So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
映画業界物語 ブログトップ
前の10件 | -

多くのトラブルの背景にあるのは、自身の価値観を押し付けようとすること?=捕鯨問題と同じ? [映画業界物語]

44183971_2222704231137202_5708209066224910336_n.jpg


多くのトラブルの背景にあるのは、自身の価値観を押し付けようとすること?=捕鯨問題と同じ?

アメリカ人の友人がこんな話をしたのを思い出した。

「日本人は何を考えているか分からない。本当に嬉しいのか? 悲しいのか? 顔に出さない。ロボットのように無表情、信用できない…」

よく言われることだが、ビジネスで日本人と接してそう感じることが多いという。が、別のアメリカ人はこういう。

「私たちは人と会ったら、笑顔で握手をしてフレンドリーに接する。それが我々の礼儀。でも、日本人は違う。頭を下げて礼。一歩引いて丁寧に相手と接する。それが日本の礼儀。どちらが正しいんじゃない。それぞれの習慣なのよ」
そう言われて、なるほどと思った。ちなみにその人はいろんな国籍の人に英語を教えるUCLAの女性教師だ。彼女のいうことが正解。だが、多くのアメリカ人は1人目の友人と同じ発想の人が多い。

「日本人には感情がない。喜びも、悲しみも表現しない。だから、神風アタックができたんだ。朝から晩まで働いて、小さな家に住んでいる。まるでアリのようだ」

日本人は人前で泣いたり、大笑いしたりすることは恥ずかしいという習慣がある。以前に書いた「鋭い感受性」の話でも触れたが、感性豊かな人は暮らしにくい社会。アメリカ人は頻繁に、笑い、怒り、ときには涙する。日本人から見ると幼く見えるくらいだ。

ただ、僕も6年アメリカで生活して、日本人とアメリカ人、どちらが人間らしいのかと考えた。感情を見せないことが、大人として大切なのだろうか? それより悲しいときに泣き、面白ければ大声で笑うアメリカ人の方が人間的かも?と思えたりする。でも、それは習慣や価値観から来るもの。その延長線上で考える。

映画業界と一般社会もかなり違う。映画の世界では夜会っても「おはようございます」と挨拶。「え、夜だよ?」と思うが、朝でも、昼でも、深夜でも挨拶は「おはようございます」なのだ。賃金の考え方も違う。アルバイトは時間いくらで働く。サラリーマンは月給+残業手当。どちらも働いた時間、日数に対して報酬をもらう。

が、映画人は基本(映画)1本いくらだ。撮影期間が1ヶ月でも、2ヶ月でも1本いくら。撮影が2−3日延びても額は変わらない。そしてスケジュールがタイトになってくると、早朝から夜明け(?)まで撮影する。1日20時間労働ということもある。でも、残業代は付かない。時給で換算すると100円なんてこともある。

それでもスタッフのほとんどは、基本1時間ある昼飯タイムでもロケ弁を掻き込むように、5分ほどで食べて撮影現場に戻る。飯くらいゆっくり食べればいいのに〜と、僕さえ思うのだが、スタッフは早々に現場に戻る。本当に凄い。

特に太田組に参加してくれるスタッフは本当に申し訳ないが毎回ギャラが安い。なのに全力で仕事をしてくれる。だが、他の組ではギャラが安いから「それなりに仕事する」というスタッフも多い。だとしても、映画スタッフというのは本当によく働く。それに対して、カタギの友人から聞いた話。

「とにかく100%の力は出さない。いつもは60%かな? 納期前には80%くらいの力でやるけど、めったにない。100%は絶対にない。大事なのは家庭。家に帰って子供と遊ぶエネルギーがないほどに、仕事をしても意味ないしね」

ある役所で働く人の話もしよう。

「大きな声では言えないけど、忙しく仕事している風に見せることが大事。張り切ってバンバン片付けると、上から『じゃあ、次、これやって』と言われる。がんばっても仕事が増えるだけ。その気になれば1時間で出来る仕事を、何日かけてやるか?が大事なんだ。がんばっても給料上がらないしね」

まあ、そんな人ばかりではないだろうが、そういうタイプもいるだろう。

「なるべくゆっくり仕事して、残業時間に持ち込めば残業手当がもらえる」

友人たちでもそうだが、とにかく苦労せずに、全力出さずに仕事をして、時給、月給はしっかりもらう。給料以上の仕事はしない!ということが大事なようだ。そんな時代を反映したように、映画の専門学校で講師をすると、必ず訊かれるのはこれ。

「監督って1ヶ月にいくらもらえるんですか?」「映画監督って食えますか?」

本当のことをいうと、その生徒は確実に監督志望をやめると思える。食えるのは業界で5人ほどだ。あとは皆、副業をしている。それ以前に1本の映画を監督するということは、ものすごく大変なこと。食える食えない以前に映画を監督すること自体が難しい。その生徒はいう。

「食えないのは嫌だなあ。生活が安定しないのも嫌だ。でも、映画監督になりたいんですよ…」

公務員になれ!といつもいうのだが、今時の学生は安定を求める。同時に夢や希望を求める。それはどちらかにしないと!でも、若い人がそういうの根性がなく、甘えているのではなく、教育や社会の反映なのだ。

撮影現場にはインターンという制度がある。そんな呼び方をするのは最近で、本来は「見習い」という。ノーギャラでスタッフとして参加。助手として学びながら仕事をする。現場は学校で学ぶ何倍もの勉強になる。実習の何十倍もの経験になる。プロの俳優とも接するし、プロの現場を体験できる。なのだが、そのことをブログに書くとこんなコメントが入った。

「ギャラも払わずに若者を働かせるなんて酷い。搾取だ。利用しているだけだ。そんなことをしているから映画界は衰退し、誰も映画を見なくなったんだ。そんな業界は潰れた方がいい!」

これ書いた人。たぶん、若い人だろう。バイト感覚なのだ。1時間働くと900円もらう。バイはそんなシステム。それがインターンは無給。「若い人を利用している。俺たちは奴隷じゃないんだ。働いたらなりの賃金を払うのが当然だ!」という憤りなのだろう。

だが、彼に抜け落ちている発想がある。アルバイトというのはちょっと教えられれば誰でもできる作業しか与えられない。だから、最初から1時間いくらという賃金が出る。それに対して映画は技能職だ。技術を持っていない人は現場にいても何の役にも立たない。むしろ邪魔になる。カメラをまわせる。照明機材を扱える。俳優の出し入れが出来る。メイクができる。衣裳を担当できる。そんな知識と技術のある人たちを集めて、映画を作る。

その技術を持たない人は現場に呼ばれない。しかし、新人を育てるためにインターンを置くことがある。当然、スタッフの足でまといになる。失敗することもある。トラブルを起こせば撮影が遅れ、何十万円も失うことになる。1日撮影が中止になれば少なくても100万円の赤字。そんなリスクを背負いながら、若い人に学ぶ機会を作っているのだ。

そしてインターン には撮影中の食事が出る。ロケバスにも乗せる。インターンだけ現地集合なんてことなない。地方ロケなら宿舎に泊まれる。が、まだ技術がないのでギャラは出ない。最近は5万とか、安くてもギャラが出ることもある。そんなことを知らずに先の若い人(推定)は「ギャラも払わずに若者を働かせるなんて酷い。搾取だ。利用しているだけだ!」と批判するのだ。彼の中では「バイト=「インターン」と考えている。

しかし、考えてみよう。もし、映画撮影を体験、学ぶなら、本来は映画学校に通う。授業料は安くない。大学と変わらない額だ。何百万もする。なのに、その授業料を払わずに、学校よりもプラスになる体験が出来て、現役のプロが指導してくれる。その上、飯が出て、宿舎にも泊まれる。これはノーギャラというより参加料を払ってもいいだけの経験だ。タダで学校以上の勉強になる。なのに「酷い。搾取だ。利用しているだけだ」と批判している訳だ。

映画業界だけではない。板前の世界も、最初は見習いから。技術の世界はそんな昔ながらの修行からスタートするところは多い。最近は板前さんでも専門学校に行き習うが、授業料を払って学ぶか? 賃金なしで見習いをするか? 映画も同じ。ただ、専門学校に通っても、仕事には繋がらないが、現場でインターンをすれば、スタッフと知り合えて仕事に繋がる。もちろん、認められればだが。

つまり、批判する若い人は映画業界や職人のあり方を知らず、大学=>バイト=>就職=>サラリーマンという、一般的な社会のあり方。価値観で知らない業界を批判しているのだ。知らない世界のことを「そんな業界潰れてしまえ」と攻撃的に否定する。

また、そんな彼が撮影現場を見れば、どれだけスタッフが真剣に、熱く、仕事をしているか?に驚くだろう。残業手当もなく、ボーナスもない、時給1000円以下になることもある。なのに手を抜かない(太田組ではみなさんそうです)。

「少しでもいい仕事をしたい。素晴らしい作品にしたい」

と努力する姿を見ればカルチャーショックを受けるのではないか? それとも「時給1000円でもそこまでやらねえよ」と言うのだろうか? さらに後輩の監督。僕と同じように地方映画をよく撮る彼からも近い話を聞いた。

「その町の委員会が寄付を集め、僕が監督する。そんなスタイルで何本か映画を作りました。地元の方はよくやってくれます。でも、次第にいろんなことを言い出すようになりました。前作に出た若い女優さん。いい子だったので次も出して上げようよ。とか。失敗続きだった助監督のサード君。何度も叱られていたけど、次はがんばると思うから呼んであげてよ…でもねえ….」

なるほど。町の人たちは後輩にとってスポンサーだ。依頼人でもある。ただ、素人だ。俳優の選定とかスタッフのことまで、あれこれいうのはどうか? それは監督に任せるべきだ。後輩は頷く。

「そうなんですよ。この役者を出してほしいなら分かります。が、いい子だからまた呼んでほしいとか、そんなことでリクエストされても叶わないんです。助監督にしてもサード君は本当にダメな奴で、先輩たちからボロクソに言われて、あいつのためにどれだけ撮影が遅れたか……悪い奴じゃないけど、映画の仕事に向いてないんですよ。なのに可哀想だから次も呼んでほしいって…」

もちろん、地元の方々は希望を述べているだけだとは思う。が、彼らの意見の背景が問題だ。映画作りは素晴らしい作品を作るためにすること。そのためには優秀なスタッフ、キャストを集め撮影する。後輩がいうように、仕事ができない。ミスが多い。そんな者たちを呼ぶことはマイナス。なぜ=次も呼んであげて=になるのか? それはサークル活動の発想。あるいは仲良しクラブ的な考え方だ。

僕が学生映画をしていた頃も同じことがあった。撮影の集合時間に遅れる大学生の友人がいる。30分経っても来ない。置いて行こうとすると必ず「待って上げようよ」という奴がいる。撮影時間が短くなるから行こうとすると「酷い!」「かわいそうだ!」と批判する。それに同調するものも出てくる。結局1時間遅れで来た。

そのために撮影時間が足りなくなり、翌日も撮影しなければならなくなる。また全員が交通費を払い、その場所に集まり、撮影をせねばならない。1人の遅刻が全員の負担になる。でも、彼らはいう「日が沈んだんだから仕方ないよ」—違う。遅刻した奴がいたので撮り切れなかったのだ。仕方ないことではない。

でも、大学生の友達にはそれが理解できない。映画撮影より友達付き合いが大事なのだ。友情であり、優しさだと考える。全体を見つめることなく、目の前の事実だけで「可哀想」とか言って、大局を見逃してしまう。そのマイナスが全員に降りかかる。

後輩の支援者も同じ。映画の出来とか、完成度ではなく、現場で毎日叱られていたサード君が可哀想。応援したい。だから次の呼んであげてという。目の前の事実しか見ていない。若い女優さんいい子だったから呼んであげて。いずれも近所付き合いの論理。サークル活動の考え方。大学生の友人たちと同じだ。優しさと言えるかもしれないが、後輩の使命は素晴らしい映画を作ることで、サークル活動ではない。プロの現場であり、ダメなものは置いて行かれるのだ。

「そうなんです。その若い女優も期待はずれで芝居できなくて。次の撮影ではサード君も女優も呼びませんでした。そうしたら支援者の人から批判されて、酷い。なぜ呼ばないの?失望したと言われたんです」

後輩の決断は正しい。でも、そんなことで揉めたり、信頼を失うのもおかしな話だ。その話を先輩にしてみた。映画業界のベテランだ。こう説明してくれた。

「シビアにいうけど、監督って、お前の後輩。俺も知っているけど、まあ問題ある。が、それでも監督だ。撮影隊の責任者であり、リーダーだ。会社で言えば社長だよ。その人にいくらスポンサーかもしれないが、あれこれ人選について言うのがおかしい。素人なんだから。可哀想とか、いい子だからとか、何だそれ。撮影は仕事なんだよ。自動車会社の社長に、あの従業員クビにしないで可哀想だからなんて進言するか?

