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映画監督にもいろんなタイプがある? 分かりやすく説明。スピルバーグは②と③の両方? [映画業界物語]

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映画監督にもいろんなタイプがある? 分かりやすく説明。スピルバーグは②と③の両方?

映画界にこのような分類がある訳ではない。が、僕なりに考えた3つのグループに分けてみた。もちろん、これらに属さない人もいるし、複数に属する人もいる。でも、そのことでいろいろ理解しやすくなるので、やってみよう。

①「ディレクター」タイプ
テレビドラマと同じように、撮影現場に立ち作業を進行させる。が、作品の個性は反映せず、制作費内、期日内にトラブルを起こさずに、まとめて作品を完成させるタイプ。テレビ局が製作する映画はこの手の監督が重宝される。意見を主張せず、決められたキャストとシナリオで、作品を作り上げる。スポンサー、映画会社に言われた通りの作品を作る。いわば「社員タイプ」の監督

②「職人監督」タイプ
個性はある。現場を仕切る。面白く作ってある。でも、作品で主張はしない。娯楽映画を割り切って撮っている。ハリウッドで言えばトニースコット監督。「トップガン」「アンストッパブル」等のエンタテイメントを作った。日本でも黄金期。プログラム・ピクチャーが量産されたときには、この手の人が多かった。1960年代で言えば「悪名」「兵隊ヤクザ」「眠狂四郎」「若大将」「社長」シリーズ等だ。これらは「職人タイプ」の監督と言える。

③「映画作家」タイプ。
主張がある。娯楽作品でも、芸術作品でも映画を通して自分のメッセージを伝えるタイプ。そして作品に個性があり、独特のスタイルを持つ。日本で言えば黒澤明、大林宣彦、岡本喜八、大島渚ら。主張とこだわりがあるので、時にはスポンサーや会社と激突。気難しく、文句も多い。でも、思いを貫く「作家タイプ」の監督。

映画会社からすると、「ディレクター」タイプが使いやすい。自社で決めたものを、あれこれ言わず映像化してくれる。だが、話題になったり、ヒットするのは他の2タイプの監督。巨匠と呼ばれるのは「映画作家」タイプが多い。企画からシナリオ。全てに携わり、キャストにもこだわる。全てに監督の思いが込められている。

が、映画会社からすると、一番面倒なタイプ。「この俳優はダメだ。人気があればいいというもんじゃない!」とか言い出す。作品を依頼しても、予定したものと全然違うものにしてしまう。その点、「職人監督」は制作費、撮影期間をオーバーせずに良い作品を撮ってくれる。映画もヒットする。ただ、名作、話題作はあまり作れない。やはり、その手の作品には監督の「思い」と「主張」が大事なのだ。

スピルバーグは「職人」と「作家」の両方をこなす。与えられた作品を面白く作るのもうまいが、自分で企画して社会に訴える作品も作る。「作家」なのである。日本でいうと松林宗恵監督も「職人」として「社長」シリーズを撮りながら「人間魚雷」等の戦争の悲劇を訴える「作家」タイプの作品がある。

どのタイプが一番偉いとかではない。が、それぞれを一言で評すると「従順」「温厚」「気難しい」となる。それを考えながら映画を観ると「この映画。金かかっているけど、全然面白くない!」とか「金かかってないけど、心に刺さるものがあった」「観ている間は楽しかったが、終わると何も残らない」とか感じる理由が分かるだろう。

ちなみに僕は最後の「作家」グループだと思える。5本の監督作。全て自身で企画。シナリオも書く。メッセージがある。そして気難しく、文句が多く、こだわる。そしてすぐ揉める。ただ、難しい文芸映画にはしない。どんな題材でも一方的に主張ばかりせず、エンタテイメントとして見れるように、ドキドキ、ハラハラ、泣けたり、感動したりというものを大切にする。その辺は「職人」的な部分か?

それぞれのタイプに用途がある。プログラム・ピクチャーを作るのに、映画作家を起用すればまず揉める。いろんな会社が出資した映画だと、関係者全員の顔を立てねばならない。そんな時はディレクタータイプだ。社会性のある作品を作るなら、それに関心のある映画作家タイプ。あと「ディレクター」「職人監督」はそれなりの高額なギャラを取る。面倒な作品、ヤバイ作品は敬遠する。が、「映画作家」は金だけではなく、作品を作ることがある。

こんな風に映画を観る側も監督タイプ分かっていると映画を選ぶ時にも、役立つはずだ。



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「ロケットマン」を見て=ミュージシャンも監督業も、俳優業も孤独を覚悟する仕事。 [映画業界物語]

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「ロケットマン」を見て=ミュージシャンも監督業も、俳優業も孤独を覚悟する仕事。

「ロケットマン」エルトン・ジョンの人生を描いた映画はとても感じるものがあった。ただ、映画監督の人生を描いた作品はあまりなく、ヒッチコックが「サイコ」を撮った時を物語にした何とかいうのがあったが、少ない。でも、映画作りも、音楽作りも共通点が多く、「ロケットマン」は見てから、あれこれ考えている。

