。或は酒を飲む。酔っぱらってまた寝る。そんな繰り返しだ。

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今回、映画公開で、LA、横浜、大阪に行った。それらは全てある時期を過ごした思い出の場所だ。
大阪は高校時代を過ごした街。LAには6年留学した。横浜は映画学校に通い、自主映画も作った街。いずれも多くの思い出がある。が、この数年は本当に戦いで、それを思い出す余裕もなかった。が、今回、それぞれの街を訪ね、思い出場所を通ることもあり、いろんなことを思い出した。当時のヒット曲を聴くと、まるでタイムマシーン。忘れていた思い出まで蘇り、涙が溢れる。

映画が好きで、ひたすら映画館に通っていた高校時代。映画監督を夢見て8ミリ映画を撮っていた横浜時代。憧れのUSC映画科に合格したLA時代。そして1990年に帰国。5年かかって脚本家になり、そこからさらに10年かかって映画監督デビューをした。今年、5本目の映画が全国公開。各地で上映されている。しかし、この先も監督業を続けられるかどうか?分からない。今回が遺作かもしれない。おまけにもう50代後半を迎えた。

時代はトランプ大統領が登場。朝鮮半島南北の和解。腐敗の極みを見せる安倍政権。沖縄知事にデニー玉城が当選。時代はもの凄い勢いで変わろうとしている。

過労で倒れたのも、何か過去と未来を見つめる時間を与えられたのかもしれない。といいながら「明日」の宣伝映像をもう1本編集せねばならないし、7月から遅れに遅れている別の仕事もせなばならない。リハビリもスタートしたし、早く復活したい……。



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横浜時代の想い出を訪ねてみた(2)〜横浜スタジアム、神奈川県民ホール、矢沢永吉 [思い出]

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 横浜に住んでいたというと、港の見えるおしゃれな街だと想像されがち。だが、そんな場所は関内から山下公園方面の観光地のイメージであり、僕の住んでいた地区はどこにでもある田舎街とほぼ同じ。田畑はないが、高いビルがある訳でもなく、由緒正しい建物がある訳でなない。商店街と住宅地。小さなビルがいくつかあるだけ。だから、何かするには関内駅や横浜駅にでなければならない。

 そんなことを考えながら久しぶりに横浜の街を歩く。関内駅を通り過ぎると、球場が見えて来る。横浜スタジアムだ。僕は野球もサッカーも詳しくないが、この場所には想い出がある。そう、1984年に矢沢永吉のコンサートがここであった。「I'll be back soon E'」ツアー。当時、ローリング・ストーンズやThe Who、Bスプリングスティーンと高校時代から聞いていた洋楽以外に、日本の歌も聴くようになり、一番熱心に聴いたのが矢沢永吉だった。

 1983年の「I AM A MODEL」ツアー以降。毎年行っていたと思う。聖子ちゃん。明菜ちゃんなら「一緒に行く」という友達はいたが、「矢沢」というと誰も興味を持ってくれなかったから、いつも1人だ。東京ドームはまだなく、東京ではいつも武道館。横浜は県民ホール。それがその年は横浜スタジアム! 会場は満員。4万人。新旧の矢沢ファッションに身を包んだファンでいっぱいだった。

 しばらく歩くと今度は大きな建物。横浜文化体育館。実はここでも矢沢のライブを観た。1987年。LA留学中に夏休みで一時帰国したとき。「Rock'n Roll Knight」ツアー。このときから、コンサートの定番となる「止まらない Ha~Ha」が歌われるようなったはず。今回は行かなかったが、神奈川県民ホールではリンダ・ロンシタットのコンサートを観た。あの名盤「What's New」のアルバムを出したときのツアー。衝撃だった。そこからビリーホリデーやナット・キング・コールを 聴くようになった。

 矢沢の話に戻るが、彼の歌には横浜を舞台にしたものが多い。「チャイナタウン」「ヨコハマ・フォギーナイト」「ニューグランドホテル」。僕自身がヨコハマに住んでいた時代に矢沢をよく聴いたので、他の歌を聴いても、ヨコハマ時代を思い出してしまう。iPadに入れた矢沢の歌をヘッドフォンで聴きながら街を歩いた。