でも、一般って映画はお祭りとか趣味の延長とか、そんなものだと思っている。仕事って感覚がないんだよ。だから、そんなことを言い出す。一般の人なら、そんな意見無視すればいいんだけど、スポンサーだからそうもいかない。つまり、お前の後輩が悪い。素人にスタッフやキャストの起用についてあれこれ言わせる環境を作ったからだ。だから、その人たちは自分が知らない世界のことをあれこれ、自分たちの価値観で批判するようなったんだ」

その通りかもしれない。後輩は監督らしくなく謙虚で、真面目で、おとなしい。頼りないところもあり、応援したくなることがある。そんなところが支持されて、その町で映画を撮ることになった。だから、町の人たち。皆、彼より年上の、それなりの立場の人たち。彼を応援し、親しく話をする。そのために、あれこれ言う環境ができてしまったのだ。

そして先に例をあげたアメリカ人と日本人。インターン問題と同じ。自分がいる世界の価値観で、自分の知らない世界のあり方を批判してしまう。自分たが正しい、優しさがあると思って批判。相手が酷い事をしていると思い込む。

言い換えればクジラ問題と同じ。アメリカは「クジラは哺乳類。賢い動物。それを捕獲して殺し食べるのは野蛮。可哀想」と日本の食文化であるクジラ漁を批判する。圧力をかけ制限する。そのくせ自分たちは牛や豚を食べている。自分たちの文化にないものは「可哀想」「許せない」「酷い」と否定する。それと同じではないか?

撮影現場で失敗の多いサード君も、地元から見ると、一生懸命、毎日怒鳴られて可哀想。応援したい存在。芝居のできない女優も、いい子だった。がんばってほしい。次も呼んでほしいと感じるのだ。人として考えるなら、ダメな子でも応援する。同情する。それはいいことだ。

が、映画製作からすると、マイナスでしかない。それぞれに正しい。しかし、監督にそれを要求する地元の人の言動は間違っている。彼の使命は「ダメな子を育てること」「下手な俳優を鍛えること」ではなく「素敵な映画を作ること」なのだ。

こうして見ていくと、いろんなトラブルは互いの価値観。それぞれの世界の習慣、ルール。それを尊重せず、批判したり、否定したりすることで起きていることが分かる。しかし、多くの人はそれに気づかず、自分たちが絶対に正しいと信じ、自分の世界の価値観で別の世界を批判してしまう。後輩にそんな話をすると、彼はこう答えた。

「最近、思うんですけど、違う世界の人同士って理解し合えないじゃないかって? 僕はあの街の人に支援されて何本か映画撮った。感謝しています。だから、要望もなるべく聞くようにしているんですけど。最近は細かなことまで、あれこれ言われて作品が歪んでくるし…もちろん、みんないい人たちなんですよ。けど、一線を引いて付き合うことも大事かなって、映画人と一般の人は、分かり合えない…..そう思えています…太田さんの現場。全然、そんな話聞かないし、羨ましいですよ」

その理由は簡単だ。地元の人たちが映画製作を事前に勉強。撮影現場で俳優に話かけない。写真を撮らない。サインを求めない。演出やシナリオにあれこれ言わない。プロに任せるとか、いろんなルールを決めて、スタッフ&キャストを尊重してくれたからだ。

他にも様々な部分で映画製作のあり方を理解してくれた。だから、うまく行った。それに対して後輩の街は映画の方法論を知ろうとせず、自分たちの日常にある価値観を映画製作に押し付けようとした。それではうまく行くはずがない。大事なのは、その世界を自分たちの価値観で批判しないこと。その業界の価値観やルール尊重すること。何事もクジラ問題と共通するものがあるように思える。


41462138_2157935187614107_5101585570350497792_o.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

それでも俳優になりたい!という人たちへ。表現の仕事を目指すことの意味?=腐ったはらわたを掲げて拍手される仕事? [映画業界物語]

43172433_2198164496924509_3540851079832928256_n.jpg

それでも俳優になりたい!という人たちへ。表現の仕事を目指すことの意味?=腐ったはらわたを掲げて拍手される仕事?

いろんな角度からいろんな視点で「表現の仕事」=俳優や歌手、作家や映画監督等になるための話を書いてきた。「鋭い感受性」「長期に渡る練習」「打たれ強さ」「有名になりたいーだけではダメ」

でも、鋭すぎる感受性があると日常生活が送り辛いし、打たれ弱い。アルコールやドラッグ。新興宗教に走ることにもなる。有名になることを夢見る若者は多いが、有名になることがどれだけ不自由で大変なことか?も伝えた。

つまり、俳優になり有名になることは今の生活プラス「有名人の生活」ではなく、マイナスになるということ。今まで当たり前のように持っていたもの。習慣。行動。友人を失うことになる。この辺はまだ詳しく書いていないが、表現の仕事に就くには茨の道が続く。

それでも俳優になりたい。作家になりたいという人もいるだろう。「私は鋭い感受性はないけど俳優になりたい」「俺は子供の頃から芝居をしている訳ではないけど、舞台に立ちたい」そう願う人もいるだろう。そんな人たちに向けて、もう少し書いてみる。

夢を追いかける。夢を掴むというと素晴らしいことのように聞こえる。「彼は努力の末にデビュー。歌手として活躍している」というとサクセス・ストーリーだ。お金も名誉も手に入った。皆がキャーキャー言ってくれる。テレビや雑誌に写真や記事が載る。芸能人として認められる。そんなことを目指している人が多い。

なぜ、そんな立場になりたいのか? 前回も書いたが、今、学校で、職場で自分のことを評価し、賞賛してくれる人がいない。街を歩いても誰も振り返らない。アイデンティティの確認ができない。それが積もり積もって、芸能人になれば…..ということで欲求を満たそうとしているのだ。

だが、今の若い人たちは「与えられる教育」で育って来たので自分から何かをするのではなく、会社や学校が導いてくれると思い込んでいる。大手芸能事務所に入ればデビューできる。デビューさせてくれると考えてしまう。

それでは無理だという話も書いたが、まず、そんなタイプの人たちがいる。映画監督になりたければ専門学校。漫画家になりたければ、最近はその種の学校もある。そんなところに行こうとする人たちだ。

次に、「役者になりたい」といい、そこそこやっているが、パッとしない人たち。そんな人たちがよくワークショツプに来てくれる。が、会場に入ってきて一目見て分かることがある。今年も一度だけ頼まれて、ある俳優事務所のワークショップをした。

皆、そこそこはできる。でも、芝居以前に彼ら彼女らがするべきことがある。というより、それが俳優を目指す裏の理由でもあるだろう。彼らは演技をしたいというより、自分探しをしているように思える。

少し前によく言われた「本当の自分探し」ー何をすべきかなのか? ー自分は何者なのか? ー自分には何ができるのか? そんな不安や疑問を感じている。その答えを探すために無意識に選んだのが俳優への道だと感じる。

これは作家や音楽家でも同じなのだが、作品を作る、表現する。その過程で自分を発見していく。表現は自分との対峙なのだ。それを無意識に感じて、「俳優になりたい」「芝居をしたい」と考える若い人が多い。

いろんな役を演じる。悪人。善人。サラリーマン。父親。母親。侍。ギャング。他人を演じることで自分が見えて来る。どんな役が似合うか? それが自分が持つ本質なのだ。悪女役を楽しむ女性がいる。その背景にはいつも自分を抑え、いい妻。かわいい女性を人生の中で演じている。

わがままを言えない。いい子でいなければならない。そんな抑圧から解き放たれた喜び。怒りや嫉妬を隠さなくていい。つまり、演劇によって精神を解放している。演技をしたいと思ってはいるが、実はそちらが無意識に目的となっていることがある。

だから、ワークショップをしていると、演技レッスンではなく、啓発セミナーをしている気持ちになる。演技をしてもらえば、その人が何で悩み、何に縛れているか? 何を求めているか?がよく分かる。が、本人はそれに気づいていない。心療内科のような気がする。

と書くと、サラリーマンが酒を飲んで、カラオケを歌い憂さを晴らしているのと同じだと思うかもしれない。同じなのだ。しかし、酒とカラオケでは癒せない苦しみや悩み。単にお金に困っているとかではない。どうすることもできない呪縛のようなもの。それを探し、解決しようとするのが、実は芸術。つまり表現なのだ。

その意味で、より深い悲しみや心の傷を持っている人が表現の仕事には相応しい。その闇を紐解く。見つめることは苦しい。できれば見ずに過ごしたい。自分は普通の人だと思い生活したい。なのに、引っかかる。心が渇望する。そんな人たちが選ぶのが「表現」なのだ。

だから、俳優を目指す多くの若者は悲しみを抱え、心に大きな傷を負っている。何もない顔をして日常生活を送っているが、本当は苦しくて仕方がない。それを気にせずに生きているレベルなら、俳優にならなくても生きて行ける。逆にいうと、そんな傷を負っている人が俳優になる素質がある。

ハリウッド俳優を考えみよう。アル・パチーノ、ジョン・トラボルタ、シルベスター・スタローン、皆イタリア系だ。バーブラ・ストライザンド、マイケル・ダグラス、ウッディ・アレン、ダスティン・ホフマン、皆ユダヤ系。監督でもスピルバーグはユダヤ系。コッポラはイタリア系。

皆、移民の子たちなのだ。様々な苦労をし差別を受け、理不尽な生活をして来た民族。その2世3世なのである。日本も同じ。芸能界には在日の人が多い。しかし、表現の世界ではそれが武器。悲しみを感動に変える仕事なのだ。

その意味では先の心療内科のようなワークショップに来た若い人たちは可能性ありということ。人種や国籍の問題だけでなく、様々な問題が心を傷つける。ビートルズのジョンとポールは子どもの頃に母親を亡くしているという。スティーブ・マックイーンは子どもの頃に両親が離婚。新しい父と反りが合わず、毎日殴られえていて、不良少年になったという。

チャップリンは子ども頃に母が精神病になり、子どもだったチャップリンが街で芸をして金を稼ぎパンを買い、母親に食べさせたという。そんな悲しみや苦しみを見つめることで、表現が生まれてくる。それが俳優の仕事なのだ。

他人を演じる仕事のように思うが、他人を演じることで本当の自分を探すのが俳優業なのである。だから、僕は演技とは心理学であると思える。それに気づかなくても、無意識にそれを感じて俳優を目指す若い人たちも多い。その心の闇が、心の傷が深く、ただれた人ほど、俳優として成功する可能性が高い。社会とは反対だ。

会社や学校ではそれらを隠して、普通であることを見せないと排除され、敬遠され、虐げられる。高校を出て、大学を出て、就職。普通のサラリーマンです。という顔をしないと、日本という国では生きて行きにくいところがある。でも、それに耐えられない人たちが目指すのが表現の世界。俳優であり、歌手であり、作家などなどである。