デビッド・ボウイも、プリンスも、ミック・ジャガーも、どこへ行っても人だかりになる。だから、プライベートを明かさない。ボウイは京都に家を持っていた。ネットで阪急電車に乗っている写真を見つけた。イギリスやアメリカにいるより、京都の方が安心できるのだろうか? パパラッチに狙われ、マスコミに追いかけられる。歌手や俳優を目指す若い人はそんな生活に憧れるが、楽しいのは最初だけ、次第に疑心暗鬼になり、うんざりもして、「もう、放っておいてくれ」と思う。

芸能界のある分野で大成功した人がいる。今までバカにしていた人、無視していた人たちが手の平返しで寄って来て賞賛した。最初は嬉しかったが、次第に自分を利用したくて近づいて来る人が、ほとんどだと気づく。恋心がある振りをして近づいて来る女性もいた(「ロケットマン」のあの男を思い出す)逆に有名というだけで批判、否定、中傷する人たちもいた。嫉妬に駆られてありもしない噂を流す。金を借りに来る。断ると激怒。「金あるくせに!」と罵倒された。

誰も信じられなくなったという。ノイローゼ気味になった。昔からの友達まで距離を置き始めた。アメリカやイギリスのスターでなくても日本でも似たようなことになる。全然レベルが違うが、僕程度の映画監督でも同じ。女優の卵が近づいて来る。恋ではない。取り入って映画に出るため。利用するため。映画業界では数年で1本の映画を撮るだけでも大変なこと。前作は10年前という人もたくさんいる。新作を撮るだけで嫌われる。嫉妬し「あいつは才能ない」触れ回る。

プロデュサーが近づいて来る「監督の熱さに感動しました。応援します」製作費が目当て。必要以上の金を抜く。現場費が足りなくなる。赤字が出たからと監督料をゼロにされる。後になって数百万の経費を払わない。ロケ地では感謝されることが多いが、必ず一部には嫌われる。ロケ撮影の候補になりながら撮れなかった店は宣伝にならず、恨みを買う。「撮影後、1ヶ月経ってお礼に来ない!」と激怒した社長もいた。その時期は編集の真っ最中。でも、彼の業界では1ヶ月後に礼をいうのがしきたり。その価値観を押し付けて「あいつは応援したのに裏切られた!」と触れ回る。

もちろん、街のアピールができて喜んでくれる人の方が多い。だが、「懐中電灯を貸したのに監督は挨拶に来なかった」と怒る人もいる。が、それは製作担当の仕事。1000人近い方に応援頂いている。監督の仕事は1人1人に挨拶することではなく、「応援してよかった」と思う作品に仕上げることだ。そして1人にお礼をいうと「なぜ、うちには来ない」「***さんだけお礼するのはおかしい」と言われる。まあ、毎回、そんな繰り返し、多くの感謝と一部からの批判と中傷。

近年は俳優とは仕事以外では飲みに行かない。スタッフとも頻繁には会わない。Facebookで交流しないのも、その一つ。「会ってほしい」「シナリオを読んでほしい」「質問に答えてほしい」という連絡がよく来るが、そこからトラブルになる。以前もGoogleで調べられることを訊いて来る人がいた。流石に頭に来て「自分で調べろ」と返事すると、「優しい人だと思ったのに!」とあちこちデマを書かれた。

大した知名度のない映画監督でさえ、そうなので、ロックスターは想像を絶するはずだ。「ロケットマン」のエルトンほど、僕は孤独ではないが、この仕事を続けるというのは、そんなことと向き合わなければならないということ。改めて感じる。


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エルトン・ジョンと尾崎豊。アーティストの宿命。悲しみを埋めるための作品。 [映画業界物語]

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エルトン・ジョンと尾崎豊。アーティストの宿命。悲しみを埋めるための作品。

昨日、見た「ロケットマン」エルトン・ジョンの人生を描いた映画。少し前にはフレディ・マーキュリーの生涯を描いた映画「ボヘミア・ラプソディ」があった。あちらはクイーンに詳しい人からすると、あれこれ違うところが多いと批判もあった。

こちらはエグゼキュティブ・プロデュサー、つまり製作総指揮がエルトン本人なので、間違いは少ないかもと思う。が、本人だからこそ、あまりに情けない話を隠そうとするかも?とも考えたが、十分に恥ずかしい話の連続であり、この映画は懺悔であり、告白なのかもしれない。

アル中、ヤク中、自己中心、癇癪持ち、浪費癖と、本人が告白する場面があるが、人生の落伍者のようなものばかり。しかし、彼は心に染みる素晴らしい歌を書き続けてきた。以前、記事にしたことがあるが、アーティストというのは「才能ある素晴らしい人」ではなく「悲しみを埋めるために作品を作らずにはいられない人」なのだと思える。人より多感で、小さなことでも耐えられない悲しみとして捉えてしまう。

だから生きずらい。映画でも親から愛を受けなかったことが大きな心の傷となり、それが埋められない。大人になっても荒れ続けるシーンがあるが、まさにその通りだ。感受性がさほど鋭くない人なら、多少の傷になっても、彼女が出来て、結婚すれば、その痛みを忘れるもの。それが理解ある女性と出会っても埋まらない。だが、エルトンを理解する作詞家バーニー・ハミルトンがいる。