 ♫「空のポケットに夢ばかり詰め込んで生きて来た」 〜「チャイナタウン」

 という歌がある。矢沢永吉は広島からロックミュージシャンを目指し上京。なぜか、ヨコハマで下車。そこでアルバイトをしながらバンドを始め、やがてキャロルというバンドでデビュー。ロックスターの道を歩んで行く。そんな彼がヨコハマ時代を思い作った歌だろう。その歌詞はまさにヨコハマ時代の僕自身でもあり、映画監督になる!と、大阪の高校を卒業後。東京を目指すが、なぜかヨコハマの映画学校に入学してしまい、この街で青春時代を送る。

 矢沢の「成り上がり」を読んでそれを知り、共感したことから、彼の歌を聴くようになる。横浜時代にアマチュア・バンド。僕は学生映画。彼の歌にも共感するものが多かった。そんなヨコハマ時代。その頃に聴いた懐かしい歌を聴きながら伊勢佐木町を歩いた。その通りをずっと行くと、ジャック&ベティがある。そこでは今、「明日にかける橋」を上映してくれている。30年前のあの頃には想像もしなかったことだ。

 当時、ヨコハマで8ミリ映画を作っていた。学校に失望し、ドロップアウトしたクラスメートたちと学生映画を作った。皆、空のポケットに夢ばかり詰め込んでいる奴ら。でも、1年が経ち、2年が経ち、3年が経ち。皆、夢破れてヨコハマを去って行った。「しょせん。夢は夢だよ」と言う言葉を残した奴。友人の下宿アパートを訪ねると部屋が空になっていたこともある。何の言葉も残さず去って行った奴もいる。

 そんな中で僕だけが生き残り、映画監督の仕事をしている。これはラッキーなのか? 嬉しいことか?いや、そんな簡単な世界ではない。「明日にかける橋」が僕の最後の作品かもしれない。世間が注目する監督でもなく、大ヒット作品を作ったフィルムメーカーでもない。どうにか、こうにか、毎回、映画を撮っているだけ。未だに生活は不安定。借金だらけで、結婚もできない。高校時代の同級生は皆、夫となり、父となり。子供たちも社会人になっている。

 そんな中1人。映画を作りたい!という10代からの夢を追い掛けて来た。ここ数年。いや、10年ほど。目の前の問題を片付けることに必死で余裕がなかったが、久々のヨコハマ。あの頃を思い出してしまう。あの頃を振り返ると、ここまで来たことも感じる。しかし、来年の今頃は仕事なく、路頭に迷っているかもしれない。それが映画界。昔からの知人で映画界で大ブレイクした奴がいる。が、失敗作が続き、膨大な借金をして、今はどこにいるか分からないというのもいる。僕もいつどうなるか?分からない。

 未来を想像しつつも、過去を振り返る。前回の記事で書いた映画館。蒲田パレス、横浜日劇、横浜名画座、今回は行っていないが、天王町ライオン座、大森キネカ、大井町ロマン座と、当時はいろんな名画座に通っていた。2本立て500円ほど。映画館の暗闇の中で、スクリーンを見つめる。ハリウッド映画が中心。暗い日本映画も観たが、あまり好きになれなかった。映画学校に来る奴はなぜか・芸術映画や暗い日本映画。特にATGが好きなのが多かったが、僕はハリウッド映画。

 そんな思いが嵩じて、LAに留学することになるのが、それはまた次の話。今はしばらく横浜時代を振り返ってみる....。

(つづく)


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横浜時代の想い出を訪ねてみた⑴〜横浜日劇、鶴見文化、蒲田パレス。 [思い出]

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先日、ネットテレビで番宣出演させてもらうのに横浜に行った。そこは18歳から5年間、青春時代を過ごした懐かしい街。出演は夜なので早めに出て街を歩いてみた。