ある意味で俳優を目指すことは心の治療だ。しかし、難しいのは完治すればそこで終わってしまうこと。傷が深いほどに治療には時間がかかり、長い年月活動できるということもある。が、俳優として成功するしないは大きな問題ではない。

俳優を目指すことで、自分自身を知ることができれば。心の傷が癒されるなら意味がある。「芸能界は厳しい。俳優になんて簡単になれない」と人はいうが、そんなことはどうでもいい。俳優業は自分探しの旅。その旅に出ることは大きな意味がある。

前者の「有名になりたい」症候群の若い人たちも。日常生活の中で注目されない。異性にキャーキャー言われたいというだけの理由なら、俳優を目指してもすぐに諦めてしまうので問題ない。技術を磨く練習を何年も続けることの苦しさに比べれば、キャーキャー言われなくてもいいか?と思えるはずだ。

もし、それでもキャーキャー言われたいというのであれば、スポットライトを浴びて有名になりたい!と思うなら、それは後者だ。心の傷を踏みつけられたプライドを取り戻すための戦い。そんな子たちは可能性がある。

信頼できる友達がいて、理解ある両親がいて、普通に生活できる仕事があり、多少の不満があっても生きていける。そこに愛ある異性がいれば、表現の世界に行こうとは思わない。そんな安心できる環境がない。

苦しくて仕方がない。そんな人たちが自分を探す世界が「表現の世界」なのだ。もちろん、そうでない人たちも芸能界にはいる。でも、お笑いでも、歌でも、小説でも、映画でも、そして演技でも、それは自分を探す旅だ。

成功するしないは関係ない。有名なる。食えるも関係ない。まずは本当の自分を探すこと。自分は何に苦しみ、何に嫉妬し、どんな葛藤をしているのか? 見たくない醜い自分を見つめることが演劇である。

そこで腐った腸を引き出し、両手で掲げて「私の内臓はこんなに腐っています!」と叫んで、大きな拍手を受けるのが演劇なのだ。美しい衣裳を着て、魅惑的なヒロインを演じることではない。諦めずに挑戦してほしい。例えゴールできなくても、必ず、あなたの人生のプラスになるはずだ。


DmngW2aUwAASg97.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

「有名なりたい」という若い人たち。それでは俳優にも、歌手にも、作家にもなれない=何がいけないのか?説明する。 [映画業界物語]

43172433_2198164496924509_3540851079832928256_n.jpg

ここしばらく俳優等、表現の仕事をしたい人。あるいはどんな人がそんな仕事に向いているのか? 等をいろんな角度から書いてきた。それらを読み「私は向いている!」と思った人。「俺は無理だな….」と感じた人。「無理かもしれないけど、俳優になりたい」「作家になりたい。歌手になりたい!」という人。いろいろいるだろう。

そんな人たちに向けて、もう一度書いてみる。基本、表現の仕事=俳優とか、歌手とか、作家、映画監督、他、それらの仕事をしたい人は多い。でも、多くが

「かっこいいから」「有名になりたいから」

ということが動機。その背景を考てみる。人にはいろんな欲がある。「金持ちになりたい」「****の車が欲しい」「モテたい」「おいしいものを食べたい」そんな中で「人に認められたい」という欲求がある。

戦後、日本人は貧しく、食べることにさえ事欠いた時代があった。が、食えるようになり、生活ができるようなったら、それで満足か?というと、今度は「人に認められたい」という思いが出てきた。それはもともと人が持っている欲求。貧しい時代はそれより「食べる」「寝る」が優先されただけだ。それなりに生活できる時代になると、多くの人が感じるようになる。

「褒められたり」「評価されたい」「チヤホヤされたい」

なぜ、それを求めるか? というと、自己証明=アイデンティティの確立ができるからだ。自分の存在が認められる。必要とされることで「自分は生きて行く意味のある存在」と喜びとなる。逆に「俺なんか誰も必要としない」「私なんかいなくていいの」と思うと辛く、苦しい。だが、現代はそんなふうに必要とされたり、賞賛されたりし辛い時代だ。

学校生活では成績がよくないといけない。評価されるのは一部の生徒だけ。そんな彼らよりも、もっと優秀で彼らの行けない一流大学に行く連中がいることを知っているので満足できない。あとは運動会や体育祭で活躍するくらいしか注目されない。

会社員になっても代わりが効く仕事がほとんど。1人の活躍で大きな事業を成し遂げることは少ない。集団の仕事。個人は評価されにくい。特に女性は会社で認められ、褒められることは少ない。日本社会はまだまだ女性に厳しい。主婦になっても褒められることは少ない。夫を懸命に支えても次第に当然のような顔をするようになる。

となると小学校時代に運動会で一等賞になるとか、学力テストで1番になるとか、そんなことでしか評価され、褒められることがない。子供が「ロボットの絵を上手に描けた!」といっても

「あら、上手ね。でも、勉強もしっかりするのよ」

と大人たちに言われてしまう。今の日本。結局、褒められ評価されるのは一流大学に入学したとか、一流企業に就職したということくらい。ま、オリンピックで金メダルというのは評価されるが、それはさらに手の届かない世界なので置いておく。つまり、日常を暮らしていて褒められたり、評価されることが極めて少ない。そのために多くの若者が自己確認=アイデンティティの確認がし辛い。

分かりやすくいうと、「自分なんかいなくてもいい。必要とされていない。ダメな人間だ。何の役にも立たない」というコンプレックスに苛まれ、悩み、苦しむ。生きている実感がない。「私なんか死んで方がいいんだ」という感覚。最近の「エヴァンゲリオン症候群」も近い。喪失感とも言える。勉強もできない。運動もできない。そんな若い人たち。でも、そんな彼ら、彼女らが一気に挽回できるものがある。何か?

芸能人になること。

俳優や歌手や作家。そんなものになれば多くの人に愛され、賞賛され、尊敬され、チヤホヤしてくれる。そう、若い人たちがよくいう「有名になりたい」というのは、そういう状態。だから「芸能人になりたい」となるのだ。アイドルになり、男の子にキャーキャー言われたい。テレビに出られる。コンサートでステージに立つ。そんなことでアイデンティティを確認できて、生きている実感を持てる。芸能人志望の多くは無意識にそれを求めているのである。芸能事務所のマネージャーはいう。

「事務所に入れてほしいという若い子がよく訪ねてくる。何をしたいの?と聞くと、有名になりたいという。歌手だ。俳優だ。タレントだ。いう前に有名になりたいって…..」

その言葉に全てが現れている。しかし、大きな間違いも分かる。その子たちは芝居をしたい。歌を歌いたいではなく、有名になることが目的。そこに現代の病巣を感じる。自己肯定されない社会。学校。家庭。その中でアイデンティティーを確認できない子たち。芸能人になることで、圧倒的な肯定をされたい。近所や学校レベルでない評価を受けたいーそこまで病んでいるということだ。

ただ、そんな子たちは与えらえるだけの教育しか受けておらず、そんな苦しみを癒そうとするときも、同じことを繰り返す。こう考える。事務所に入れば、いろいろしてもらえて、レッスンがあり、売り込みをしてくれて、テレビや映画にすぐ出られる。学校と同じように、与えてくれると考える。

つまり、自分が努力して何かになるのではなく、事務所が全てしてくれると考える。そして「自分なんか大したことない。誰も必要としていない」という寂しさを払拭して、バラ色の日々が掴めると思っているのだ。社会が産み出した自己否定に悩む子たちが、教育によって努力することさえ学んでいないのだろう。

そしてこのシリーズを最初から読んでくれている人はもうお気づきだろう。俳優や歌手。作家やミュージシャン。それらの仕事はそんな動機で、そんな過程でできるものではない。しかし、以前にも書いたようにテレビを見ていて

「この子ブス。私の方がまだ可愛い...」

「この俳優下手だなあ。俺の方がまだ演技力あるよ!」

てな勘違いで「私は出来る!」と思い込んでしまう若い人が多い。が、それで通用するものではない。何度も、何度も書いて来たが、「表現」という仕事はインプットだけではなく、アウトプットが大切。その訓練の繰り返しを何年も何年も続け磨いて実力を付ける。

さらに鋭い感受性が必要。他人の悲しみを自分のこととして受け止めてしまうような、日常生活が送りづらいほどの感性を持つ人が「表現」の仕事に向いている。みんなにキャーキャー言われたい。何でもいいからテレビに出たいということではないのだ。

しかし、そんな動機で芸能事務所に押しかけてもまず、入れてもらえない。万が一、コネで入っても続かない。全てを事務所がやってくれてデビューさせてくれるーなんてことはない。当然、テレビ局だって、多少可愛いだけで何もできない子を番組に出すことも出来ない。優れた技術がある。ずば抜けた表現力があるからこそドラマや歌番組に出演させるのだ。が、その手の若い子たちは

「大手事務所に入れば番組に出るのは簡単!」「一流の講師のレッスンを受ければ、すぐにうまくなる!」

とか、安易に考えている。それも月日が答えを出す。そう簡単にデビューはできず。1年やそこらレッスンをしただけではものにはならない。少しばかり可愛いだけでデビューできる時代でもない。こうして夢多き「有名になりたい」子たちは挫折していく。そしてこういう

「世の中、甘くない。芸能界は厳しい....」

違う。全て事務所がやってくるとか思い込み、自分でも通用すると勘違い。実力を伸ばそうとか、これをやりたい!ということもなく、「有名になりたい!」ということだけでは、最初から無理なことは分かりそうなものだ。

大切なことは「芝居がしたい」「歌が歌いたい」「物語を書きたい」そんな思いだ。「有名になりたい」ではダメ。「CMタレントになりたい」という子もいるが、本来CMは有名な俳優が出るもの。あるいは売り出し中の若手を出すもの。これも「CMタレントになりたい」ではなく、「CMに出て有名になりたい」というのが本当のところだろう。いずれにしても大切なのは何をしたいか?である。それ以前に時代が専門化(?)している。

70年代。山口百恵の時代は歌歌って、ドラマやって、映画に出て、CMに出るということがあった(百恵ちゃんはテレビでは「赤い」シリーズが高視聴率。映画では友和コンビ作品がヒット。歌は毎回ベストテン入り。CMでも活躍した)が、その後、80年代。松田聖子は歌とCMでは活躍したが、ドラマと映画はイマイチだった。

さらに90年代。宮沢りえの時代になると、CMにはたくさん出ていたが、ドラマ、映画、歌では大ヒットが出ていない。同世代の子たちも皆同じ。つまり、歌手は歌手。俳優は俳優というふうに仕事が分業されて来たのだ。歌は下手でも可愛いから!とレコードが売れた時代ではすでにない。

そんな中、歌でも、俳優でも、何でもいいから有名なりたいでは通用しない。もう少しいえば俳優業。演技というのは誰にでもできると思われがちなので、そんなふうに勘違いする若い人がいるのだろう。でも、演技はスポーツと同じ。アイススケートと同じ。技術を磨き、センスも必要。

絶え間ない練習と挑戦。それによってなし得る表現なのだ。ま、野球でも、ボクシングでも、レスリングでも同じだが、熟練された技術なのだ。それを有名になりたい!という動機でスタートすること自体。無理がある。が、絶対に無理か?というとそうでもない。

「有名になりたい!」「女にモテたい!」「男の子に騒がれた〜い」

という理由でスタートした人たちがいる。が、そのために努力した。練習し、腕を磨いた。若い頃からステージに立ち演奏。自分たちで歌詞を書き、曲を作った。それがビートルズだ。ま、天才たちの話をしても…と思うかもしれないし、ジョン・レノンはバンドのきっかけを「モテたかったから」と言いながら、そうではない理由もあったとは思う。が、動機のひとつだったのではないか?

バカにした奴らを見返してやろう。そんなコンプレックスがエネルギーになったはずだ。実際、ジョンは父親と仲が悪く、母は早くに死んでいる。家庭も貧しかった。日本の矢沢永吉もこういう

「金持ちになりたかったから!」

自伝「成りあがり」を読むと彼も少年時代貧しい生活。不満と怒りの少年時代。それらがバネになっているのだろう。先の子たちと何が違うか? ハングリーさではないか? 