あの素晴らしい歌のほとんどを彼が書いている。日本でいうと松本隆のような人だ。だが、そのハミルトンの友情も疑い、信じられなくなり、もっともっと愛してくれと、仲違いする。まるで子供。でも、だからこそあんなピュアな歌が作れた。尾崎豊もそんな印象だ。傷つきやすい不良少年。だからこそ書けた「17歳の地図」「卒業」「15の夜」彼もまた荒れた私生活を続ける。ドラッグに走り逮捕され、そのドラッグで命を落とすことになる。

表面だけを見たとき、エルトンも尾崎も大成功した芸能人は馬鹿騒ぎをし、ドラッグをやり、身を持ちくずすダメ人間のように映る。が、そんなことで「心の傷」を癒そうとしていることは見えない。もちろん、それは褒められたことではないが、子供のような彼らには自分を止められない。

また、一般の常識で彼らを測れないからこそ、あんな素敵な歌を作れるのだ。LA時代に出会った日本人で、尾崎と親しいという若い女の子がいた。尾崎ってどんな人?って聴くとこう答えた。

「悲しみを背負う人とすれ違うだけで、その人の悲しみを抱えてしまうようなタイプ」

なるほど。だから、あんな歌が書ける。でも、だから苦しい。でも、それがアーティスト。僕は山本太郎という人もそれに近いところがあると思える。人の悲しみを自分のこととして抱えてしまう。だから、原発事故で子供達のことを心配し、俳優業まで辞めて走り回った。それは今も続いている。

今朝もエルトン・ジョンの歌を聴きながら、あれこれ考えている。僕も映画を作る仕事をしているが、どうなのだろう? そう思って窓外を見ると、晴れてはいるが、強い日差しはもうない。夏が終わろうとしていることを感じる。

「ロケットマン」感想=>https://okinawa2017.blog.so-net.ne.jp/2019-08-26


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良くも悪くも監督のテイストやカラーが出るのが映画なのか? [映画業界物語]

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良くも悪くも監督のテイストやカラーが出るのが映画なのか?

北海道に行ってきたので、同地を舞台にした映画を見た。豪華キャスト。大作。製作費もかかっている。雪の大地が美しい。なのに、面白くない。俳優は皆、熱演しているのに空回り。なぜだ? せっかくの俳優の芝居が伝わって来ない。皆、演技派のベテラン。下手というのではない。なのに共感も感情移入も出来ない。虚しいだけ。

撮影もいい。美術もいい。雪の中のロケは大変だと思える。同じ北海道を舞台にした映画なら「駅」は名作だ。「鉄道員」も良かった。何が違うのか? 監督も有名な人。あの作品は大好きだ。しかし、彼のプロフィールを調べて、フィルムグラフィを確認すると、その映画以外、有名作品はあるが、どれも本当に面白くなかった。

ある有名舞台の映画化。オリジナルを舞台で見ているが、めちゃめちゃ面白かった。にも関わらず映画版は最低だった。主役は同じ俳優。あの時も考えた。舞台をそのまま映画にしてもダメなのか? でも、その監督の作品。あれ以外はどれを見ても面白くない。どれも盛り上がらない。俳優は熱演しているのに伝わって来ない。

ああ、この監督のスタイルなのだと気づく。盛り上がらない。淡々と描く、一本調子。言葉では問題を指摘できるが、うまく説明できない。同じにカメラを置き、俳優を立たせ、芝居をさせる。映像を編集して繋ぎ、音楽をかける。なのに全然ダメ。何がいけないのだろう?

言えるのは監督のカラーが出ているということ。森田芳光が撮れば森田テイストになるし、黒澤明が撮れば黒澤テイストになる。その意味で、その作品はその監督のテイストになっているということか? しかし、悲しい物語であり、役者はよくやっているのに、まるで悲しみが伝わらない。その理由を考えている。



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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?③ =街を紹介するのではない。物語に街を登場させるのだ [映画業界物語]

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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?③
=街を紹介するのではない。物語に街を登場させるのだ

「明日にかける橋」のシナリオを書く前に、徹底して街を歩いた。車ではなく、まずは歩く。街を知るところから始まる。観光ガイドは見ない。自分の目で見て魅力的な場所を探す。そうやって街を把握した上でシナリオを書く。

大切なのは映画で、その街がいかに魅力的か?を伝えることだが、だからといって観光地の紹介になってはいけない。よく使う手は東京から来た友人を主人公が案内するという形。だが、それでは心に残らない。考えてほしい。CMやPV(ビデオによる観光地案内)を見て、

「この街へ行きたい!」

と思うだろうか? 考えてみよう。なぜ、京都は人気があるのか?行きたいと思うのか? 京都には歴史がある。朝廷が長らくあった場所だし、数々の伝統あるお寺がある。坂本龍馬や新選組が走り回り、戦国時代には信長や秀吉が目指した街でもある。そんな数々の物語があるから惹かれるのだ。

ディズニーランドが楽しいのは、乗り物があるだけではなく、そこに昔から馴染みのあるミッキーマウス他のキャラクターがいて、映画で見た数々のパビリオンがあるから惹かれる。乗り物だけなら後楽園遊園地でもいいのだ。ここも京都と同じ、物語が重要なのだ。地方のさほど有名でないお寺を映像で取り、歴史を紹介したものを見ても