当時住んでいたのは京浜急行線の新子安。そこからさらに20分ほど歩いたところにある下宿パート。トイレ共同。風呂なし。当時、学生は皆、そんなところに住んでいた。映画学校に通っていたが、あまりに退屈でプラスにもならないので、横浜市内にある名画座通いをするようになる。

そのときによく行ったのが、現在「明日にかける橋」を上映していくれているジャック&ベティ。当時は横浜名画座といって日本映画を上映していた。その向かいにあったのが横浜日劇。こちらは洋画の二番館。その後、「探偵マイクハマー」シリーズの舞台になったおしゃれな建物だった。

その2つが黄金町。他にも大勝館という名画座があった。ここは渋い映画の2本立て。当時、都内でもどこでもやっていない「シベールの日曜日」と「悲しみよ、こんにちわ」を上映。でも、客席は半分が映画ファンの学生。半分がその日暮らしオジさんたち(?)

多分、その日の仕事にあぶれた人たちが、入場料500円で1日潰せる映画館に来ているのだと思えた(当時は入れ替えなし)。 或は家のない方々の宿となっている(?)中にはトイレまで行かずに場内でオシッコする人もいて、凄い映画館だった。近所にはかもめ座という映画館もあったが、そこは行ったことがない。

新子安に住んでいたのでお隣は鶴見駅。そこには鶴見文化という映画館があった。いつか行こうと思いながら、結局1度も行っていない。今回、その映画館に行ってみた。当時の写真をネットで探し、比べてみる。まわりの景色が少し だけ当時の面影を残していた。1度でもいいから、来ておくんだったと後悔。

京浜急行でもう少し品川方面に行くと、蒲田駅。あの「砂の器」で最初に殺人事件が起こる街。或は「蒲田行進曲」のあの蒲田である。松竹の撮影所あ大船に移る前(今は大船の撮影所もないが)蒲田に撮影所があった。その蒲田駅から5分ほど行ったところにも名画座「蒲田パレス」があった。

ここは洋画の2本立て。「ザドライバー」と「ウォーリャーズ」を観たのを覚えている。が、今は蒲田工学院の建物が建っていて当時の面影はない。僕が90年にアメリカ留学から帰ったときは、まだ営業しており、一度でも来ておくんだったと思える。それでいうと、横浜日劇も当時まだ健在だったし。80年代の想い出の場所がいくつか存在していた。

にも関わらず、映画監督を目指し、バイトしながらシナリオを書く日々。その頃は新宿に住んでいた。生活で精一杯で、青春時代を振り返る余裕もなかった。が、近年、思うのは過去を振り返ることの大切さ。「向日葵の丘」も「明日にかける橋」も過去の物語。振り返ることで気付く大切さ。その意味で建物がある内に、もう一度、訪れてけばよかった。後悔しながら、蒲田パレス、鶴見文化の跡地を訪ねた。

(つづく)


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明日にかける橋ースチール写真紹介③ [思い出]

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これも、またまた昨年紹介したものだが、完成披露試写会をご覧になった方は「あーーーあのシーーーーン。あの撮影のあとだなあー」と思ってくれるはず。観てない方は秋頃に「あーーー」と言ってもらえるはずです。


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明日にかける橋ースチール写真紹介② [思い出]

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これも、すでに昨年紹介したものだが、

完成披露試写会をご覧になった方は

「あーーーあのシーーーーン」

と思ってくれるはず。観てない方は秋頃に

「あーーー」

と言ってもらえるはずです。


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明日にかける橋ー夏の決起集会記念写真。 昨年の8月。撮影直前に撮った集合写真。ここから本格的な戦いが始まった。それから4ヶ月後に完成披露試写会が迎えられるとは!実行委員の方々の奮闘がそれを可能にした。 [思い出]

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明日にかける橋ー夏の決起集会記念写真。

昨年の8月。撮影直前に撮った集合写真。ここから本格的な戦いが始まった。それから4ヶ月後に完成披露試写会が迎えられるとは!実行委員の方々の奮闘がそれを可能にした。




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明日にかける橋ー撮影時の想い出 雨の中の委員会スタッフ [思い出]

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雨の中、撮影準備に「明日橋」の石碑(発泡スチロールではなく本物の石! 石屋さんが本当に文字を掘ってくれた)設置に奮闘中の実行委員会メンバー。まさに縁の下の力持ち。彼ら彼女らがいたから無事に撮影を終えることができた。そうして完成した映画は今年、全国に発信される!