「てめえ。今に見てろよ!」

という気持ち。先の若い子たちは、有名になることで喪失感から逃れようと考えたが、そのための努力を事務所任せにした。ジョンや矢沢は貧しや怒りをエネルギーにして楽器を買い、練習し、ステージに立つ努力をした。時代の差かもしれない。与えられたことをすればいいだけの教育で育った若い人たち。まだ、混濁と喧騒が続いていた時代の彼ら。

でも、時代のせいだけではない。ジョンや矢沢は音楽が好きだった。先の子たちは「有名になりたい」だけが理由だったことが大きいと思える。大事なのは演技がしたい! 歌が歌いたい! 小説が書きたい! という熱い思いだ。もし、本当にそうなら

「バイトあるんで、オーディションには行けません....」

と絶対に言わない。「時間がないのでまだ小説は書いてないんだ。余裕ができたら書きたい物語があるんだけど」とか言わない。歌いたいなら毎日カラオケルームに行く。「まだ、本気だしてないですから...」なんて言い訳はしない。

本当に自分が好きなことを、寝る時間も惜しんで続けてしまうことだから、上達する、うまくなる。磨かれる。それをまず考えてほしい。「有名になりたい」という思いもあり。エネルギーになる。でも、次に

「だったら本当に芝居が好きか?」

と考える。そしてすでに実践しているか? まだ何もせずに「俳優になりたい...」と言っているのなら、それは憧れでしかないのかもしれない。考えてみてほしい。いや、自分はダメかもしれない.....でも、俳優になりたい!という人もいるだろう。次回はそんな人たちへの助言をさせてもらう。

(つづく)

DmngW2aUwAASg97.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

俳優と脚本家は似たような仕事? =シナリオを書くとき、ライターは何を考えているのか? [映画業界物語]

21762707_1625879204153044_2802020678363866046_o.jpg

俳優と脚本家は似たような仕事? =シナリオを書くとき、ライターは何を考えているのか?

鋭い感受性がないと表現の仕事はできないーという話を書いた。俳優、歌手、作家、映画監督。表現の仕事をするなら皆、それが必要だ。が、先に書いたように日常生活を送れなくなるほど、鋭すぎる感受性を持っていると、業界では物凄い武器になるが、日常生活ではかなり苦労する。

そこまでの感受性を持ってないと表現の仕事はできないか?というと、そうでもない。あまりに無神経だとダメだが、そこそこでも、運がいい、身内に業界人がいる。2世である、性格がいい、ということでも、どうにかやっていけることもある。

映画監督の場合は繊細すぎると撮影現場を仕切ったり、スタッフをまとめたりがむずかしくなることもあるので、武闘派の監督も多い。ある監督は本当に感性の欠片もなく、ろくでもない作品しか撮らないが、仕切りができるのと、会社の人間に取り入るのがうまいので監督業を続けている。しかし、素晴らしい作品を撮る監督たちのほとんどは、繊細な感受性を持ったアーティストであることが多い。

今回は先の話の補足をする。監督の話より、脚本家の話をした方がわかりやすいだろう。監督業は荒くれ者のスタッフ(でないタイプももちろんいる)をまとめ、率いて行くという仕事があるので、繊細なばかりではいけないが、脚本家というのは1人で執筆。クリエイティブな作業なので、俳優業に近いところが多い。あるベテラン俳優にこう言われたことがある。

「太田監督は俳優の生理をよく理解している。どこで本番に行けばいいか? いや、この俳優はもう少しリハした方がいいとかよく分かっている」

嬉しい話だが、僕は俳優をやっていたわけでもないし、役者とは親しく付き合わないようにしているので理解がある訳がない。が、実は脚本を書く作業が、俳優業の感覚が近いのだ。例えば脚本を書くとき、机の上で

「主人公は高校生...。ある日。クラスに転校生がやってくる...。可愛い女子高生...。いや、可愛くない方がいいか?」

とか考えながら書くと思われがちだが、そうではない。それでは思いの伝わる物語にはならない。過去に見たドラマを切り取り、組み立てているだけだ。物語を作るというのは、その世界に入り込み。主人公の気持ちになり、あるときは神の視点になり、事件と対峙して、その世界で人生を送るのに近い。想像を超えて、妄想の世界といえる。

頭で考えていてはいけない。それと「俳優が演じる」ということ。とても似ている。演じるのではなく、その役自身に成りきる。それには豊かな感受性が必要。他人の悲しみを自分のこととして涙するような資質が大事なのだ。それがないと、

「へー大変だったね〜。でも、がんばってよ!」

てな励ましをする。他人事としか捉えられない人では俳優業のみならず、表現の仕事は難しい。が、僕の場合。そんな豊かな感受性があるとは思えないので、シナリオを書くときは苦労する。いつも言うように脚本の霊が降りてくるのを待つ。携帯を止め、ネットもオフ。メールは見ないようにする。極力、外出しない。友達と会わない。スタッフとも話さない。コンビニの店員とも言葉を交わさない。執筆する作品に近い映画のDVDを何枚も観る。新作のイメージに合う音楽を流しながら、シナリオを書く。

最初の数日は全く筆が進まない(パソコンなのでキーが進まない?)が、脳の能力を総動員して物語を構築していく。「明日にかける橋」のときは12年前に名古屋のサウナで思いついたアイディアが元だった。妻にも娘にも嫌われている親父がタイムスリップして、昭和40年代へ。その年に交通事故で死んでしまった中学時代の同級生ー初恋の人ーと再会。事故から救うために奔走するという物語だった。

これを最近得意のパターンに当てはめてみる。主人公を女子高生にして、交通事故は弟にする。ここ何年も考えていた平成という時代。そして教育問題。親子の絆。そんなことを思いながら、考えていると、僕自身が物語を進めるのではなく、主人公たちが勝手に動きだす。

前にも書いたが、母親は田中美里さんイメージ。先生は藤田朋子さんイメージ。主人公みゆき=高校時代は少しキツめのロック少女。前回の「向日葵の丘」の多香子(芳根京子)のような明るさや大らかさはない。そして大人のみゆきは全てを受け入れ、希望を失った女性。お父さんは関西人。そんな家族がどんな生活をし、どんな会話を交わすのか? 作るのではなく、推理していくと物語ができていく。

そんな作業ができるのは、僕も多少の感受性があるのだろうとは思うのだが、気をつけてないと、その感覚がすぐに去ってしまう。電話で話しただけで現実世界に引き戻される。コンビニで言葉を発しただけでアウト。「食パンありますか?」だけでダメ。みゆきたちの住む1989年の世界から現代の東京に戻ってしまう。だから、朝起きてから寝るまで、ずっとドラマの世界を想像し続ける。作るのではない、推理するのだ。

「みゆきはどの科目が好きだったのかな? 音楽は何を聞いていたのかな?」
「ローリングストーンズよりTHE WHOだよな? どの曲が好きなんだろう?」 
「やっぱマイゼネレーションかな?」
「四重人格も好きそうだよな」
「徹夜で2枚組聴いてそうだし」
「日本の歌だと誰かな?」
「斉藤由貴や南野陽子じゃないよね」
「んー尾崎豊かな? じゃあ、好きな曲は? Forget-me-not?」

そんなことを風呂に入りながら、顔を洗いながら、飯を食いながら考え続ける。その辺は直接シナリオには出て来ない部分だが、考える。この作業。実は俳優の役作りと同じ。俳優はシナリオをもらうと、ストーリーを把握し、セリフを覚える。そして同じような過程で演じる役の趣味や志向を考える。そうやって、その人物に近づいていく。THE WHOが好きな役なら実際にCDを聴いてみる。歌詞を読み、どこに共感したか?考える。

今回、高校時代のみゆきを演じる越後はる香にはTHE WHOと尾崎豊のCDを渡し、毎日聴くように伝えた。前回の「向日葵の丘」のときは芳根京子らメインの高校生3人には1983年に流行った歌をCDにして宿題とした。もちろん、シナリオを書くときに僕自身も当時のヒット曲を聴く。自分を1983年に戻すーまさにタイムマシーンーそこからがスタートだった。当時の風や空気を思い出すことが大事。その頃、住んでいたのは横浜の白楽。実際に行ってみる。記憶を手繰りよせるために当時の映画やドラマも観る。

そんなことをしながら、いつも「力石徹みたいだなあ〜」と思う。「あしたのジョー」の有名キャラ。自分を追い詰めるために倉庫に閉じこもりボクシングの練習をした。それを思い出す。同じことをした有名俳優がいる。勝新太郎。「座頭市」の原点となる「不知火検校」で盲目の主人公を演じるために、彼は目隠しをしたまま一軒家に長期間住み。生活をしたという。目が不自由な生活を体得するためだ。その意味でもやはり脚本家と俳優は似たところが多い。

しかし、そんなことをしていると、やはり日常生活がおかしくなり、社会からズレていく。今では僕のそんなやり方を多くが理解してくれているが以前、まさに過去の世界に戻っている(?)ときに、プロデュサーが電話をしてきたことがある。当時から電話には出ないようにしていたのだが、携帯ではなく、家電の時代。当時の留守番電話はメッセージを録音すると、音が出て部屋にいると聞こえる。

「えーーー***社の***です。どーですかね〜。とりあえず、出来たとこまで読ませてほしいんですけど〜」

構築した過去の世界が音を立てて崩れていく。現実に引き戻され、また何日もシナリオを書けない。全て最初から。霊を呼び出すところからやり直し。まあ、「電話するな!」と当時は言ってなかったのだけど、許せなくて、メッセージ途中で受話器を取り

「てめーー電話しやがってーーー。このバカ。何考えてるー」

と怒鳴ってしまった。深夜の電話でもなく、そのPにとっては仕事。先方から見ると

「この監督。異常だなあ。電話するの当たり前だよ。仕事だから.....」

と思うのだが、脚本を書くとはどういうことか? 製作会社の社員である彼には分からない。いや、ほとんどの人がそうだが、創作するということが分からない。

俳優も同じ苦労がある。もし、アルバイトで生活を立てながら俳優をしている人ならどうするのか? コンビニで働きながら、役作りをしていて、上の空になる。お客が「すみません。これください」と言っても「うるせー」と僕のように答えたら大変なことになる。「だったら、バイトが終わってから考えればいい」と言われそうだが、起きている限りずっと考える。考え続ける。役作りも、シナリオも同じ。

「午後5時だから終了! あとはプライベートです」

それで出来る仕事ではない。会社やアルバイトでのルールや価値観は通用しない。1時間働いたから時給900円とか「勤務時間、もう終わったので」ということではない。つまり、まともな世界から見ると、俳優も脚本家も(作家や漫画家も)「おかしいんじゃないか〜」と思われてしまうのだ。1時間いくら。9時から5時。そんなことではない世界。

最近でこそ、5本も監督作を撮ったので「まあ、監督する人は変わっているよなあ」と思ってもらえるが、以前は本当に大変だった。僕の場合。特に地方映画が多いので、地方で働くカタギの方々と接することが多い。あれこれ批判を受けたものだ。

「常識がない」「感謝が足りない」「意味が分からない」「わがままだ」「失礼だ」

この辺は先の創作過程での問題ではなく、映画界と一般との価値観、慣習の違いからくるもの。9時5時で仕事をする、例えば公務員の方から見ると、映画撮影は本当に信じられないことの連続。それ以外にも、先のように電話に出ない。メールの返事が来ないということもあって、いろんなお叱りを受けたものだ。

そもそも、東京の生活と地方の生活からして違うのに、一般社会と映画界。さらには創作作業というもの。理解してもらうのはかなり難しい。多くの人は

「才能があるから脚本が書ける」

と思っている。まさか妄想の世界に漂いながら物語を作っているとは考えない。ただ、「監督や脚本家は変人!」と思われがちなので、多少は許される部分がある。だが、俳優はそうはいかない。ドラマや映画で正義感の強い、真面目な役を演じたり、良き妻の役が多かったりすると、一般の人は本当にそんな人だと思い込んでしまう。