「このお寺に行きたい!」

とは思わない。そこには龍馬も、信長も絡まない。ミッキーも、ドナルドも関係ない。物語がないからだ。その意味でNHKの大河ドラマのロケ地がもてはやされるのも、同じ構図。にも関わらず、地方で映画を撮ると

「この公園を撮ってください。お台場風に作って、都会から若い人を呼びたいんです!」

と役所に言われたりする。が、そこには何の物語もない。何より、お台場に比べるとかなり貧弱。それなら若い人は東京のお台場に行くだろう。その場所を撮影すれば宣伝になると思っている人が多いが、そうではない。物語が必要なのだ。

その意味でまず「物語ありき!」ー「明日にかける橋」のメインは明日橋。決して地元で有名なものではなかった。が、あのペーソスある橋をタイムスリップする物語の中心に据えたことで、映画を見ると

「あの橋を見に行きたい。全速で走ってみたい!」

と感じる。そこに物語があるからだ。京都に行き

「ここで龍馬が殺されたんだ...」「ここに信長は城を建てたんだ...」

と感動するように、

「この橋をみゆきたちは走ったんだ!」

と感じる。売り出したい観光地をただ、撮影するだけでは観客は魅了されない。その場所の歴史を語ったり、説明すれば余計に離れてしうまう。修学旅行でガイドさんの案内をほとんどの人が聞き流すのと同じだ。

物語があってこそ、人々は興味を持つ。もっと言えば、伝統もない、歴史もないお寺であっても、そこが物語の重要場面となれば、観光地になる。ロケ場所ありきではなく、物語に相応しい場所。それこそが多くの人が訪れたくなるポイントなのだ。



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監督作品を1年ぶりに映画館で見て、反省するの巻?! [映画業界物語]

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監督作品を1年ぶりに映画館で見て、反省するの巻?!

稚内の映画祭に参加できたことで、自作「明日にかける橋」を1年ぶりに映画館で見ることが出来た。少し時間を置くことでかなり冷静に見れる。いろいろ反省もできる。80年代の日本映画を見ていると、同じ失敗を繰り返している監督が多いことを思い出す。まあ、映画監督というのは傲慢な人が多く

「俺の作品は最高だ!」

と思っているので、そうなる。また、自身の欠点に気づかない。それが自分のスタイルだと思っている監督も多かった。明らかに失敗している表現というのはある。それを反省している日本の監督はほとんど知らない。対してスピルバーグの映画を見ると毎回、猛反省していることに気づく、詳しくは以前書いたので割愛するが、ある映画を見て、その次の作品を見ると、

「ああ、あの場面。やはり本人はうまく行っていないと思ったので、今回、再挑戦しているのだな」

と思えることが何度もあった。それ以来、僕も自分の作品を必ず見つめなおす。が、完成してすぐは問題点が見えない。少し時間が経つとそれが見えてくる。DVDで部分的に見ても、発見しづらい。が、1年経って映画館で見るチャンスはない。それが今回あったので、ラッキー。

反省すべきは、やはり新たな挑戦をしたところ。青春もの。家族ものは何度も作っている。今回の挑戦は「刑事物」を取り入れたところ。主人公みゆき(鈴木杏)の弟ケンタが誘拐される部分である。撮影前には「天国と地獄」等の刑事ドラマの名作を何度も繰り返して勉強したが、見るだけでは足りなかった。

リアリティとか、重厚感とか、刑事ドラマの重さが足りない。俳優は皆、素晴らしいし、市民俳優の皆さんもとても個性的だった。先に書いた記事と同じで、監督の問題。これは「興味がない」というのではないが、僕の力不足。経験不足である。しかし、刑事ドラマとは何だろう? どうすれば刑事ドラマになるのか?

「太陽にほえろ」を目指した訳ではない。「踊る!大捜査線」でもない。できれば「フレンチコネクション」や「ダーティハリー」のような社会派で、リアルな刑事物を目指した。それら作品も繰り返し見た。カーチェイスや銃撃戦をやりたいのではない。刑事が張り込む。犯人を尾行する。それだけの場面でも、それらの映画は重くのしかかってくる。街の匂いや雑踏が伝わってくる。その辺が自分の作品では弱いことを痛感する。

それと事前に勉強するのは当然であり、やはりそのジャンルを何度も手がけるというのが大事。実際に経験しないと出来ない。俳優でも名優の演技を見ているだけでは上手くならない。自分で演じて見てこそ、問題が分かり、自分なりの表現はどうすべきか?が見えてくる。監督業も同じだ。巨匠に学びながらも自分なりのスタイル。表現を模索、我がものにすることが大切だ。

ただ、クライマックスからの展開。ここからは1年経って見ても、うまく行っている。(自画自賛!)観客の反応を見ていても、誰もグラグラしていない。退屈だと足を組み替えたり、腕を組み替えたり、体を動かすが、皆スクリーンに釘付け。そして感動シーンではグラグラ。これは涙を拭くために手を動かす、ハンカチを取り出す動作をするためだ。

それらの場面はうまく行っている。成功の要因は俳優たちの熱い演技にある。だが、難しいのはそんな名演も監督が関心のある題材でなければ、空回りすること前回の記事に書いた。映画とは小さな表現の積み上げ。逆に監督が熱い思いを持っていても、俳優のレベルが低いと感動場面にはならない。その逆はもっとダメ。映画表現は難しい。



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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?② =登場人物に街を賞賛させてはいけない? [映画業界物語]

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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?②
=登場人物に街を賞賛させてはいけない?