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明日にかける橋ースチール写真紹介 [思い出]

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すでに昨年紹介したものだが、完成披露試写会をご覧になった方は「あーーーあのシーーーーン」と思ってくれるはず。観てない方は秋頃に「あーーー」と言ってもらえるはずです。



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明日にかける橋ースチール写真紹介④ [思い出]

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これも、これも、すでに昨年紹介したものだが、完成披露試写会をご覧になった方は「あーーーあのシーーーーン。ここ泣けターーーー」と思ってくれるはず。観てない方は何のことだか分からないけど、秋頃に「あーーー」と言ってもらえるはずです。



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2015年11月19日 に書いた記事 [思い出]

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2015年11月19日 に書いた記事

【ふと、この10年のことを思い出してみたら、さらに15年の思い出が!?】

1980年代は年代ごとにしっかりと覚えている。高校を卒業して本当の人生を歩み出した年でもあるからだ。その意味で「向日葵」の1983年というのは明確に覚えている年だ。が、1990年代に入ると不明確だ。そんなことを考えながら歩いた。

1990年 アメリカ留学から帰国。29歳。秋に戻ったので、本格的なスタートは91年から。その年の2月に東京のアパートを契約。新たな生活が始まる。目標は映画監督になること。アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。この辺のことは以前書いたが、昼はレンタルビデオ店で働き、夜は居酒屋で皿洗い。映画会社や製作プロダクションに何度も持ち込みしたが、「面白い。映画にしよう!」といってくれたところは1軒もなかった...。

92年、93年、94年と、新たにライター業をスタート。雑誌や週刊誌に記事を書く仕事をしていた。仕事をもらうだけでなく、自分で取材、それを出版社に売り込んだり。「週刊プレイボーイ」「ペントハウス」「コスモポリタン」等で書かせてもらった。が、それだけでは食えず、ビデオ屋やベビーシッターのアルバイトもしていた。あと、映画学校や演劇学校の講師もあちこちでした。

95年に日米合作ドラマ「Gaijinー開国」にスタッフ参加。同年、シナリオライターデビュー「アルティメット・クライシス」「女子高生コンクリート詰め殺人事件」96年、Vシネマ「82分署R」「ゼロウーマン」を担当。97年映画のメイキングで演出。98年「太陽娘と海」スタッフ。同年、ドラマ「風の娘たち」監督デビュー。99年、映画「死びとの恋わずらい」メイキング担当。Vシネマ「真・恐怖体験 投稿編」を監督。

00年、Vシネマ「真・恐怖体験 ドラマ編」担当。01年ー02年 映画「ストロベリーフィールズ」営業。03年、ドラマ「怪談・新耳袋」監督。大林宣彦監督「理由」メイキング担当。04年 新作準備。05年「ストロベリーフィールズ」監督。

こんな感じか? この先は明確に覚えている。「ストロベリーフィールズ」「青い青い空」「朝日のあたる家」そして「向日葵の丘 1983年夏」。だが、これ以前は毎年、過酷な戦いの連続だったので、どれが何年で、何が何年でと覚えていない。しかし、今、振り返ってみると、「何でも来い!」という感じで、一進一退している。製作会社とは何度も喧嘩しているし、理不尽な仕事も大かった。ギャラの不払いも何度もあり。仕事を依頼して来ておいて、別の人にまわされて、それを知らずに待ち続けていたこともある。

けど、そんなこんなで15年。15年だ。これをどう捉えればいいのか? どう、解釈すればいいのか? 考えてしまう。このあとの2005年から映画「ストロベリーフィールズ」を監督。そこから怒濤の戦いが続き、現在に至る。それでさらに10年。その最初の段階で、総括をする余裕がなく、その前の15年が曖昧なのだろう。帰国して15年。映画監督デビューして10年。ひとつの節目だと思えている。


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