また、俳優というのは大変な仕事で、あらゆる人に気を使わねばならない。スタッフ、ロケ地の方々。先輩俳優。撮影中は神経がすり減るほど気を使う。その上で、芝居をするのだ。役作りのために集中していても、地元の人が「見ましたよ!この間のドラマ」と声をかけてきたら「ありがとうございます!」と笑顔で答えなければならない。

無視したら、いろいろ揉める。Twitterで悪口を書かれるかもしれない。気分を害した人が撮影の邪魔をするかもしれない。でも、本音は「ほっといてくれよ〜芝居してんだ」なのだ。集中できないというレベルではない。僕自身でいえば執筆中。そして編集中に同じことがある。こんなことがあった。メッセンジャーで連絡して来た友人がいる。

「監督。おひさしぶり。今度、飲み会します。来ませんか〜」

メッセンジャーというのは、開いてなくても、パソコン画面に表示される。それ見てブチ切れて、「うるせーーーーーーー。今、いいところなんだよーー!!!!許せねーー」と、その友人をFacebookから「友達」削除したことがある。彼は何も悪くない。僕がネットを止めておけばよかったのだ。でも、想像の世界に入っているともう普通ではない。下手したら、パソコン自体を投げつけ壊したかもしれなかった。

そんな状態が俳優にとっては撮影現場なのだ。もちろん、いろんなタイプがいて、本番直前まで冗談をいう人もいる。が、そうではない人も多い。だから、監督の仕事はいかに俳優に集中させて、芝居をやりやすくするか?を考えることだと思っている。

だから先のベテラン俳優さんは「太田監督は俳優の生理をよく分かっている」といってくれたのだろう。いずれにしても、表現の仕事とはそういうもの。だから、理解されにくい。でも、そんなビビットな感受性を持つから俳優たちは素晴らしい演技ができる。

ただ、鋭過ぎる感受性があると、本当に日常生活が生き辛い。有名人やアーティストに気難しい人が多いのは、感じ過ぎる感性を持っているので、一般の人が何でもないことで耐えられなくなるからだ。でも、まわりは理解できない。「芸能人って変わってるよな?」「我がままだ」「よく分からない」と思われる名の通った人なら「だから芸能人」と解釈されるが、無名だと「あいつ、頭おかしいんじゃないか? 異常だよ」ということになる。難しいでしょう?



DmngQaRV4AAmdkz.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

俳優=心から血を流しながら戦う仕事。芸能の仕事をすることが本当に幸せなのか? [映画業界物語]

DSCN1946.jpg


俳優=心から血を流しながら戦う仕事。芸能の仕事をすることが本当に幸せなのか?


「才能なんてない」ー「けど、表現の仕事をするには鋭い感受性が必要」と以前に書いた。そのことをもう少し説明する。感受性というのは美しいものを美しいと感じる力。悲しい。苦しい。可愛い。怖い。という感情。それが人一倍強いと、友人の辛い話を聞いて一緒に涙する。酷い話を聞けば一緒に怒ってしまう。ある意味で純粋。そんな感性が表現の仕事では大事だ。

が、この日本という国は「感情を表に出すのは大人ではない」という発想がある。簡単に泣いたり笑ったりするのは子供だという。こんなことをいう人もいる

「女子供は泣いても、この映画で大人は泣かないよ」

これは「大人の男性は厳しく映画を見るんだよ。シビアだよ」と上から目線で言っている訳だが、実のところは感受性が鈍くて、硬直していて情緒的な部分を感じとれなかった。だから感動できない。泣けないということが多い。なのに「大人の男性」=「シビアで厳しい」と自慢しているのだ。

その言葉にある女子供こそ感受性が鋭い。男性は大人になると麻痺し、鈍化していく。ほとんどの男性が会社というところで、長年に渡って仕事をするせいだろう。これはあとで説明する。だから、歌舞伎座や芝居小屋に行くと女性が圧倒的だ。感受性が鈍くなった大人の男性は舞台や音楽に興味を持てなくなる。

そもそも日本という国で感受性を育てる&磨くというのはなかなか大変。それどころか、鋭い感受性を持っていると生きて行くのが大変。会社や学校では、泣いたり、大笑いしたりできない。それは恥ずかしい行為とされる。感情を抑え、ロボットように仕事をする。それが日本でいう大人の振る舞いなのだ。無神経でいる方が生きやすい。

だが、そんな感受性が武器になるのが芸能界であり、映画の世界。表現の世界だ。鋭い感性を持っていないと戦えない。知識や経験だけでは生き残れない。ところが、先にも説明したように、世間では感受性を押さえつけ、麻痺させるようなことが横行している。それを磨き、より感度を高くするということは現実社会で生きずらいということに繋がる。

もう一言いえば、そんな社会に染まってしまっているのに、俳優になりたい。歌手になりたい。という若い人たちが多い。固まった感性は簡単に子供頃のようにはならない。それどころか表現の仕事をしているのに、日本的な無神経さを実践してしまう子達も多い。見ていて辛いものがある。

もうひとつ悲しい現実がある。鋭い感性を持っているが上に苦しむことになる人もいること。例えば、「ゴッドファーザー」等で知られる名優アルパ・チーノは演じた役から抜け出せなくなって、撮影終了後、何ヶ月も苦しむという。演技ではなく、役本人になってしまったのだ。「ダークナイト」のヒース・レジャーはあのジョーカーを演じたがばかりに、死に至ったと言われる(実際は麻薬が死因)あの演技を見て感じた。

「死んじゃうよ…」

全身全霊で挑んでしまう。そんなこともあり、ハリウッド俳優はドラッグに走ったりするのではないか? 感受性が強すぎていろんなことを感じてしまい苦しい。解放されたい。救われたい。そんなこともあるのかと思える。もちろん褒められたものではない。違法行為だ。僕の映画に出てもらった有名俳優にももの凄く繊細で、神経が切れてしまうのでは?と思えるほどの感性を持った人が何人もいる。

でも、だから、あんな素晴らしい演技ができる。逆にいうと、普通の日常を送れないような繊細な感受性がある人が真似のできない演技ができるということ。でも、それは日常生活を送るのが困難でもある。繊細過ぎて、すぐに傷つく。立ち直れない。今の時代は無神経な方が生きやすい。そんな人たちが自分の能力を発揮できるのが芸能界であり、映画の世界なのだ。そう考えると分かり易い。

もちろん、それらの世界でも無神経だったり、ただ見栄えがするだけの俳優も多い。が、そんなタイプは次第に淘汰されていく。ただ、悲しいのは物凄い感受性を持ち、素晴らしい表現ができるが故に破滅する人も少なくない。先のヒース・レジャーがそうだし、日本ならロック歌手の尾崎豊がそんなタイプだ。あるテレビ番組でお笑い芸人だった上岡龍太郎がこんなことを言っていた。

「芸能人になるには、繊細で打たれ強くなくてはいけない」

その通りだと思った。繊細でないと表現はできない。歌でも、演技でも、創作でも同じ。しかし、繊細過ぎて傷つき立ち直れないとアウト。批判、否定、誹謗中傷、妬み、羨望の連続の世界でもある。だから「打たれ強くないといけない」しかし「繊細」と「打たれ強い」は相反するもの。「無神経」=「打たれ強い」は分かる。「繊細」は「打たれ弱い」だ。その反対の資質を持つのは本当に大変。やはり、芸能界で生き残る厳しさを感じる。

例えば芸能人がよくドラッグで逮捕される。「芸能人だから、ドラッグやるんだよな〜」と安易に考えがちだが、何かそんなものに頼らないと生きていけない精神状態になるということだろう。それを正当化はしない。が、アル中もよく聞く。少し前に事件になった人気グループのメンバーもアル中で、入院までしていた。これも弁護する訳ではないが、感受性が鋭い者があれこれ批判され、いろんなしがらみの中で、苦しみ、耐えきれなくて、酒に頼り、アル中になったのだろう。また、ドラッグや酒以外でも新興宗教に走るタレント。これもワイドショーで見ていると

「なんでまたあんな怪しい宗教に?」

と思うが、他に救いを求める先がなかったのだ。ワイドショーでは放送されなくても、業界ではそんな話はよく聞く。皆、鋭い感受性を持っているにも関わらず、厳しい芸能界にさらされ、戦い、神経を切り刻まれるような仕事をするのだ。だから、いけないと分かっていても、その種に助けを求めてしまう。だが、結局はドラッグやアルコール、新興宗教に走ることで芸能活動ができなくなり自滅することが多い。

次第に心を病み。精神病にかかってしまう俳優やタレントもいる。過食症で太る。拒食症で激やせする。自殺。あるいは精神が壊れてしまう。おかしなことを言いだしたり、支離滅裂になったり。もともと繊細な人たち。アカデミー賞受賞の俳優ロビン・ウイリアムス(「今を生きる」「ミセスダウト」)も自殺している。誰もが認める名優。仕事依頼も多いはず。ギャラだって億単位。何の不満があるのか?と庶民には思えるが、あの素晴らしい演技ができる感性。僕らに想像できない苦しみがあったに違いない。

一般社会以上に厳しい競争のある芸能界だ。壊れてしまう人が大勢いる。特に若い女性にはそんな人が多いようだ。誰もが憧れの世界。有名になり、お金も入り、チヤホヤされて、いいな〜と思うのは、外から見ている人たちだけ。その内情は繊細なアーティストが血を流しながら足掻き続ける孤独な世界なのだ。しかし、今でも多くの若い人たちが「俳優や歌手になりたい!」と願う。知人のマネージャーはいう。

「有名になりたいんです!!!」

という若い女性が毎日のように事務所を訪ねてくるという。そんな子たちは数ヶ月で諦めていくのだが、それはラッキーだと思える。鋭過ぎる感受性を持ち、デビューできても、熾烈な戦いの中で、神経が切り刻まれるような思いをして仕事を続けることになる。

逆に鋭い感受性のないものは無力さを知り、誰にも評価されず、事務所に鳴り物入りで売り出してもらったとしても、消えていくしかない。でも、幸せなのはどちらだろうか? そんなことを考えてしまう。



41462138_2157935187614107_5101585570350497792_o.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

キャスティングってどんな風にして行うんだろう?=映画「明日にかける橋」の俳優はいかにして決まったか?❷ [映画業界物語]

43631690_2205448446196114_2925799702777561088_o.jpg

キャスティングってどんな風にして行うんだろう?=映画「明日にかける橋」の俳優はいかにして決まったか?❷

太田組作品のこだわりがある枠がある。関西弁キャラだ。そして大物俳優枠。僕の作品はどの地方で撮っても、あえてその地方の方言は使わない。理由は詳しく以前に書いたが、簡単にいうと、その町を観客が自分の故郷と感じてもらうためだ。

もし、方言を使うと観客は「**地方で起こった物語」という外部からの視点で観てしまう。それが必要なドラマもあるが、そのことで他人事になる。「へー、この街ではこんな事件があったのね?」という感じ。言葉も分かりにくい。それが標準語なら素直に見られる。次第に自分の故郷の物語に思えてくる。そう感じてもらうためには言葉で引っかかったり、距離を持たれるのは大いにマイナス。大林宣彦監督の「尾道シリーズ」も同じ手法。そこから学んだ。だが、関西弁を話すキャラを1人だけ入れる。

「ストロベリーフィールズ」「青い青い空」では波岡一喜君。「朝日のあたる家」では山本太郎さん。「向日葵の丘」では北原雅樹君&斎藤とも子さん。そして今回はお父さんを関西人にしてみた。ハリウッド映画ではよく1人だけイタリア後訛りの登場人物が出てくる。字幕スーパーで見ると分からないが、そのキャラがコミックリリーフだったりする。