さて、前回は物語の大筋ができるまでを紹介した。が、まだシナリオは出来上がりではない。タイムスリップして過去に行き、若き日の父母に出会い、弟を救う=それはまだ第一段階だ。そこからロケ地の魅力を取り入れていく。地方映画で一番多い失敗は物語内で地元を賞賛すること。例えば大根作りに努力する家族の物語。

「こんなに苦労して私たちは大根を作り、全国に出荷しているのです!」

それではPR映画。そのこと何度も記事にした。自画自賛では他県の人が映画を見てくれない。あと、地元の名士。地元企業の創設者、政治家の生涯を描くドラマ。その種のものは市民の支持を得られるが、他県の人はどう見るだろう?

「***会長のお陰で街は発展し、雇用が増えました!」

そう、よかったね? それで終わってしまう。多くの地方映画は自分たちの自慢や苦労を伝えようとしがち。それを多くの人に知ってほしいと思う気持ちは分かるが、他県の人たちは見たいとは思わない。あなたの出身地ではない街の名士の立身出世物語を18000円を払って見たいと思うだろうか? 見るのは地元だけだ。

それが田中角栄とか、笹川良一ならば同郷でなくても興味を引くが、地元で有名なだけの政治家や社長では全国には通用しない。もちろん、地元だけで見ると言うのならいい。が、映画は全国に、世界に発信できるメディア。もし、その人をアピールするなら別の切り口が必要だ。


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前置きが長くなった。太田組の場合。基本物語は全国どこで通用するストーリーにする。そのことで全国区になり、世界標準になる。ハリウッド映画がまさにそうだ。舞台はアメリカだが、世界のどこで見ても分かる物語になっている。次に「バック」ではデロリアンでタイムスリップする。こちらはどうしようか?考えて、シリアスなドラマなので乗り物はやめて橋を渡ると言う行為にした。

と言うのはロケ地・袋井市(当初はこの街のみで撮影予定だった)には橋が多い。それぞれにユニーク。豪華版あり、貧しいものあり。だから、この街が舞台なら橋を渡ると言うのがいいなと思った。大林宣彦監督の「転校生」ではお寺の階段を転げ落ちると男女が入れ替わると言う設定だったが、ロケ地・尾道はお寺が多い。その意味で町感ある設定が大事。

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最終的にロケ地になったのは袋井市、磐田市、森町だ。いずれも美しい自然、田園、茶畑、お寺、川、海がある。それらがロケ地になるように物語を設定する。せっかく田園風景があるのに都会的な場所でばかりロケするのはもったいない。

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そこで身代金の受け渡し。健太が監禁される場所はお寺。

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通学路は古い蔵がある場所。家出するバス停は昔懐かしい商店街。

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と言う風にその街にある素敵な場所を当てはめて書く。ただ、登場人物がそのお寺の歴史を紹介したり、観光案内的な説明はしない。

「これは観光PR映画なのか...」

と思われる。それだけで観客は落胆。「騙された」となる。それを多くの地元は勘違い、「それこそが宣伝になる!」と思いがち。それならPRビデオかCMを作って欲しい。映画は観客が入場料を払って見に来るもの。金を払って宣伝を見たい人はいない。

物語に感動すれば、その背景となった街は「感動の街」として記憶される。LAのグリフィスパークに行けば

「ここでJ・ディーンが!」

と映画「理由なき反抗」を思い出す。フェラデルフィアに行けば

「ここはロッキーが駆け上った階段!」

と感動できる。でも、どちらの映画でもグリフィスパークやフィラデルフィアの歴史紹介はない。同じように「明日」でも、明日橋に行けば

「あーーここがみゆきが走った橋だ!」

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と多くが感動してもらえるようにしたい。それには観光を持ち込んではいけない。でも、地元感が出るように、ロケ地はしっかり選ぶ。そのロケ地がはまるように場面を作る。ここが一番難しいところ。ある映画では市役所の職人が

「街の名前が5回台詞で登場するのでまあいいだろう」

とか言っていたが、正反対。街の名前を連呼するほどに、映画への評価が下がる。映画はPRではないが、感動物語はPR以上に街をアピールするのだ。

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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか? =物語を机の上で作ってはいけない? [映画業界物語]

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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?①
=物語を机の上で作ってはいけない?

稚内の映画祭で「明日にかける橋」を見てくれた方から訊かれた。

「監督はあの感動的な物語をどうやって考えたんですか?」

なので「バック・トウ・ザ。フューチャー」を観た時に近未来に行く話というのに衝撃を受けていつか自分でも作りたい!と思っていたんですよ。と答えた。が、実はこれ。答えになっていない。僕が答えたのは「物語を考える」きっかけに過ぎない。具体的にどうやって「明日」の物語を考えたかが説明されていない。

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というのは、非常に難しい部分がある。まず、監督というのは撮影現場のことはよく覚えているが、シナリオを書いていた時のことはあまり思い出せない。ある種、霊が降りてきている状態で、イタコの霊が書いているような感じだからだ。編集も似たようなところがある。それでも少し思い出してみる。山田先生の場面は実際の経験だ。僕の高校時代に本当に「山田先生」と言う嫌な教師がいて、映画と同じセリフを言った。

「勉強は自分を鍛えるためにするんだ!」

当時17歳の僕は「違う!」と思ったが、明快な反論ができなかった。が、それから長い人生を生き、山田先生の指摘が間違っていることを痛感した。実際に大手銀行や証券会社は倒産した。不況でリストラ。正社員になれない人も増えた。何より高校時代の勉強が役に立った試しがない。

「今なら山田に反論できる!」

と思ったが、当時の彼は30前後。それから39年。彼は70歳くらい。生きているかどうか?分からない。生きていても、当時のことなど覚えていないだろう。僕のこともまず記憶にないはずだ。もう、ボケているかもしれない。教師も辞めているだろう。そんな人に抗議しても無意味。だったら、いつか映画にしようと考えた。

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それと前作の「向日葵の丘」主人公・多香子(常盤貴子)も「明日」の主人公・みゆき(鈴木杏)と同じように両親と対立している。前作で多香子は最後に母(烏丸せつこ)と和解する。

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が、父(並樹史朗)とは対立したまま終わる。そこで今回は娘と父との和解をテーマにした。そこでタイムスリップが活きてくる。父(板尾創路)はみゆきを実の娘とは気づかずに本音を話す。

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みゆきも父の謎の行動を突き止めようとして、父の愛を知る。タイムスリップしなければ父がストレートに娘への愛を語る展開を見せるのは難しい。それが今回は可能になった。また、寺山修司の「田園に死す」等の昔の自分に出会うという物語も以前から興味があった。大林宣彦監督の「はるかノスタルジー」も実はその種の映画である。

夢多き子供時代の自分。現実にぶつかり、希望をなくし心傷ついた大人の自分。それが若き日の自分に励まされることはないだろうか? 昔の日記や小学生時代の作文を読んで、小学生時代に書いた絵を見て、昔の友人の話を聞いて

「そうだ。俺はそんなことを夢見ていたんだよな....」

と思い出したことないだろうか? 悩んだ時、苦しい時、自分を励ましてくれるのは昔の思いや夢であったことはないか? それを物語にした。未来が見えなくて葛藤している高校時代のみゆきが現実に押し潰されている現代のみゆきを励ます。

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「里美先生からの伝言。自分の手で未来を変えて!」

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そう、あの頃はそう思っていた。いつしか諦めてばかりいる。あの頃の輝くような思い、今もどこかにあるはずだ。みゆきは若き日の自分に励まされて走り出す。あの場面もそんな思いから生まれたものだ。だから、物語を作るというのではない。学生がシナリオを書くとよく

「主人公がいる」=>「可愛い子に出会う」=>「恋を邪魔する奴が現れる」

とか机の上で物語を作ろうとする。だが、それでは観客が共感する話にはなりにくい。僕の場合はそんな思いをいくつも寄せ集めて、それを物語で縫っていく方法を使う。だから、本当のことを言うとタイムスリップをやりたかったのではなく、「家族の絆」物語を描くのに、タイムスリップを持ち込めば、単なる家族物語でないハラハラドキドキの映画になると考えたのだ。そしていつものテーマ

「幸せって何だろう?」

その答えを物語を通じて探す。父(板尾創路)は子供達を一流大学に合格させ一流企業に就職させることだと信じた。教師たちもそう思っていた。が、バブル崩壊で砂上の楼閣であること痛感する。そんな中でお金や名誉やブランドではなく、家族がみんな健康で、みんなで花火を見上げることができること。それもまた一つの幸せではないか? それを伝える物語を組み立ててみた。まだまだ、いろいろあるが、そんな風にして「明日にかける橋」はできている。


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映画祭は楽しい。でも、最悪の思いをする映画祭もある=そこに愛はあるのかい?< [映画業界物語]

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映画祭は楽しい。でも、最悪の思いをする映画祭もある
=そこに愛はあるのかい?

先日のわっかない映画祭は本当に素敵なスタッフの方々の熱いもてなしを受け、楽しい時間を過ごさせてもらった。が、そんな楽しい映画祭はむしろ少数派で、2度と行きたくない!というものも多い。

数年前。ある映画祭に招待された。主催者はなかなか映画愛がある人で、僕の映画を映画館に観に行った上で

「ぜひ、うちの映画祭で上映したい!」

と映画と共にゲストとしても招待してくれた。が、そこでいろんな思いをすることになる。映画祭ではそんなゲストと地元映画ファンが交流を持てることが、いずれにとっても楽しみである。監督やスタッフ。俳優は、なかなか一般の映画ファンの感想を直接聞くことがない。ファンはプロの人たちにいろんな質問をすることができる。

でも、その映画祭。いろんな映画が上映されるが、とにかく客が少ない。150人のホールに10数人。そして映画祭のレセプションとかオープニングパーティとかはなく、上映が終わったら関係者数人で近所の居酒屋に飲みに行くだけだった。主催者が中心となり、映画祭の常連客7人くらいのグループになり