陽気なイタリア人、或いはイタリア系のキャラを入れることで物語にアクセントを付ける。「スターウォーズ」でいえばC-3POは米語ではなく英語で話す。そんな風にして言葉でキャラ付けして、同時にドラマにアクセント付けるという手法。日本映画でこれをしている監督は少ない。

それに今回は地方映画。何でもかんでも、その地域のものだけで固めるとPR映画色が強くなる。そこに別の地域の要素を入れることで広がる。そんなことでお父さんを関西の人にした。もうひとつは「一番泣けるシーン」と言われた父と娘の語らい場面。お堂の前の。あのセリフを標準語でいうとカッコよくなり、情の部分が伝わりにくくなるんじゃないかと不安だった。関西弁に関わらず、方言というのは情や優しさが出る。その意味もあってお父さんを関西人にしたのだ。

さて、キャスティングだ。関西弁となると、絞られてくる。というのも、関西人は下手な関西弁を強硬に許さない。ちょっとアクセントが違うと「アカん!聞いてられへん!」と怒り出す。これ関西だけの特徴。だから遊説で必ず方言を入れる、あの小泉進次郎も関西だけはそれをしないという。よく理解している。ちなみに僕も関西人なので、下手な関西弁を話す俳優を許せない。キャスティングは当然、関西出身の人だ。

39064395_2103620716378888_1003995631036923904_o.jpg

キャスティング・ディレクターと相談。いろいろ候補を上げる。お笑い芸人も何人か上がったが、バラエィをメインでやっている人は俳優業をアルバイトと考えがち。手抜き演技をよくやる。それは避けたい。リストアップした中で、一番興味を引いたのがあの人。

板尾創路さんだ。元々はお笑い芸人だが、最近は俳優業がメイン。なんといっても「空気人形」は最高だった。あの哀れな独身男の感じを出せる俳優はなかなかいない。あの哀れな感じ。まさに「明日」の親父に出したかった部分。といことで板尾さんにオファー。

時間がさほどかからずに、田中美里、藤田朋子、板尾創路さんの事務所からオーケーの返事が来た。皆、こう言っているという。

「ぜひ、やらせてほしい!」

そんなメッセージ付きだった。ありがたい。今回の「明日」は低予算映画。オファーした3人はゴールデンタイムに活躍する超多忙な俳優たち。そもそも僕なんかが依頼できるランクの俳優さんたちではないのだ。にも関わらず、全員から承諾!を頂いた。毎回、依頼しながら何で??と思う。

さて、次は大物枠。以前に出て頂いたのは松坂慶子、長門裕之、津川雅彦と、これまた凄い顔ぶれ。本当に無謀なオファーをしている。でも、なぜか? 超大御所の俳優さんも僕の書いたシナリオを読むと「出たい!」といってくれる。恐縮。今回の大物枠。考えた。

大切なのは戦争を語れる人。高齢者になるので、なかなか難しい。が、まさに、そのことを訴えている人がいた。宝田明さんだ。先の知事選に出ようかと検討していた話。新聞で読んでいた。憲法改正についてもニュース番組で語っている。早々に依頼。承諾を頂く。

だんだん、枚数が少なくなってきたので急ぐ。通常は主人公を演じる大人の俳優を選び、その人に似ている子役を選ぶ。が、僕の場合。前回の「向日葵の丘」でもそうだが、常盤貴子さんのオーケーをもらう前に、高校時代を演じる芳根京子をオーディションで選んでいる。今回も同様に先に高校時代を演じる越後はる香を選んだ。大きな理由がある.....。(つづく)



41462138_2157935187614107_5101585570350497792_o.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

俳優業—そして表現の仕事を目指す人たちへ。それは本当の自分を見つける旅 [映画業界物語]

23471951_1688004484607182_8579644313429729606_n.jpg

俳優業—そして表現の仕事を目指す人たちへ。それは本当の自分を見つける旅

俳優。及び「表現」の仕事を目指す人たちへの覚書。好評なので、もう少し書く。何度も語ったことだが、俳優でも、歌手でも、作家でも、映画監督でも、漫画家でも、表現の仕事をする人たち。特に若い人たちにいえること。インプット作業ばかりで、アウトプット作業をしないことでの弊害が一番悲しい。

つまり、俳優でいえば映画やドラマ、舞台を観る。数観ると目が肥えてくる。見る目が育つ。それは脳科学でいえばインプット作業により育ったもの。でも、見る目ができたから、自分でそれができるか?は別だ。それはアウトプット作業の繰り返しで、その能力が育つ。それはインプット作業より遥かに大変。

ピアニストなら毎日、ピアノを弾き、練習する。幼い頃から何年も続ける。そのことで脳がその行為を体に伝達。それを繰り返すことでよりスピーディに、その行為ができるようになる。バイオリンでも、バレーでも同じ。演劇も同じだ。観ているだけではうまくならない。繰り返し演じる。いろんなパターンで演じてみる。そのことで脳が考えたことを体が再現できるようになる。それが演技が上達するというメカニズムなのだ。

それをインプットばかりしている俳優の卵たちが多い。アルバイトばかりしていて「いつか俳優になってブレイクする」と夢見る若い人も多い。「チャンスさえあれば、俺はできる!」と思い込んでいる。が、実際、芝居をさせると、素人レベルであることがほとんど。インプットばかりしているとこう考える。

「昨日のドラマの女優。酷いねえ。どーせ事務所の力で出演したんだろうけど。私の方がマシねー」

自がプロで通用すると思い込む。「私は実力がある。即戦力だ」と思い込み、努力しない。大手の事務所に入ればすぐに仕事があると思う。実際に芝居をすれば自身の力を知るのだが、結局チャンスは掴めず挫折するのがほとんど。

「その素質を鍛えれば、何とかなるのに〜」と思う若い人たちもいた。が、多くは自身過剰と勘違いで努力もしないまま、消えていった。俳優の卵だけではない。このシリーズに登場した脚本家志望の後輩も同じ。ヤクザの店でバイトして

「この体験をネタにシナリオ書けば、凄いものが書ける!」

といっていたが、結局書こうとはせず、その店のバイトから正社員になった。その後、彼が脚本家デビューしたという話は聞かない。監督やPの飲み会を聞けば駆けつける無名女優。製作会社に営業もかける。が、彼女に必要なのは演技力を磨くことだ。演技力がないから依頼が来ない。そのことに気づいていない。

「まだ本気、出してませんから!」

それが口癖の25歳。演劇学校に通っている。が、彼もまた消えた。映画監督志望なのにシナリオも書かないー学生映画も撮らないー友人の作品を批判してばかりいた後輩もいる。20年後に再会したが、未だにシナリオを書いていなかった。彼ら彼女らの問題点は同じ。高いプライドだ。

「私には力がある。テレビに出ているタレントより実力がある」

そう思い込んでいる。詰まらない仕事はしない。俺がやるときは、それなりの場で!とか考えるから、余計に何もしない。月日だけが過ぎていく。

その間に実力を磨くこともできたのに、バイトバイトで過ごしてしまう。そして彼らの多くは「才能があればやっていける」と信じる者もいる。でも、才能なんて存在しない。何度も書いたように「鋭い感受性」を持つ者が、表現力を磨き、養い、育て、年月をかけて力を付ける。その仕事振りを見て、努力しなかった人たちが「才能あるね」というのだ。それに気づかずに

「俺には才能があるはず。いつか認められる」

とバイトをして、半年に一度の舞台公演だけで何年も過ごしてしまう。展開があるわけもなく、やがて「俺の努力が足りないんだ、、、」とは思わず、こう考える

「世の中、甘くないんだ....」

こうして多くの夢多き若者は諦め、消えて行く。そんな人生をこの30年にどれだけ見て来たことか? だから、若い人たちが同じ轍を踏まないようにこんな記事を書いている。

自分の力を試すこと。なぜしない? 演じる。書く。作る。奏でる。歌う。まず、それをすることで自分の実力を知ることができる。そしてまず「自分が大したものではないこと」を知ること。最初からできる奴なんていない。

どの分野でも素質がある奴はいる。成長が早い者もいる。学びは遅くても大成する人もいる。自分は何が得意か?何が苦手か? 何が足りないか? 実践しながら、そんなことを考えていくことが大事。また、少し僕自身の話をしよう。

「太田監督の映画は皆、泣ける」

そう言われる。ありがたいことだ。でも、すぐ真に受けないで映画館に行き、観客の反応を見る。劇場の壁にもたれてスクリーンを見ず、観客の反応を見る。狙ったシーンで笑うか? 泣いてくれるか? それを確かめる。うまく行けばオーケー。無反応なら反省。

いろんな劇場で、いろんな年齢の客で確認する。「映画で泣けた」というと安易に「あの監督は才能あるからなあ」という人もいる。それは違う。先に説明した「才能」なんて存在しない。

感動—を演出するとき、泣ける物語を作るだけではダメだ。それを演じられる俳優。うまいだけではダメ。いろんな背景を考えて選ぶ。次にロケ地。その会話をするにふさわしい場所はどこか? 森で話すと泣ける会話もあれば、都会で話すと心に染みる会話もある。

次に朝、昼、夕方、夜のいつがいいか? そしてお天気は晴れ、雨、曇り。風? 季節は? 春夏秋冬? そして撮影法は望遠? 広角? そして照明は? 明るめ? 暗め? 光の色合いは? その全てを考え抜いて感動シーンを作る。単に実力派の俳優を呼べばいいというものではない。

ただ、考え抜いて撮影しても、うまく行かないことがある。そのときは考える。何が悪かったのか? シナリオ? 俳優? ロケ地? カメラ? 照明? 考えて考えて考えて、別の機会にもう一度、挑戦する。それでうまく行けば、反省が正解だったわけだ。次はその方法論をベースにさらなるプラスを考える。それが演出だ。試行錯誤の連続と、反省、そして実践。

これは他の業種でも同じだ。俳優でも舞台で演じた。イマイチな評判。何が悪いのか? 反省。試行錯誤。そして次の機会に実践。その繰り返しで演技力が育っていく。それをせずにいたら、実力は伸びない。大きなチャンスを待っているだけでは表現力は育たない。

バイトをしているだけで演技派にはなれないのだ。学校で講師に教えられても、大きな成長はできない。実践が大事。舞台に立つ。カメラ前に立つ。もちろん、小さな役でもそんなチャンスはなかなかない。でも、それを何とか掴んで実践することがうまくなる秘訣だ。

自分にあって他人にないもの。それを探すことも大事。日本という国は皆、同じということを大切にする。皆がすると自分もしなければならないと思える。 「はみ出していけない。目立ってはいけない」そんな国だ。が、芸能の世界&映画の世界は逆だ。人と同じことをしていてはダメ。個性的で、自分らしさをアピールしなければ認められない世界なのに、おとなしくアルバイトをして

「店に迷惑かかるので、その日は休めません。オーディションは行けないんです」

なんていう。

「友達の結婚式があるので、その日の仕事は行けません」

と返事が来る。それなら俳優を目指したりせずに、カタギの世界で、会社員になった方がいい。何より表現の仕事は「仕事」ではない。金や名誉のためにすることではない。「生き様」だ。表現をせずに生きていけない人たちの集まり。「一生、食えなくてもやる!」「一生、主役ができなくても芝居がしたい!」そんな思いがなければできない。

「俺には当てはまらないな。いずれブレイクするからよ」

と思う人はその道でぜひ、成功してほしい。30年以上、いろんな人を見てきたが、それで成功した奴は1人もいない。俳優だけでなく、表現の仕事を目指す皆さん。ぜひ、一度、自分を見つめ直してほしい。自分が本当にしたいことは何なのか? 何が得意で何が苦手か? 自分を知らずして表現はできない。

もし、自分が表現の仕事に向いてなくても悲しむことはない。それはまっとーな社会人として生きていける証でもある。夢を追い、挫折しても、それはいい経験であり、のちの人生に役立つ。とにかく挑戦し続けること。