「太田監督もご一緒にいかがですか?」

と呼ばれた。だが、飲み会が始まっても、それぞれが何者であるか?の紹介がない。皆顔見知りだから? さらに映画祭で上映される作品の話は出ず。

「最近のヨーロッパ映画はどうだ?」「***は面白かった」

というような話題が続く。主催者は黙って飲むばかり。ゲスト監督は2人いたが紹介もしてくれない。何だか、地方の映画サークルに間違って参加してしまったような違和感。その内にようやく質問を受けた。

「太田監督はどんな映画を撮っているのですか?」

ま、僕は誰もが知る有名監督ではない。でも、映画祭のゲストで呼んで置いて、その常連客が「あんた誰?」と聞くようなものだ。その日、会場で配られたパンフレットには僕のプロフィールが載っていた。それを読めばいいのに、と思ったが説明した。「朝日のあたる家」というのが最新作だと詳しく話すと

「その手の社会派映画ばかりを撮っているんですか?」

と質問が続く。そんなことから話さねばならない? そもそも映画祭に毎回参加する常連なら、事前にHPでゲストを調べ、プロフィールや作品くらいチェックするのではないか?その方が本人に会ったときに、いろんな話が聞ける。

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僕のように無名の監督でも、その作品に出た有名俳優等の話を聞くこともできる。撮影現場の話。現代の映画界の様子。相手がどんな監督だろうと、映画ファンなら聞きたい話がたくさんあるだろう。なのに、何も下調べはなく。監督自身にプロフィールを訊く。僕だけではない。もう一人の監督も同じ扱い。結局、それ以上の質問は出ず、僕らの他の作品についても何も聞いては来ない。また最近見た映画に話題が戻った。

「あなたたちには興味ありませんから!」

と言いたいかのようであり、映画祭のゲストではなく、映画サークルに参加した新人のような気分になる。翌日も上映後には飲み会があった。別のメンバーだが、同じ展開だった。その日は「どんな映画を撮っているんですか?」ではなく

「お生まれはどちらですか?」

と訊かれた。大学の合コン?のような質問が続き。「ご兄弟は何人?」そんなこと映画祭と関係あるのか!とため息。その後も一切映画の話は出ずに終わった。全て地元の話。

「地元の***さんが最近、***して.....」

という内輪の話題に終始。僕は2時間黙ったまま、ひたすら酒を飲んでいた。これなら1人で飲んだ方よかった。そして2日共、割り勘。大きな映画祭ではない。飲み食いは自腹なのは理解する。が、その会に監督たちを誘う意味があったかのか? 「遠くから来てもらったんだから、監督たちの分は俺たちで払おう」とは誰も言わない。それどころか、誘っておいて飲み会中、無視し続ける。ホスピタリティはゼロ。

「映画祭のオープニングから参加、3日間滞在してほしい」

と言われて来ている。もちろんギャラもなし。それでも映画ファンたちとの交流を連日、望んでいるのだと考えていたのだ。が、主催者も常連客も自分たちで盛り上がるだけだった。

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ようやく3日目。僕の映画が上映される。客席はほぼ満員。各地でヒットしていたので噂を聞いた人が集まったのだ。飲み会に参加していた映画祭の常連客も来ていた。上映が終わってロビーにいると、その内の2人が近づいて来てこう言う。

「太田さん。あなたの映画は好きになれませんでした」

そして、延々と映画の問題点を語り出した。ただ、その指摘。ほとんどが外れている。勘違いや理解不足が理由。そこを説明しても

「ああ、そうですか〜それは見落としたなあ」

ということもなく

「でも、***のシーンはおかしいですよね」

と切り返してくる。とにかく否定したいようだ。結果、指摘は全て誤解によるものだった。が、彼は難しい顔をしたまま

「まあ、次の映画には期待していますよ」

と去って行った。「2〜3本映画撮った位でいい気になるな!」という感じだ。僕もいろんな映画祭に呼ばれたが、関係者の多くからこんな扱いをされたは初めてだった。ゲストが来ているのに内輪の話しかしない。招待客に興味を持たない。常連客がゲストを批判。それも全くの当て外れ。

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また、飲み会メンバーも1日目は映画オタクのような人たちばかり。2日目は映画に興味ない人だらけ。いずれもホスピタリティが感じられない。主催者は真面目でやる気のある映画青年だが、消極的でホストの役割が果たせていない。

だが、次第に見えて来た。映画祭に一般の客はあまり来ていない。オタク・タイプが多い。その人たちが常連となり、主催者と親しくなる。ズケズケとものをいう。だから、ゲストが嫌な思いをする。打ち上げにも参加せずに帰る監督もいた。

また知人から、その町では他県から来た人をあえて無視するという市民性もあると聞いた。特に都会もんには舐められたくない。だから、飲み会でも皆、あんな態度を取ったのだ。それらがミックス。年々、観客が減る。一度来たゲストは二度と来ない。ということのようだ。映画祭は全国各地で開かれている。しかし、本当の意味でうまく行っている映画祭は少ない。それは主催者が

「映画祭とは何か?」

を理解せず、勉強せず。単にホールを借りて映画を上映するのが映画祭だと勘違いしている人たちが多いからだ。その映画祭でもそうだが、ゲストに対するホスピタリティがない。歓迎もしない。あえて無視したりする。

先日の熱海国際映画祭も、新聞記事になるような事件を起こしている。参加した人に聞くと、まともに映画上映もされず、散々だったという。会場はホールや映画館ではなく会議室、カーテンの間から外光が入り、スクリーンが見辛い。それを上映途中にスタッフが慌てて目張りしていたという。