失敗しても、成功しても大きな財産になる。だから、まず、自分を知るところからスタートしてほしい。本当にほしいものは何か? 自分が望む人生とは何か? 有名なりたいのか? 芝居がしたいのか? そこからいろんなことが見えて来るはずだ。


37715297_2058969634177330_3542243087323496448_o.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

キャスティングってどんな風にして行うんだろう?=映画「明日にかける橋」の俳優はいかにして決まったか?❶ [映画業界物語]

31490501_1915770258497269_1376493364320403456_o.jpg

キャスティングってどんな風にして行うんだろう?=映画「明日にかける橋」の俳優はいかにして決まったか?❶

どの役を誰に演じてもらうか?それをキャスティングという。その役に合う俳優を選ぶのはもちろんだが、キャラは合うが演技力がイマイチとか、ギャラが合うか? 高すぎるとどんなピッタリな役でも諦めるしかない。

人気も大事。無名の役者をメインキャラにしても興味を持たれない。ただ、大手の映画を見ていると、人気俳優ではあるが、この役は無理だろう?とかいうのもある。役柄よりも人気を優先したのである。映画やドラマを観ていると、いろいろ感じることは多い。では、映画製作ではどんなふうにして俳優を決めていくのか?どんな順番で決めていくのか? 今回はその辺の話をしよう。

具体的な方がいいので、「明日にかける橋」の場合で説明するが、その前に一般的なキャスティングから紹介する。通常の映画は主役から決める。例えば文芸大作。

「やはり、高倉健さんがいい。じゃあ、親友役はやはり田中邦衛さん。では、会社の上司は大滝秀治さんだね? 奥さんは倍賞千恵子さん。いや、いしだあゆみさんかな?」

てな感じで決まっていく。いずれにしても主役を決め、そのまわりのメインキャストを決める。主役を決めることで物語のカラーが決まり、他の俳優を決めやすくなる。ところが我が太田組では主役はあとになることが多い。「えー何でそんなことが成り立つの〜」と言われそうだが、そこにはいろんな意味がある。順に説明する。

今回で言えば、田中美里さんが一番。というより、シナリオを書く段階から、主人公の母親は美里さんをイメージして書いた。前作「向日葵の丘」の素晴らしい演技。そのあとに拝見した美里さんの朗読劇「私の頭の中の消しゴム」で、彼女は悲しい役も似合うと確信した。

本来「田中美里」といえば強いイメージ。ゴジラと戦ったり、女検察官だったり。しかし、素顔の美里さんを知り、映画に出てもらい、むしろ傷ついた悲しい役が合うと感じた。その方向で心が崩壊していく悲しい母親の役を作り、美里さんのイメージでシナリオを書いた。いわゆる当て書きである。

P1044715b.jpg

次に、ここしばらく毎回、太田組に出演してくれる藤田朋子さん。その好意に甘えて、誰でもできる役をお願いしては失礼。「今回も面白い役を頼んできたなあ〜」と言って喜んで出てもらえる役をお願いしたい。が、前回の帰国子女はもうダメ。彼女が連ドラで演じている長子のようなキャラもダメ。

「こんな役は演じたことないよ。挑戦したいな!」

と思ってくれる役でないと依頼したくない。そんなことを頭の隅に置きながら、物語を考えていた。「明日にかける橋」は簡単にいうと日本版「バック・トウ・ザ・フューチャー」だ。細かく言えばかなり違うのだけど、その種のタイムスリップもので必要なのが、過去の世界での協力者。「バック」でいえばクリストファー・ロイド演じるドク。それをどうするか? 

僕はシナリオを書くときに、先に俳優を決める。というのも自分の中で作り上げたキャラの場合。それを演じることができる俳優がいないことがある。それに近い人では物語が成立しなくなることもある。もちろん、得意なキャラクターの場合は別だが、低予算映画の場合。作家の自由な発想であれこれ書くことで、キャスティングが破綻することがあるのだ。長くなるので詳しくはいずれ。

34050709_1959254034148891_7689079435185618944_n.jpg

とにかく、ドクが演じられる俳優を考えたが、なかなかいない。お笑いの人も考えたが、単なる変な人になりそうだ。また、クリストファー・ロイドという人は非常に芸達者な俳優で、アメリカのドラマ「タクシー」等でも大人気。場数を踏んでいる。彼のモノマネをするだけの演技だと、それこそ昔の「ひょうきん族」になってしまう。考えた。

では、女性はどうか? 女性のお笑い芸人? いやいや、それだと結局バラエティになる。「バック」はコメディの要素が強いが「明日」は文芸作品の色合いを出したい。笑いができて、文芸もできる人。そう考えて、保留にしていた藤田朋子さんを思い出した。彼女ならできる! こうして里美先生という役を考えた。念のためにいうが、この段階では田中美里さんも、藤田朋子さんにも連絡しておらず、承諾も得ていない。断られるかもしれない。2人とも人気俳優だし、超多忙。何本も続けて僕のような監督の映画に出てくれるだろうか?そんな不安も...。

そうしてシナリオがスタート。書きあがったものをまず、先の2人に送る。そしてメインキャラのキャスティング。まず主人公のみゆき。これは10代と30代の2人。父親。社長。この4人がメインキャラだ。本来なら主人公のみゆきを決めるのだが、そうならず太田組作品のこだわりが先行した。特別枠があるのだ....。(つづく)

ららぽーと磐田(今週金曜で終了の可能性あり)、岡山メルパにて上映中!


42779574_2189290307811928_8757752368847650816_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

表現力を磨くということ。僕の場合は自主映画と低予算ドラマー俳優業も監督業も同じ。歌手も作家も同じ? [映画業界物語]

43172433_2198164496924509_3540851079832928256_n.jpg

[新月]表現力を磨くということ。僕の場合は自主映画と低予算ドラマー俳優業も監督業も同じ。歌手も作家も同じ? 

前回のマイ体験談で全部書ききれなかったので、もう少し書く。僕の場合。監督業だけでなく「脚本家として物語を作りたい!」という思いがあった。そこで映画業界から一度離れ、海外留学をした。

これがもし、高校卒業後にすぐ留学していたら、帰国しても、業界の仕事にはなかなか結びつかなかっただろう。その意味では俳優と同じ。いろんな経験をした後、30、40代になってから俳優業を始めるのは相当難しい。前回はそこまで書いた。

書き残したのは「表現力を養う」の部分。僕の場合のどうだったか? 俳優が若い頃にいろんな体験をして、それを演技に生かすことが出来たとしても、元々の表現力がなければ意味がないという話はすでに書いた。

過去の経験が生きる役をもらえた「寅さん」の渥美清や「金八先生」の武田鉄也の場合は、それゆえ、リアルで迫力ある演技が出来て大ブレイクする訳だが、経験に即した役がもらえるなんて、宝くじに当たるようなも。そんな奇跡を願うより、いろんな役が演じられる「演技力」を付けることの方が大切。だが、それには長い年月がかかる。

監督業も同じである。演出力を養うには長い年月がかかる。学校を卒業してすぐ発揮できるものではない。海外経験のお陰で面白い視点のシナリオが書けたとしても、演出力がなければ力作は撮れない。俳優が芝居を数こなすことで演技力が養われるように、監督業も何本も作品を撮ることで演出力が養われる。

たまに演出経験のない人が、チャンスを掴み監督をすることがある。助監督経験しかない人。別の業界で成功した人。それらの多くは、ただシナリオ通りに撮影されているだけで、何ということはない凡庸な映画になりがち。感動させる。笑わせる。ハラハラさせる。泣かせるというのは演出力。技術なのだ。それが磨かれてないので凡庸な作品になってしまう。

お笑いでいえば、笑わせるのは技術。書かれている台本通りにしゃべっても、芸人に技量がないと笑わせることはできない。俳優も同じ。同じ役をやっても説得力や迫力が違うのは表現力。それを養うのは俳優でも、芸人でも、映画監督でも、いかに場を踏んだか? 表現力を養ってきたか?に尽きる。学校で学んだから、海外生活をしたからと、その種の力が育つ訳ではない。では、僕の場合。どうだったのか?

ひとつには高校卒業後。映画学校をさぼり仲間と自主映画をやっていたこと。それがプラスになった。高校時代は「俺に1億くれれば、凄い映画を撮ってみせる!」と傲慢なことを思っていたが、実際に自分で監督すると、映画ゴッコのような映像にしかならない。自分の愚かさを痛感。そこから、どうすればプロのような映像が撮れるか? 勉強を始めた。

俳優業も同じだ。初めての演技はどうしても文化祭の芝居のようなものだったり、しらじらしさが爆発したりするもの。だのにプロが演じると、とても演技とは思えない、心に突き刺さるものとなる。

僕も自主映画で黒澤明の映画のようなスピード感、迫力を出したいと考えたことがある。黒澤のインタビュー本を読み、8ミリ映画で実践したが、まるでスピードが感じられない。何が違うか? 8ミリと35ミリの違い? そんなことではない。

俳優が素人とプロ。カメラマンが学生とプロの違い。あれこれ考え、調べる。そんな繰り返しで、8ミリ映画でも多少は見栄えする作品が撮れるようになる。それが「表現力」を養うということだった。映画なら演出力。本だけで勉強しても、ダメだっただろう。

しかし、5年間に3?4本の自主映画を作っただけで十分な勉強とは言えない。留学中も1本。8ミリ映画の長編を作った。帰国してからはシナリオを書きながらバイトしていた。自主映画を作る余裕はなかったが、その後にメイキングの仕事をもらう。これがもの凄く勉強になった。

撮影の様子を記録する係なのだが、まず映画作りの勉強になる。以前に助監督やADは経験しているが、それだけでは十分でない。機材も進化している。スタッフも世代交代している。そんなメイキングで挑戦したのが、ドキュメンタリーというより、ドラマに近い作品作りだ。

撮影現場でドラマを見つけ出す。例えば新人女優が初めての現場で緊張。でも、次第に慣れて実力を発揮していくという現実に進行していることを記録する。ドラマチックに撮影し、編集する。若手助監督の葛藤と戦いをドラマ風に撮る。「すみません。もう一度!」とは言えないが、チャンスを逃さずに撮る。(だからメイキングにはうるさく、いつぞやのような映像は許せない)

それらも表現の勉強になった。今でも自分の作品ではドラマなのに、ドキュメンタリー風の演出をする。その種の表現を取り入れる。当時、学んだ技法である。

さらに、超低予算のホラービデオ、深夜ドラマの演出を任されるようになる。もう、これは実習と同じ。いろんなことを試す。どうすれば客が笑うか? 泣くか? 感動するか? それは俳優の力だけではない。撮影方法と編集と音楽と、様々な要素が必要。悲しいシーンは悲しい演技をして、悲しい音楽を流しただけでは成立しない。

では、どうすればいいか? 料理と同じ。塩を多めにする。煮る時間を短くする。素材を吟味する。いろいろある。どれが正解ということはでない。自分が一番得意のレシピを知ることが大事だ。これも俳優業と同じだ。自分の得意技を作る。苦手を知る。そのために場を踏む。

「表現力を養う」という勉強。僕の場合は帰国、業界に戻ってからかなり経験。それができたのは学生時代に自主映画をやっていて、すでに撮影や編集のノウハウを知っていたからだ。演出というのは、いろんなパターンがあり、同じ方法論でも監督によって違う。有名監督の真似をしても、その通りにはいかない。自分は何が得意で、何が不得意か? それは実践してみないと分からない。

僕が担当したドラマー失敗作もある。うまく行ったものもある。意外だったのはホラー。見るのは好きだが、作ろうとは思わなかったが、ホラーブームで猫も酌しもホラーだった時代。低予算で何本も監督した。意外に評判がよかった。「やりたいこと」と「やれること」が違うのに気付く。

「青春もの」は大嫌いなのに、監督すると評判がいい。不思議だ。やはり俳優と同じ。ヒーローを演じたいと思っても、悪役を演じると評判がいい人。現代劇はダメでも、時代劇だと映える人。自分に合う役や演技スタイルを見つけること大切。それを知るには場を踏むことだ。