明らかな準備不足。映画祭ではなく上映会だ。映画愛が感じられないと嘆いていた。挙句の果てに観客動員数を水増しで報告。儲かったかのように見せる。そもそも映画愛がなかったのでは?映画祭で大切なのは、映画ファンが喜ぶイベント。映画関係者が参加してよかったと思う対応。旅館やホテルと同じ。

「また、泊まりに来よう。来年も来たい!」

ゲストも観客も、そう思ってもらえること。まず、主催者自身が海外の映画祭等にも参加。学ぶことから始めるべきなのだ。単なる町おこしイベントでやってはいけない、まずそこに映画愛があるのか? ホスピタリティがあるのか? 考えてほしい。


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トーク番組を見て勉強。=舞台挨拶やラジオ番組で役に立っている?! [映画業界物語]

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トーク番組を見て勉強。
=舞台挨拶やラジオ番組で役に立っている?!

スピーチについて書いたら意外に反響あったので、もう一つ。関西で生まれ育った人なら分かると思うが、トークというのは「真剣勝負」。格闘技と同じ。相手がジャブで来るか?ストレートで来るか? それが来たら、即座に返す。どう返すとウケるか? 予想はしておくが、違えば別の返しをする。コンマ0秒の戦いだ。真剣勝負ではある

が、プロレスの要素もある。

相手の技をしっかり受けて、痛がったり困ったりという反応も大切。勝てばいいというものではなく、大げさに喜んだり、嘆いたりすることも大切。予定調和もダメ。時には凶器(?)を使ったり、場外乱闘もあった方が盛り上がる。その意味ではやはりプロレスだ。関西で生まれ育てば、その辺、日常生活で鍛えられる?たけしにして「お笑いは東京で10年修行するより、関西に1年住む方が勉強になる」と言う。

以前にも書いたが、映画公開、初日の舞台挨拶。ワイドショーなので報じられるが、本当に詰まらない。司会者が差し障りのないことを聞き、俳優が真面目に答える。監督のコメントは特に詰まらない。登壇する意味ないだろ?と思えた。僕が映画で舞台挨拶をするときは絶対にああはしない!と長年考えていた。

youtubeを調べてもらえればいくつも、太田組の舞台挨拶が上がっているので見てもらえるが、いつも僕が司会して俳優が答えるという形。必ず笑いを取るようにする。見ていて聞いていて楽しいものにする。舞台挨拶だって映画の一部だ。観客に喜んでほしい。実は昔からテレビ番組を見て研究していた。

古くは「テレビスクランブル」の久米宏と横山やすし。

「パペポTV」の上岡龍太郎と鶴瓶。「松紳」の松本人志と島田紳助。彼らのトークはなぜ、面白いか? ゲストも出ないで2人がしゃべっているだけでも1時間くらい聞いてしまう。まさにトークの基本が全部詰まっている。まさに漫才だ。2人がいてボケとツッコミ。リズム、テンポ、トーン、ネタ。オチ。いろんな大切なことがある。

しかし、上記は両者ともにプロ。舞台挨拶の場合。俳優は喋りのプロではない。俳優は意外にフリートークが苦手なのだ。セリフが用意されていないと苦戦する。その場合は、トーク番組で考えると、司会者とゲストという形。トークの下手な俳優が出ても、司会者が上手ければ話は盛り上がる。

その名人は萩本欽一。「欽どこ」「欽ドン!」「週刊欽曜日」

と喋りのプロではない俳優やタレントが出るが、彼ら彼女らから見事に笑いを引き出す。明石家さんまも同じスタイル。「さんまのまんま」「さんま御殿」「カラクリTV」と喋りができないタレントから素人まで。彼にかかると爆笑のトークになる。

トークの達人は久米宏だ。アナウンサー出身ではあるが、棒読みをするのはニュース原稿だけ、報道番組でも話口調で語る。それもトーンを変え、ボリュームを上げ下げして、視聴者を飽きさせない。笑いも忘れない。その辺の芸人では叶わない。

そんな人たちのトークを見ているだけでも勉強になる。自分は誰に一番一番近いのか? 誰のスタイルなら真似できるか? そんなことを考えて実践すればとても勉強になる。そして漫才の方法論。ボケる。突っ込む。真面目な番組でも、情報番組でもそれは大事な手法だ。

あるラジオ番組にゲストで出たとき、

アシスタントの女性たちが本当に酷くて、気分だけはプロで中身は女子大生という連中がいた。トークになっていない!あまりに酷かったので、チャンスを探してわざと怒って、突っ込んだ。彼女たちはあたふたして、司会者がフォロー。でも、単に怒鳴るだけでは視聴者が驚く。番組としてアウト。だから、関西弁で「なんじゃそれはー! あかんやろー」と笑えるツッコミにした。

ある意味で予定調和を超え盛りがったが、彼女たちは番組スポンサーの事務所所属だったので「もう番組に呼ばれないかも?」と思った。ら、会社からメールが来た。

「ぜひ、定期的にゲストで来てください。皆、勉強になります」

と書いてあった。なかなかのスポンサーさんだ。トークは真剣勝負。それを理解してくれていた。



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