現在、僕が監督する映画は結構、評判がよく「泣けた」「感動した」と言ってもらえる。その演出力を養ったのが、自主映画であり、メイキングであり、低予算ドラマの現場だったのだ。同じ意味で、俳優を志す人たちも、舞台やドラマで、いろんな役を演じ、その中でいろんなチャレンジをすることで、自分に相応しい、自分ならではの演技スタイルというのが見つかるはずだ。

そこで「俺は力を入れて演じると臭くなるんだな...」とか「軽めに演じた方が評判がいい...」とか「涙を流すときはこんな感じがウケる...」とか、場数を踏むことで見えて来る。その繰り返しが演技力を磨くことになる。

僕自身の過去を振り返っても同じ。海外体験があるから感動作を作れるのではない。表現力を磨いてこそ。あれこれ試すことで、自分に何ができて、何ができないか? 何が得意で、何が苦手か? が分かって来る。

俳優業だけでなく、作家も、歌手も、漫画家も、表現の仕事はほとんどが同じ。まずは、自分の表現力を磨くことからスタートしてほしい。そのためには学校ではない、実践できる場に何度も立つことが重要なのだ。



41462138_2157935187614107_5101585570350497792_o.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

僕の場合。映画監督になるために、あえて業界から遠ざかった?=俳優等「表現の仕事」をしたい人たちのための覚え書き [映画業界物語]

23157198_1672874279453536_1254968832642831583_o.jpg

[新月]僕の場合。映画監督になるために、あえて業界から遠ざかった?=俳優等「表現の仕事」をしたい人たちのための覚え書き

表現の仕事ー大切なものをいろいろと書いて来た。それは俳優でも、歌手でも、作家でも、ミュージッシャンでも、映画監督でもほぼ同じものだ。まず、鋭い感受性が必要。それを磨くこと。日本の学校教育や会社組織はその感受性を鈍くさせ、麻痺させるところ。その中で生活して行けるようなら、表現の仕事は向いていないとさえいえる。

美しい、悲しい、苦しい、素晴らしい、愛らしいと感じる力が感受性。それが鋭くなくてはいけない。そして、それを磨かなければならない。俳優を目指しながらバイトバイトの生活をしている若い人の中には、せっかく鋭い感受性を持っているのに、次第に一般の価値観に毒され、いつの間にか目標である「俳優業」より「バイト生活」や「友達」を優先してダメになって行く者が多い。表現の仕事に就くには、自分を追いつめるか? 或は、平均的な日常では暮らせないほどの鋭い感受性を持っていることが大事なのだ。

他にも「経験」「表現力を磨くこと」について書いた。全てが揃わなくても、どれか1つ抜きん出ていれば成功することがあるし、その1つがダメでアウトということもある。もう20年以上前から、いや、学生時代を思い出すと、30年以上、俳優や作家、歌手、映画監督等を目指す人たちを見て来た。そこで夢を掴んだ人。掴めなかった人の違い。表現の仕事に向いている人、向いていない人。それが年月を経て明確に見えて来た。前回までに条件をまとめてみた。

偉そうなことばかり書いて来たので、僕自身の話も紹介する。映画監督という仕事もまた、鋭い感受性が必要であり、その上で「経験」と「表現力を磨くこと」の2つが要求される。が、ここが難しいところで、俳優業なら例えば30歳まで、いろんな仕事をしてから俳優になるのは難しい。その種の人は経験はあっても演技力はないから。経験のない30代の新人俳優を求める芸能事務所もないし、業界も求めない。その意味で若い頃に俳優としてスタート。演技力を磨くことが大事と書いた。

映画監督も同じ。例えば助監督をしていると、映画の作り方。演出の仕方。俳優との接し方。スケジュールの立て方。小道具大道具のこと。衣装、メイク。いろんなことを学べる。それらを知らずして監督業はできない。そして巨匠やベテラン監督と仕事をする事で多くを学ぶ。ただ、朝から晩まで撮影撮影の生活。映画のことは学べても、それ以外のことを経験できない。

僕は19歳で助監督を経験。先輩たちは超多忙なのでテレビも新聞も読む暇がなく、世間のこと。それどころか芸能界のこと、どんな俳優が人気あるか? 今、どんな歌が流行っているか?も分からなくなっていた。年齢が上に行くほどそれが酷い。いや、流行や世情ならいい。考え方がとても閉鎖的で古くさい。センスがない。おっと、全員がそうではないが、そんな人が多かった。古い作品を誉め称えるのに、新しいものを否定。僕も30年後はああなるのだろうか?そんなとき、業界の先輩からこう言われた。

「太田は何になりたいんだ? 技術系なら遊んでいちゃいけない。真剣に仕事して、いろんな技術を覚えないとダメだ。でも、演出部で行きたいなら仕事ばかりしていてはダメだ。いっぱい遊んで、いろんなことを経験しないと!」

そうかもしれない。カメラとか照明。録音。特撮等は技術系。学ぶことが重要。遊んでいる暇はない。でも、演出というパートは機械を使うとかではない。いろんなことを知らなければできない仕事。例えば、ヤクザの役がある。彼らはどんなふうに話すのか? どんな態度を取るのか? 俳優に指示しなければならない。警官ならどうだ。政治家なら。公務員なら? それを知らなければ演出はできない。

考えてみると監督と呼ばれる人は単なる現場監督とは違う。黒澤明は歴史に詳しい。大島渚は政治について論じる。オリバーストーンはまるでジャーナリスト。ウイリアム・フリードキンは大学教授のようだ。もちろん、職人的な監督もいる。監督を分類してみる。


①ディレクター(テレビの場合。監督をディレクターと呼ぶが、まさにそれ。複数のDが同じシリーズのドラマを撮っても、誰がどのエピソードか?分からないほど、個性を出さずセンスと現場進行の能力で仕事する人)

②映画監督(与えられた作品を予算内、期限内に撮り上げる。クオリティも高い。自分なりのスタイルもある。が、物語を通じて何かを主張しようとか、テーマを追及したりはしない)

③映画作家(映画を通じて、自分の思いを主張、メッセージする。作品はとても個性的)

そう考えると、僕は3番目だと思える。単に仕事としてシナリオを渡され、それを映像化する仕事ではなく、自分が考える思いや疑問を物語にして、それを映画にしたい!という思いが強いことに気付く。そのためにはシナリオを書かなければならない。でも、監督業に就くには現場を経験する必要がある。そこで認められて監督になる。

ただ、シナリオを書くには「経験」が必要。以前の回で結論を書いたが、10年間、いろんな体験をしたからと、作家になれる訳ではない。最初は身近なことを書き、次第に取材をして書く。長期間に渡り、書く力を養うことが大事だと。しかし、当時の僕には身近なことがなかった。

実は高校時代からシナリオや小説を書いていた。映画学校時代も独自にシナリオを書いたが、ベースになるのは、高校時代の記憶である。それをもとにSF的な物語を作るのだが、今考えると、過去に見た映画の切り貼りだった。多くの作家志望や映画監督志望者がそうだが、自分の好きな作品の寄せ集めでしかない。それで観客を感動させることはできない。要は映画ごっこレベルなのだ。

何ら経験がないのに、観客を興奮させ、感動させる物語は作れないことに気付いた。もちろん、もの凄い創作力がある人はサラリーマン生活をしていても、素晴らしい物語を作るかもしれない。「人間の証明」の森村誠一さんはホテルマンをしながら小説を書き、その後、会社を辞め、作家に専念。大ベストセラー作家となった。黒澤明監督も絵描きになるのを断念。東宝に入社して世界的な巨匠となる。どちらも、特別な経験をしている訳ではない。そんな状況を見て同じく映画監督を目指す友人たちはいう。

「才能があればやっていけるんだよ。手塚治虫だって、若い頃から漫画を書き続けて、未だに凄い物語を作っているだろ?」 

そうかもしれない。その上、映画界から離れてしまうと、どんなに素晴らしい体験やドラマチックな経験をしても、それを映画にするチャンスが遠のいてしまう。作家になるのなら、小説を書き、出版社に持ち込めば…ということが可能だが、映画の場合はそうは行かない。何の実績もない若造に何億円もかかる映画の監督など任せることはない。

5年ほど、自主映画活動をメインにして、助監督やADもやった。そして結論を見つける。昔から憧れていたアメリカに留学しよう。「スターウォーズ」のジョージ・ルーカス監督が学んだUSC(南カルフォルニア大学)の映画科に行こう! そうすれば映画の勉強をしながら、海外体験ができる。映画から全く離れてしまうとよくないし、といって、このまま日本にいても、経験値は延びないと思えた。

僕の場合。一度、業界で仕事をしながら、離れて海外に行き。いろんな体験をして、戻って来た。なので映画学校の同級生が業界で仕事していた。帰国してから書いたシナリオを見てもらうこともできた。昔、仕事をした先輩たちを訪ねることもできた。自主映画時代の友人も業界で活躍していた。もし、これがいきなりアメリカに行き、いろんな経験をして日本に戻っても、誰も知り合いのいない映画界で仕事を探すことはむずかしかったかもしれない。

ただ、当時からコツコツと小説を書いていた友人。シナリオを書いて映画にするんだと息巻いていた後輩。日本でバイトをしながら自主映画をしていた仲間は皆、いなくなっていた。皆、バックグランドがなく、バイト生活しか経験していない中で、自分の好きな映画やドラマを切り貼りした物語を想像。書き続けていたが、バイトをするだけで1日が終わり、「書く力」が残されていない。書きかけては挫折。原稿用紙を破る。最後まで書き上げたという話を誰からも聞いたことはない。

思うのだけど、やはり創作というのは、何らかの経験値から、記憶から生まれて来るものだろう。東京のアパートで生活しながら、バイトしながら、それだけの経験で生まれるものではないと思える。では、アメリカ留学すれば書けるのか?というと、それはそれで苦戦するのだが、別の機会に紹介するが、僕がシナリオ=つまり、創作で本格的に戦うのは、このあとだ。LA留学をしたことで、それを元に書いたものが認められ….ではない。

アメリカ生活をしたことでシナリオが書けるようになったのではなく、異国え生活をしたことで様々な価値観、ものごとの見方、日本との比較、考えた方の違い、そんなことで知見が広がった。日本にいると当たり前のことが、世界では当たり前ではない。日本の狭い、閉鎖的な考え方、習慣も感じた。また、逆に大嫌いだった日本の素晴らしさ、美しさも知った。そんなことが後々、シナリオを書く上で生きている。

そんなふうに僕の場合は業界でチャンスを掴む、業界で勉強するということより、物語を作るために、新しい体験を求めて海外に出て、戻った。その意味では「表現力を養うこと」ではなく「経験」の方を重用した。先に書いた「俳優になるには…」の結論の逆をしている。俳優と監督との違いはあるが、下手したら日本に戻り、もう30代、そこから映画の世界で仕事をすることができなければ、大失敗となった。

しかし、友人、知人が業界にいたからこそ、助けられた。感謝せねばならないし、大きい。ただ、彼らの全てが献身的に助けてくれたか?というと、むしろ逆。僕の作品を認める者はほとんどおらず、批判否定の連続。それでも業界で働く彼らから情報や紹介を受けて展開することはできた。

大切なことは自分の目標が何なのか? 俳優か? 歌手か? 作家か? 映画監督か? そして自分がいる環境。どんなに実力があっても1人では何もできない。応援してくれる人、認めてくれる人、チャンスをくれる人、そんな人たちとの繋がりがあってこそ、前へ進める。まじめにバイトしているだけでは何も変わらない。プライドを高く掲げるだけでは誰も助けてくれないのだ。今、俳優や歌手、作家を目指す人たちの参考になれば嬉しい。


41462138_2157935187614107_5101585570350497792_o.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画
前の10件 | - 映画業界物語 ブログトップ